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性への恐れ

 

性への恐れ

性への恐れ
 現在では性の解放がすすみ、性的に相当自由になっていることも事実であるが、その逆の現象も結構多くなっている。われわれ臨床家は、青年男子のインポテンツによる相談が増えてきたと感じている。結婚しても性的関係がもてぬために、われわれの所に相談に来られるのである。

 男性が異性との性関係を持てない心理的原因としては、母親から心理的な分離が出来ていないことがある、といわれている。人間が赤ちゃんから大人へと成長してゆく過程について、これまで述べてきたが、それを性心理学的観点から述べると、母子一体の、母子近親相姦的な状態から、子どもが分離・固体化し、異性との性関係を持てることが出来るようになる過程ということができる。

 このようなことを知っている人々は、現在の青年男子のインポテンツの増加現象を見て、すぐに、近頃の若者は母子分離ができていないものが多いからだ、と断定したりするが、事態はそれほど簡単ではない。
母子分離と言い、異性関係といっても、そこにはいろいろな次元があると筆者は考えている。

 子どもが母親の身体と自分の身体とは異なることを知るのも、母子分離のひとつの大切な段階である。思春期になって母親に反抗し、母と異なる意見を主張したりするのも、また大切な段階である。

 しかし、母というものは心理的には「母なるもの」として、実にひろい存在にまで拡張されてゆくもので、個人としての自分の母というものを超えるものであ。したがって、一人で生活し、社会のなかに住んでいても、ただ他人と同じく、他人のいうままに生きているとすると、それは広い意味では、まだ母子分離が出来ていないともいえる。

 つまり、自分の属している集団を母なるものとして、それにかかえこまれて、ただその集団の生き方に従ってゆき、自分の個性というものを生かそうとしない。

 従って、誰もが結婚するし、誰もが性体験をもつのだから、というので結婚生活をしていても、それは拡大された「母なるもの」、つまり、家とか村とかとの同一化によって行為をしているだけなので、それはある意味では、まだ母子分離が十分ではないということもできるのである。

 結婚とは異性とか、性ということをどのように受け止めているかによって、その人の母子分離段階の在りようが異なって来るのである。

 ひとつの例をあげて説明しよう。インポテンツの悩みで相談にきた青年は、新婚旅行の際に、性的関係がもてずに相談に来たのであるが、彼が不思議に思うのは、彼は新妻以外の女性と既に性的関係が何度もあり、その時はまったく問題なかったという事実である。彼と話し合ってすぐ解ったことは、彼の女性関係がそれまでと、新妻に対してとは変化しており、その点を彼が明確に認識していないということであった。

 彼はいわゆる荒っぽい性格であり、女性に対しても衝動の赴くままに接していくようなところがあり、結婚までの性関係はそのレベルで成り立っていたのである。ところで、見合いをした相手がたまたま美人であったため、彼にとっては今まで経験したことのない女性に対する労わりや、やさしさの感情が生じてきた。

 その上、このような男性によくあることだが、彼女が彼よりも数段上の人のように感じられてきたのである。
 少しくらいの美人だからといって、それほど感じることは無かろうと思われるが、女性に対するそのような感情が今まで開発されていなかった男性にとって、このようなこと案外よく生じるのである。
 
 新婚旅行のときに、彼の気持ちはもちろんうれしさで一杯であったが、彼の気づかないところで、彼の心と体は乖離(かいり)現象を起こしてしまい、彼が焦れば焦るほど、性関係を持つことはできなかった。人間の性というものは、意志の力だけでは何ともならない不思議さがある。彼は女性とからだで接することなら、今までよくやって来ていた。

 今、こころもからだも共に接するとなると、どうもうまくゆかないのである。性関係は、それが次元が高まるほど、多くのパラドックスを内包させながら成立するものである。そして、低い次元になるほど、単なる体の関係となり、それは別に難しいことでもなんでもなく、すべての動物が行っている。

 彼はいうならば、動物的なレベルで性関係を持つことができたが、そこにこころが関連しい来るとき、あるいは、猛々しいく女性に関係することが出来たが、そこにやさしさが含まれてくるとき、女性に対してどのように接していいのか、解らなくなったのである。

 このような例に接して考えられることが二点ある。まず第一点は、現在においては、昔に比べて男女の在り方が変化しつつあり、青年たちはお互いがどのように接していいのか解らなくなり、性的関係ということに、案外困難が付きまとっているということである。

 第二点は、これと関連しているが、昔から若者たちが持っている性の恐れの感情を大切にするべきだ、ということである。性はその衝動の強さの方が実感されることが――特に男性の場合――強いので、性への恐れなどというと変に聞こえるかもしれない。

 しかし、強い衝動に見合うだけの恐れが存在し、その微妙なバランスによって、われわれの行動は上手くコントロールされているのである。このような発言は、時代錯誤的に聞こえるかもしれないが、あんがい実情に合っているものと思われる。

 第一点についてであるが、この事は現在において週刊誌などによく書かれている性情報では、むしろ、性に伴う生理的な快感を重きにおかれ、それに対する抑圧が強いのは「現代的」ではないような錯覚に陥らされる。

 しかし、その一方では、既に述べたように男女の間の心理的関係に変化が生じてきており、男性は女性の存在を昔よりはより対等にみようとし、精神的存在としてみようとする態度は知らず知らずのうちに強化されてきている。

 相手を精神的存在として、かぎりなく高く評価しつつ、なおかつそこに肉体的な結合を願うことには、人間存在のもつ必然的なパラドックスが存在しており、それは簡単には成就し難いことといってもいいのである。

 このようなことを可能にするためには、やはり相当な猶予期間を必要とするし、人間を鍛えるために必要な苦悩が存在しなければならない。

 そこで、若者は一方では生理的な欲求として、自分の意志でコントロールし難い性衝動に襲われつつ、一方では自然に備わっている一種の恐れの感情との板挟みになって、簡単には性的関係をもつことなく苦悩することになる。

 このことは必要なことであるにもかかわらず、現代では性の解放という点が浅薄に解放され、性的関係に何らの恐れももたないことや、早くから性関係をもつことが望ましいと考えるような傾向があり、青年期の性の問題をますます難しくしているように思われる。

 性には多くのパラドックスが含まれると述べたが、性に対する恐れにしても、それはある程度無ければならないが、無強すぎても困ることは事実である。しかし、現代の風潮が、性への恐れをあまりにも蔑視する傾向が強すぎるために、本来的に備わっている恐れの感情を無理に抑えつけてしまったり、恐れるのはおかしいことだと決め込んだりして、そのために失敗したり、問題を大きくしたりしている人も多い。

 性関係をもつことは、動物も行っていることだから、別にそれ自体は大したことでもないし、誇りにすべきことでもない。ただ、人間として多くの文化的な要因を背負いながら、そのなかで性関係を持つことによって、そのありようが変化するのである。性ということを、何でもないように考えて――実際は、どこに無理を感じさせるのだが――多くの性関係をもつ若者たちに会って話を聞くと、彼らはそれを本当の意味で、どれだけ「体験」しているのか疑問に思うことが多い。

 フリーセックスという言葉があるが、やもすると、それは人間が「性」の力によって自由にあやつられることを意味してしまい、人間が性を自由にすることとは程遠いことになるのである。

 むしろ、性に対する恐れの気持ちを受け容れて、大切にもちこたえていると、適切な時の訪れと共に、それは望ましい性関係へと開花してゆくものであることを知っているべきであろう。

 性に対する恐れの背後には、既に述べたように、母子分離に伴う不安が存在していることも事実であるが、そのことを直ちに、マザー・コンプレックスの問題として切り棄てるのではなく、それがどのような次元における母性との関連においてなのか、よく考える必要があろう。

 母からの分離と言っても段階があり、母子一体の世界観に安住していても、人間は身体的には、結構、性的関係をもてるのである。ただ、そこでは性的関係における身体的要素の方が大きいウエートと占めるであろう。

 何度も繰り返すようだが、そこにどの程度の精神性が関与して来るかによって、関係の次元が異なってしるし、母からの分離という際の「母」の意味合いも、より深いものへと変わってくるのである。

 この事をよく知っておかないと、現在の青年男子のインポテンツの問題を解決すことができないであろう。
  つづく  2 からだの拒否