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恋することと、愛すること
愛の期待について
男性のドン・ファン的心理について
恋することと愛すること
恋のかけひきについて
初恋二つの危険
シラノの恋・オセロの嫉妬
嫉妬について
情熱と愛とのちがい
純 潔
肉体的なもの処女と童貞と
純潔主義の危険
古くさい純潔への批判ぼく等は今、極端な純潔主義が陥りやすい危険の一つについて考えてみました。そこで、さらにもう一つの危険のことにも言及しておきましょう。
それには肉体や肉欲に対する偏狭な考え方を生むということです。これは外国のように純潔主義が宗教から発生している国では特に見られる傾向であります。人間を霊と肉に別けます時、霊の側に全ての徳をおき、肉とはただ罪と暗黒との世界でしかないとう考え方にあります。皆さんの中にはクリスチャンの方もいられるかもしれませんから、この愛情は分かって頂けるでしょう。またクリスチャンでない方も、先ほどちょっと、書きましたように、若い女性として、肉欲にある嫌悪感をおもちの方は随分、たくさんいられるにちがいないと思います。
恋愛における純潔の意義読者の皆さまの中には反対される方もあるかも知れません。肉欲は母性の使命に結びつかなくても、別の美しい意味をもっていると。たとえば、愛する者たちがもっと無償な気持ちでたがいに心と体を与え合う時、肉欲は決して汚れたものにはならないと。
いわゆる恋愛至上主義者たちの説くこの言葉は勿論、ぼくもわからないではありません。しかし、結論から先に申しあげれば、皆さまはどんなに愛しあっている男性がいても、できるだけ、肉体的な限界を結婚前に越えぬようになさい。それは極端な純潔主義から申すのではなく、その恋愛をあかるさや幸福にみちびくために必要だから申しあげるのです。
エロスについてエロスという言葉には色々な意味があります。この言葉は普通、アガペという言葉と比較されて、後者が精神的な愛を指すのに対し、一般に肉体的情熱、性的な愛を意味する場合が多いのです。
そこでぼくも、エロスをこの肉体的な愛に限定して申し上げることにします。
近頃は大変、少なくなりましたが、今でも皆さまの中には「肉体的な愛」という言葉を聞かれると思わず眉をひそめられる方がいらっしゃるかもしれません。
恋愛の感情のなかにもこうした肉体的な欲望をまじえることを大変、汚らわしいと考えになる人もいられるでしょう。
肉欲について肉欲について――この題をみて若い皆さんたちの中には眉をひそめられる方があるかもしれない。気の弱いぼくも、この不躾けな文字を書くのは、非情にタメライを感ずるのですけれども仕方がない。なぜなら、この問題は、やがて恋愛をなさる、また現在なさっている貴方たちが何時かはぶつかならねばならぬ世界ですから、やはり、眼をつぶっているわけにはいきません。御一緒に考えてみましょう。
純白の夜のためにけれども、こう書いたからといって、肉欲は何時、いかなる時にも充たされてよいものとは、ぼくは思いません。と申したからといってぼくは別に頭のカチカチな古めかしい道徳に捉われている男ではありませんし、この際肉欲を自由に濫用(らんよう)することを道徳的にわるいと言っているのではありません。
ぼくが恋人たちが肉欲の愛情を自由に濫用することを皆さまにお奨めしないのは、「恋愛とは難しい綱渡りのようなもの」という考えに基づくためです。
不幸と快楽快楽と幸福という二つの言葉をならべてみますと、そこには何か違った印象を受けるものです。快楽という言葉から、私たちは何か官能的な悦びを、感覚的な快楽、そして炎のように烈しく燃え上がるが、やがて燃え尽きるものを感じます。だが幸福と申しますと、河のようにひろびろとしたもの、感覚だけではなく、ふかい経験や理性に支えられてゆっくりとしたもの、烈しくないが、決して燃え尽きない暖い火のようなものを心に浮かべます。だがそれだけではやはり二つの区別は曖昧です。この点をもう少し深く考えてみましょう。
快楽のもつ悲しさ快楽が求道の路に通ずるのはその時です。もちろん、現実の苦痛や不快から逃れる手段として快楽にたよることは確かに私たち人間の弱さを示しているでしょう。けれども、それだからといって、私たちは快楽に走る人を頭ごなしに軽蔑することはできない。なぜなら世の中には現実の苦痛や不快に鈍感であり無神経であるが故に、快楽を求めないですむ人も多いからです。現実と自我との戦いも、その苦痛も味わわないですむ人、あるいは現実の底にかくれている悲劇をみないですむ人は、快楽を求める必要もありません。それは彼がえらいからではなく、むしろ人生の悲しみに対して鈍いためであり、人生の矛盾に妥協的である場合が多いのです。このような人がもし快楽を頭から軽蔑するとしたら、それは偽善にほかなりますまい。
愛の矛盾、あいのふしぎさ愛とは抽象的な理屈や思想で数学のように割り切れるものではないからです。愛というものはもともと矛盾や謎にみちたものであり、この矛盾や謎がなければひょっとすると、愛も無くなるかもしれないからです。
たとえば、御両親にしろ、友人にしろ貴方の倖せを願う人は誰だって貴方が幸福な恋愛をしてくれることを望んでいるでしょう。幸福な恋愛と言えばまた色々な考えがあるでしょうが、ここで常識的に言って悲しみや苦痛を伴わない恋愛としておきましょう。ぼくだって自分の妹が、誰かを愛し、その愛のために傷ついたり苦しんだり、不安になったり、疑惑や嫉妬をもっている姿を見るのはイヤです。できれば、そうした嵐の伴わない恋愛をさせてやりたいと思うでしょう。だが、そういう恋愛が可能でしょうか。いや、それよりも苦痛や不安を伴わない愛というものが存在しうるでしょうか‥‥。
古いモラルへの反抗 誘惑とか姦通が多くの人々の関心をひくような季節は、ふしぎなことですが、必ず時代の変革期のようです。古いモラルが次第に色あせ、くたびれ、意味を失おうとし、まだ未成熟だが新しいモラルがそれにかわって出てこようとすると時、ほとんどと言ってよいほど、誘惑や姦通が肯定されてくるものです。
たとえば――皆さんも恐らく御存知でしょうが、西欧には『トリスタンとイズウ』という有名な物語があります。これはトリスタンという騎士が自分の主君マルクス王の妃であるイズウを愛して、その恋のために二人はくるしい悲劇的な運命をたどる物語です。言いかえれば、トリスタンとイズウとの姦通を賛美した作品です。
著者略歴
1923年東京生まれ。慶応大学文学卒。1950年戦後初の留学生としてフランスに渡り、リヨン大学留学。1955年『白い人』で芥川賞受賞。代表作に『海と毒薬』『沈黙』など。日本ペンクラブ会長、芸術院会員など歴任。遠藤周作