強いからやさしくできるわけで、はじめからやさしいのがもっとやさしくなろうとすると、なにか陰湿で不気味なものを感じてしまいます。

第三章 恋愛は男の本質を見抜くことから

本表紙

恋愛は男の本質を見抜くことから

 ピンクバラ強い男かやさしい男か

 男に望むこと、というアンケートをOLに求めると、回答の一位はいつも「やさしい人」になります。
〈強くなければやさしくなれない。やさしくなければ愛せない〉
 アメリカのハードボイルド作家R・チャンドラーの名言で、強さとやさしさと愛の関係を表す鉄則になっています。
日本にも昔から、“気はやさしくて力もち”といういい方がありますが、いまの男たちを眺めていると、

「気はやさしくて力なし」

 というのが現実で、女性はやさしさを男に求めながら、もの足りなさを感じているのではないでしょうか。強いからやさしくできるわけで、はじめからやさしいのがもっとやさしくなろうとすると、なにか陰湿で不気味なものを感じてしまいます。

 では、やさしさはどこから生まれるのでしょうか。自己犠牲を恐れない勇気からといえるのではないでしょうか。
 ちょっと私の高校時代の修学旅行のときの話をしてみましょう。このなかに強さとやさしさ、男と女の心の機敏、男の友情などがすべて詰まっているからです。

 もう四十年以上の話です。
 高校時代最後の修学旅行は、三泊四日の関西旅行でした。その中の一日は、グループごとにツアープログラムを作って、自由行動をすることになっていました。
 男子系の高校だったので、女子生徒は少なかったのですが、Mというきれいな女の子がいて、クラスのマドンナ的存在でした。

 このマドンナを中心にして、私を含めて四人のニキビ面のライバルがグループを作って、自由行動をすることになったのです。
 四人とも内心では我こそはナイトと思い、スキをうかがってはサービスと自己アピールの戦いが繰り広げられたのです。

 そんな状況のなかで法隆寺の拝観が終わったとき、ハッと気が付いたら日が暮れ始めて、一台のタクシーも見当たらなくなっていました。

 思春期直っ只中の若者たちは、マドンナを中心にときのたつのも忘れていたのです。
 彼女のために、ナイトたちは走り回り、電話をかけまくり、やっと一台のタクシーを探し当てました。

しかし、乗れるのは四人、ひとりあぶれてしまいます。困った男たちが顔を見合わせているうちに、Iという男が、
「さあ、乗った乗った」
 と、マドンナと三人の男をせかせて、車に押し込んでしまいました。後にIひとりが残ったのです。

「オレはすぐにタクシーを探して帰るから、早く行った行った。門限にみんな遅れるとまずいぞ」
 タクシーはIを残して発車し、Iはひとりで手を振っていました。三人のなかのひとりで、タクシーに押し込まれてしまった私は、内心で負けたとホゾを噛んだのを今でも覚えています。Iが恋に勝ったのはいうまでもありません。

 そのときだけでなく、Iは日常の学校生活のなかで犠牲精神をしばしば発揮していたのです。他の三人の男たちは、何ともあれマドンナの側、目の届くところに必死で位置を占めていただけで、マドンナの気を引くことはとうとうできませんでした。

 Iは男友だちの必死な椅子争いもちゃんと承知していたけど、そ知らぬふりをしていたのです。そして、一人の女の子のことで熾烈な奪い合いをして仲たがいでもしたら、そのほうがよほど悲しいと思っていたのです。

 一方マドンナは、Iが他の三により自分に冷たいのを知っていました。モテる女の子というのははなはだ残酷で、すり寄って来る男にはどうしても女王さま気取りになるものです。
 しかし、ひとりだけ何となくそれほど夢中にならない奴がいると、みょうに気にかかります。気になるということは、すでに恋ごころです。

 歌の文句ではないけれど、恋はフシギね、です。
 自分にゾッコン夢中になり、いつでも意のままになる男より、距離を置いている奴の方がちょっとシャクで、何とかしたくなるのが女ごころというものなのです。

 この恋物語には後日談があります。
 若者たちが中年になり、昔の仲間が集まったクラス会を開きました。
 マドンナはボクたちの仲間とは結婚することはありませんでした。
 高校時代いちばんマドンナに夢中だったEはいまだにシングルで、いまでもマドンナを忘れないでいる様子でした。

 クラス会のあとで、私はIとふたりで酒を飲みました。そのときIがはじめて告白したのです。
「マドンナもほかの男の人と結婚して子どももでき、幸せに暮らしているようだから言ってもいいだろう。
 実は、ボクはマドンナに結婚を申し込まれたんだょ。だけど断った。
 Eが死ぬほどホレていたのを知っていたから、とてもそんなことはできなかったんだ」

 女性には、Iの生き方はどう映るんでしょうか。
 鼻持ちならないキザな奴、とブーイングが起きるかもしれません。
 しかし男から見ると、Iはやさしく強く、友情に厚いタフガイなのです。
 Iは断固として恋よりも友情を選んだのです。

 男とはどんな動物なんだろう

 いまの時代、男らしい男というイメージは、女性ひとりひとりがそれぞれ勝手にきめることになっているようです。
 ある人にとっては、彼はステキな男かもしれないけど、別の人にとっては、ただ乱暴な奴といった具合です。

“男らしさ”なんていうものは、いまでは幻想にすぎないということを、女性は認識しはじめたのではないでしょうか。だとしたら、男にとって恐ろしい事態、といっていいでしょう。
 アメリカは西部開拓史のなかから、男らしい男をつくってきました。

 ジョン・ウェイン、シルヴェスタ・スターロン、アーノルド・シュワルツェネッガーといった系列の筋肉モリモリのヒーローたち、カウボーイからターミネーターへ、まさにタフガイのイメージそのものです。
 でも、この名前の羅列で、ああ暑っ苦しい、もう古いわよ、と思う女性が最近増えているということです。

 流行発信地のニューヨークで語り継がれてきた男性モデルの教訓は、次の四つです。
@ 女々しいところをなくせ。
A ボスこそほんとうの男。
B 「賢い樫の木」となれ。
C 他人を蹴落とせ。
ところが、この四つももはや時代遅れて言われております。
何ひとりでスーパーマンを気取っているのよ、という女性のキャッチコピーじゃないけれど“ボス”も一時代前の言葉、古色蒼然としています。

 とはいっても、女性のなかにはまだ古いタイプの男のなかに男らしさを求めたり、自分自身が相変わらず“女々しい”女だったりする人がいたりするから、価値観も混乱しても古い型の男と女でいたほうがラクかなと思うこともあるようですが、時代はたしかに変わりつつありまする。

 そうなのです。
 女性の新しい価値観の前で、男たちは新しい“男ぶり”を見せなければ選んでもらえなくなっているのです。
 こんな時代を迎えているのに、いままで男社会のなかで、男とはこういうものと育てられ、ノーテンキに生きてきた男は、長い間の習性からぬけきっておらず、パニック寸前といった状態に直面しているといっていいでしょう。

『失楽園』という三百万部に達する大ベストセラーを書いた渡辺淳一さんが、その小説と同時に書き進めていたエッセイがあります。
『男というもの』というタイトルで、これも三十万部を超えるベストセラーになりました。
「へえーっ、男とはこういうものだったの」
 と、目からウロコが落ちる思いがしたという読者の反響がたくさんありました。
 このエッセイのなかから“男とはどうしょうもないもの”の正体、男の心と体の秘密をいくつか拾いだしてみましょう。

【処女願望】

 〈男はその女性にとって最初の男になりたがり、女性はその男性の最後の女になりたがる〉とよくいわれます。
 いまどき何バカなこといっているのとシラける女性もいるでしょうが、まだまだ処女を求める男、純潔願望は多いのです。好きな女性を自分の色に染めたいという、独占欲です。

 渡辺さんは、なぜかとの問いに答え、処女でない女性はすでに他の男性と性的関係があることから、前の男との性的嗜好が身につき、馴染みすぎているのではないかと不安があるから、といっています。

 性的な面で前の男と比較されてはたまらないという思いは、男なら誰でももっているので、それはSEXへの自信のなさの表明でもあります。
 つづく 【エクスタシー】