足跡
旦那さん以外に抱かれたいと思ったことないの? と訊かれた。
ない、と答えると、澤井(さわい)はすとんと角砂糖をカップに落として
「私が知っている人妻は、皆、反対のことを言うよ」
ティースプーンを回しながら、こともなげに続けた。人妻、という言い方が彼女らしかった。
「何でそんなことを訊くの?」
私は首を傾げてから。ココアを飲み込んだ。溶け残っていたのか、どろりとした感触が喉を過ぎていく。
澤井は明るい窓に視線を向けながら。となり町の坂の上にある治療院なんだ。と言った。
「治療院?」
「そう、名目は。紹介制だから、もし興味あればと思ったんだけど」
澤井はたっぷりした黒髪を耳にかけて、最後までするわけじゃないっていうしね、とさらりと告げた。
女子大生のときからの友人だが、何を考えているのは未だに計り知れないところがある。
いきなり半年休学したと思ったら、単身、インドへボランティアに行ったり。かと思えば、怪しげな風俗雑誌でバイトを始め、記事を書いていたこともあった。
今は新宿三丁目のトルコ料理屋でウェイトレスをしながら、時々、ぶらっと海外へ行ってしまう。
私が、そういう人もいるのかもしれないけどね、と呟くと、彼女はさっと手帳を取り出して、紙を一枚破った。
「これ、電話番号。結婚しているのが条件だから、私は行ってみる事も出来ないんだよね」
瞬きしようとしたけれど、緊張して、上手くいかなかった。
押し付けられるような形で、数字の並んだメモを受け取った。
里芋と豚肉のカレーに、隠し味のオイスターソースを入れたところで、夫が帰ってきた。
「すごい、いい匂い。外まで香っていたよ」
振り返ると、夫はもう背広を脱いでいた。私は冷蔵庫を開けながら、おつかれさま、と言った。
食卓で向かい合うと、夫は旺盛な食欲を見せて、アボカドとトマトのサラダとカレーをすぐに平らげ、お代わりまでした。
夫は他愛ない会話を好む人だ。
クイズ番組を見ながら
「最後の将軍って、徳川慶喜で間違いないよね?」
と確認したり、このアボカドは硬くて美味いね、などと言ったりする。
夫との食事は楽しい。私はそこまで話し上手でもないのに沈黙を持て余さないし、アボカドや香草や豆乳なんかの癖のある食材も好んでくれるので作りがいがある。
「そういえば。澤井さん元気だった?」
という質問されたときだけ、手が止まった。
「うん。相変わらずだった」
「なにかあったの?」
私がびっくりして顔を上げると。眼鏡越しの丸い目が、きょとんとこちらを見ていた。
「なにも」
「そっか。君が、相変わらず、ていう時は、大抵、なにか大きく変わりがあったことが多いから」
私は苦笑して、そんなことはないよ、と首を振ってから、話題を変えた。
「そういえば、B号棟のかなちゃんって覚えている? 昼間、実家の母親から電話がかかってきて知ったんだけど、もうじき三人目の子が生まれるだって」
夫はコップに水を汲みながら、あの子って今幾つだったけ、とびっくりしたよに訊き返した。
「私の三つ下。でも、かなちゃんだったから分かるかも。結婚もすごく早かったし」
すると彼は腑に落ちたように頷いた。
「あの子。昔から子供好きだったもんな。団地の小さい子たちもよく遊んであげてたし」
こちらから振った話題のくせに、私は返事に窮して、黙り込んだ。
夫とは同じ団地のおとなり同士だった。たまに廊下で擦れ違う三歳年上の夫は黒い詰め襟の制服を着て、優しい物腰がお兄さんらしく、素敵に見えた。
デートを重ねるようになったのは、私が女子大を卒業してからだ。
素敵なお兄さんは、いつしか打ち解け合う恋人になり、結婚して三年経った今はむしろ気が合う親友のようだった。
入浴を終えて、寝室の明かりを消すと、夫は小さな豆電球を見つめながら、また楽しそうに喋りかけて来た。
私も近所の犬が尻尾を追ってくるくる回っていたことや、洗面所の白いタオルに赤い糸で刺繡した事を話していた。
ゆっくりと、沈み込むような吐息が聞こえて。言葉が途切れた。
眠っている夫の横顔をちらりと見てから、澤井の話を思い出した。昼間もらったメモは鏡台の引き出しの奥深くにしまっていた。
結婚して引っ越してから、となり駅に降りたことがなかったのは、自宅の最寄り駅のほうが栄えているからだ。
となりの駅前は、がらんとした道路が交差していて、コンビニエンスストアと花屋とスーパーマーケットが一軒ずつあるだけだった。
日差しの柔らかな道を歩いていると、小学校が見えた。子供たちの騒ぐ声が響いている。
そのすぐ傍に、うっそうとした林とも森ともつかない深緑地帯が広がっていた。石段の周りにはぺんぺん草が生えている。
自分の尻尾を追う犬のように、何度もくるくる回って迷ってから、意を決して、石段を上がった。
木陰の小道は、よく見ると、それなりに手入れがされていた。
石段を上がり切ると、道沿いに林が広がっていた。そのすき間を埋めるようにいくつかの一軒家が建っていた。その中のコンクリート造りの一軒に、真白治療院、という看板が出ていた。
石のポーチを歩き、ふるえる指で、インターホンを押した。
ほんの二、三秒の間があってから、どうぞ、という返事があった。落ち着いて、さらっとした声だった。
ドアを開けると、玄関から居間へは一続きになっていた。
革張りのソファーセットに、グレーのラグ。壁に掛けられた額縁の絵は、ゴッホの『夜のカフェテラス』のレプリカ。清潔感のある無個性なインテリアにちょっとほっとした。
下駄箱に靴をしまっていいものか迷っていたとき、奥から男が出て来た。
「初めまして。ご予約いただいた、石田千尋(ちひろ)さんですね。真白健二といいます」
白い診察着服に身を包んだ彼は頭を下げた。
品がないと思ったけど、頭からつま先までついじっくり見てから、初めまして、と私は会釈した。
肩幅は狭く、そんな背は高くなかった。唇は薄く。淡白な顔立ち。街中に出たら、風景のように溶けて、印象すらもあっという間に消えてしまうだろう。
彼は革張りのソファーを勧めると、テーブルを挟んで向かい側に腰掛けた。
「答えづらいことは、結構ですから。最初にこちらからお願いした書類を見せていただいても、大丈夫ですか?」
私は頷いて。コートを脱いで座ってから、何枚かの診断書を出した。それらを手に入れるだけでもひどく逡巡したことを振り返りながら。
彼はさっと目を通すと、すぐにそれを折りたたんで、こちらに返した。それを受け取りながら、指の長い人だ、と気付いた。
「ありがとうございます。澤井さんからのご紹介ですね。詳しい話は、彼女の方から、もう?」
「あの、ほんの少しだけ。でも具体的には」
彼は軽く頷くと、穏やかな笑みを浮かべた。
「基本的には、澤井さんからお伝えいただいたとおりだと思います。今から、こちらの問診票に記入していただくので、具体的な希望があれば、何でも書いてください。また行為の最中に、不快を感じたり、少しでも嫌な事があれば、おっしゃってくださいね」
行為、という言葉に思わず心音が跳ね上がった。
はい、と私は平静を装うって相槌を打ったものの、すぐに思い直して
「すいません、私、夫以外の男性に触れた経験もほとんど」
彼は微笑みはしなかった。笑顔よりもずっと清潔に感じられる真摯な表情をつくって
「承知しました」
とだけ答えた。
書き終えた問診票を手渡すと
「ではあちらの個室にお願いします。カゴの中にガウンが入っていますので、それを羽織ってください。仕度ができたら、中のベルを鳴らして、知らせてください」
私は背を向けて、言われるままに、廊下の奥の白いドアへと向かった。
中に入ると、薄暗い間接照明の下、ソファーが一台ずつ置かれていた。窓はなかった。加湿器がかすかに音を立てて蒸気を吐き、ふっと匂いを嗅ぐと、ほのかにオレンジの香りがした。一見アロマテラピーのお店と変わらないな、と思った。
足元に置かれたカゴを見下ろし、いよいよ緊張しながら、シャツのボタンを外した。黒いスカートが足元に落ちる。
誰かから体を隠すように、素早くガウンを羽織った。タオル地のガウンは軽薄なピンク色などではなく、上品なスミレ色で、とても肌触りが良かった。
金色のベルは、細く、高く鳴った。
ソファーに腰掛けて待っていると、ドアが静かに開いた。
彼は白い診察服のままだった。そっと、となりに腰掛けた。
目を伏せると、濃い影が近づいてきた。膝の上に置いた手に、彼の右手がそっと重なった。会話もなく始まるのかと戸惑ったものの、体温は高くも低くなくて、しっくり寄り添った。緊張につま先まで痺れていく。
ガウンが開かれていくと、突然、不安になって、体を反らせた。てっきり中断するだろうと思ったら、強い腕がふいによじった左肩を押さえた。
はっとして顔を上げると、薄い唇が、火照った頬にふっと触れた。花びらが落ちてきたような感触だった。まぶた、頬、首筋、となぞるように触れていく。初めて嗅ぐ淡い体の匂いが、夫とは全然違うことに子供のような驚きを覚えてしまった。
シャワーを浴びてから、化粧直しを終えると、居間のテーブルには湯気の立つ紅茶とマドレーヌが用意されていた。
彼は何事もなかったように、どうぞ、と紅茶を勧めた。お礼を言って、革張りのソファーに腰を下ろす。
「落ち着くまで、ゆっくりとしていってください」
と告げられて、短く頷いた。
彼は向かい側でチノパンに包まれた膝を揃えて、カルテになにかを書き込んでいる。
「あの次の予約の方は」
「昼間と夜の二部制で、それぞれ一人だけです。お会いになりたいですか?」
「え?」
「次の方と」
私は苦笑して、いえ、と首を横に振った。
「こちらはいつから‥‥」
「四年前ほど前、からです。良かったら、お話ししましょうか」
頷いてから、また来たい、といっているようなものだと気付き、ちょっと恥ずかしくなった。
彼は目を細めて笑うと、カルテを置いた。
「もう十年以上前になるかな。親父が借金をこさえて、専門学校の授業料が払えなくなったので、僕は夜のお店でホールスタッフをしていたんです。いわゆるホストがいる店の黒服です」
夜の店、と聞いて内心ほっとした。ごく普通の会社員だったら、あまりに脈略がなくて、そのほうがなんだか怖い。
「そこに来ていたお客さんで、すごい女性がいました。年齢は、もう六十歳近かったけど、ちっともそう見えませんでしたよ。見事なラインの黒いドレスに、プラダの個性的なハイヒールを足の一部のように履き慣らしていて、肌はいつも光り輝いていたし、瞳は生き生きして、好奇心の強い少女のようでした。彼女が来ると、いつもスタッフが愛想だけではなく、本当に元気になったものです。メニューなんて開いたことがなくて、ただ自分が飲みたいもの、食べたいものを、その日の気分だけで注文するんですよ。ごく自然に」
「そうとう、お金持ちの方ですね」
と私は素直な感想を口にした。それから、マドレーヌをつまんで、素早く口に入れた。
「そうですね。ご実家が随分裕福だったようです。見方によってはいくらでも下品に映りそうなものなのに、天性の育ちの良さが、その道楽や奔走を憎めない無邪気さに変えていたんでしょうね」
ふうん、と耳元で音が鳴った。顔を上げると、高い天井の照明のまわりを、小さな羽虫が飛び回っていた。
「その彼女が、ある夜、ひどく酔っぱらって店に来たことがあって。かなりお酒に強い人だったので、そんな風に乱れた姿を見せた事は一度もなかったし、なにせ特別なお客様でしたから、僕らも心配して、帰るときに数人がかりでタクシーまで送ることにしました。そのとき、ちょっと手が空いていた僕が呼ばれて。店の入り口で、彼女の手を取ったとき、突然、はっとしたように見られたんです。僕は内心なにか粗相をしたのかと、ひどく緊張しました。後日、彼女が店にやってきたとき、真っ先に僕のことを呼んだので、これはまずい、と思いながら、席へと向かいました。
僕が行くと、彼女はまっすぐに目を見つめて、私の愛人にならないか、と切り出しました。
「随分、唐突な話ですね」
と呟いた。いつの間にか、遠い国に流れ着いたような気がした。
「正直、圧倒されましたよ。それでも彼女の堂々とした、後ろ暗さのない態度には、不思議な魅力を感じて。なにより条件が良かった。僕は、半ば催眠術にかかったように、その提案を受けました。もちろんお店には内緒で」
魅力、という単語が、かすかに胸を刺した。二時間分のかかわりが淡い執着を生んだな、と気付く。
「その関係は三年間、続きました。随分後になって、どうして僕だったのかと尋ねたら、手が触れた瞬間に分かったと。これまで色んな恋愛をしてきて、女性を扱う才能のある男は、ほんの数秒、手の重ねただけで分かると。それから、もうじき旦那さんの仕事の都合で海外に移住しなければならないことを告げられました。彼女はとても真面目な顔をして、あなたは女性を抱く仕事をしなさい、と言いました。
場所や資金や人脈は自分が提供する。これまではあなたを独占していたけれど、それが出来なくなった以上、その資質を役立てるべきだと思った。そのときには、彼女の性格を多少なりとも把握していたので、そのとんでもない提案が本気だということも分かりました。そして、今、僕はここにいます」
真白さんが黙ると、私はすーと息を吐いた。
「色々不安を感じる方も多いので、お話するようにしているんです」
と彼は付け加えた。
「じゃあ、外に出ていた看板は?」
私が尋ねると、彼はちょっと不意を突かれたような顔した。
「あれは、僕が専門学校に通って取った資格です。二年前に一度だけ帰国した彼女に治療したときには、残念だけどこちらはあまり才能を感じないわね、と言われました」
私が笑うと、彼はほほ笑んでから、さりげなく銀色のトレーをテーブルに載せた。はっと現実に引き戻されて、私はハンドバックから財布を取り出した。
彼は敢えてそうしているように、きっちりとお礼を揃えてしまうと。真白治療院、とハンが押された領収書を切って、どうぞ、と私に手渡した。
ダイニングテーブルに頬杖をついてボールペンを握ったまま、いつの間にか、うとうとしていた。
目を開けると、手元の家計簿の文字が波打った。
トイレの扉越しに、水の流れる音がして、夫が出て来た。
彼はすぐに冷蔵庫を開けて、腹減ったかも、と言った。グレーのパーカーにジーンズなんて学生の頃みたいな恰好をしている。後ろ髪に寝癖がついている。
「なにか作ろうか?」
「それでもいいし、せっかくの土曜日だから、外に出ようか」
私は、うん、と頷いて、家計簿を閉じた。
裸の木立を仰ぎ見ながら、夫と歩いた。
夫は枝にとまった小鳥を見つめて、なんて名前だっけな、と存外、真剣に考えている。
私は後ろ手に組んで、ぼんやりしていた。真白さんとの出来事はほんの三日前だったけど、自分でも意外なほど目の前の現実とは切り離されていた。
駅前に新しく出来た洋食屋で、夫はハンバーグと海老フライのランチを頼んだ。私はナポリタンにした。幼い頃、近所の喫茶店で父が良く注文していたことを思い出しながら。
くるくるとフォークに絡めて口に運ぶと、昔よりもだいぶ上等な味がした。ケチャップはほんのり甘くて、ベーコンも玉ねぎもピーマンもたっぷり入っている。
「ハンバーグ、ちょっといる?」
夫が切り出したので、私は訊いた。
「もしかしたらナポリタン、羨ましくなったの?」
「当たり」
と彼はすぐに認めて、ハンバーグも海老フライも切り分けてくれた。
胃が膨れてきた頃に、近くの席に座っていた女性たちがどっと笑い声を上げた。
はしたないと思いつつ耳をそばだてる、結婚間近い娘の話題で盛り上がっているようだった。
「そうなの、うちの子は、私に似ちゃって、おかめでしょう。ドレスが似合わないったらないの。だから和装にしなさいって言ったんだけど。文金高島田がダサいからやーだ、なんて言って」
「えー。私の頃だって、文金高島田は嫌だったわよ。むこうの義母さんが勧めるから、嫌々被ったけど。あれ、どんな美人でもさあ、絶対におかめになるわよねえ。この前、結婚式あげた女優の子だって」
私はナプキンで口を拭いながら、彼女たちのひとりがこっそり真白さんの元へと通うところを想像してみた。
恥じらいも色気もとうの昔に置き去りにしてきたように見せかけて、その日だけば、こっそりワンピースを着て、紅を塗って、ひっそりと石段を上がる後ろ姿を。
顔を上げると、夫が不思議そうに笑った。
「食後にバニラアイスが付いてくるって」
夫の言葉に、私は目を伏せて、良いサービスだね、と答えた。
二度目の予約をするまではぐずぐずと一ヶ月かかった。一度目は、まさか、という気持ちがあったから良かった。二度目は言い訳できない。
反射的に、嫌、と発したときの取り合わなさ。本気で、嫌、と言ったときの、引きの早さ。本気で嫌だったはずのことも、そうじゃなくなる。そこまで見抜かれている気がした。
真白さんは、なにを尋ねるわけでもなく見抜くから、静かで熱い時間だけが流れていく。大人のおもちゃ、という曖昧な用語で包まれた即物的な器械だけが、ささやくような音を立てている。
罪悪感が芽生えないのは、本当に抱かれるわけではないからだろう。行為の内容はきっと、男性が足しげく通うような店とそこまで違いはないだろう。ただ女には即物的ではない、たくさんの余白が必要で、触れられる間際やわずかな沈黙の中に、真白さんはそれを作る。
枕に顔を埋めると、首筋に痛いほど、見られている気配を感じる。
彼自身は上半身すらさらすことはなかった。ずっと着衣のままでいることに違和感はなかった。むしろ素肌で体温を感じ合うのは近すぎる、と思った。白い診察服越しぐらいが、距離としてはちょうどいい。
シャワーを浴びて、ソファーに腰掛けてカップを手にしたら、冒険ではなかったですか? と彼が尋ねた。
私はそうですね、と答えた。
「もしかしたら、なにも知らないからこそ、覗いてみたくなったのかもしれないです。私の、知らない私を」
「そうですか」
頷いてから、お茶を飲もうとすると、カップの縁まで熱かった。こわごわ飲み込むと、渋みが強く舌に残り、この人の淹れるお茶はあまり美味しくない、と気付く。
女性を扱うことと、上手にお茶を淹れることは、少し近いように感じられるけれど実際は無関係なのだな、と思った。
またゆっくり話をするのかと思った直後に
「じやあ、お会計をお願いします」
初回とは異なる温度で言われ、私ははっとした。
気まずさを誤魔化すようにバッグから財布を取り出し、お札を渡した。
彼はお釣りと領収書を差し出すと、ありがとうございました、と素早く頭を下げた。
私は憮然として外へと出た。
雑木林の中から、青空を見上げた。泣きたかった。悔しくて、惨めな気持ちだった。
私はまたここにきてしまうのだろうか。損なった気持ちを取り返すために。
そう考えたら、この世の多くの女性がどうして分かっていて深いところに落ちていってしまうのか、初めて理解できた気がした。
澤井が入院した。
ボランティアで向かったインドで滞在中から高熱が続き、帰国後、すぐに市の総合病院に運ばれた。
私はお見舞いの花を持って、北風の抜ける駅前で病院行きのバスを待った。
病室に入って行くと、澤井はベッドに横になっていた。想像していたよりもやつれてはいなかった。スウエットの肩がちょっと余っているくらいだった。
彼女は体を起こすと、短くなった髪を掻き上げて笑って見せた。
「大丈夫?」
「全然、元気」
と言い切ってベッドから下りようとしたので、私は片手で制して、花を差し出した。
「ありがとう。大したことないのに、わざわざごめんね」
「退院できるの?」
「あらかた検査は終わって、その結果が何ともなかったら。まあ、派手にお腹壊しただけだから、たぶん水か食事でしょう」
彼女はそう言うと、サイドテーブルに花束を置いて、こちらを見上げた。
真白さんの事を訊かれるかと、軽く身構えたら
「今日は旦那は?」
と言われたので、よけいに後ろめたくなった。
「友達と、釣りに行っている」
「ふうん。海釣り?」
「うん。鰺なんかが釣れると、たたきにできて、いいんだけど」
彼女は、いいね、と笑った。今度、日本酒でも持って遊びに行くよ。
「私、恋したんだ。それで、本当は一週間だけ滞在する予定だったんだけど、延長して、彼の家で何度もご馳走になって。そのときの食事で、なにか合わないものがあったんだろうね」
私が目を見開くと、彼女はいたずらっ子のように笑った。
「どんな人?」
「現地の小学校で教えているの。最初は、現地の人の顔ってあんまり区別つかなかったんだけど、彼ひとりが銀縁の眼鏡を掛けてたせいか、ちょっと知的で素敵に見えまして」
最後の唐突な敬語は照れ隠しかな、と思った。
「インドって、やっぱりカレーが主食なの?」
「カレーっていうか、カレー粉? あと、いろんな香辛料も。空港に着いた瞬間から匂いぷんぷんだよ。今まで、日本って無味乾燥でつまんないと思ってたけど、帰ってきて、一人になったらほっとした。空気の薄さとか、あまり関心を持たないで放っておいてくれる距離感とかに」
日本から出たことのない私は、そうなんだ、とだけ答えた。
「当分、日本にいるの?」
「うーん。体調次第かな。また会いには行きたいけど。現実的には、なかなか難しいよね」
その冷静な台詞に驚いた私は、思わず訊いた。
「忘れられる、もの?」
澤井は不思議そうに、え、と笑いながら訊き返した。
「その、相手のこと。合わなければ、あっさり忘れられる?」
「どうしたの? 同じ団地の幼馴染と結婚したような人が」
「それ、どういう意味」
私の表情が強張っていたのだろう。澤井はすぐに首を振って
「悪い意味じゃなくて、ちゃんと地に足のついている千尋がそんなことを訊くんだな、て思って。だってインド人だよ? 本当にカレーばっかり食べているんだよ」
「私たちだって、ご飯とみそ汁ばっかり食べているじゃない」
「でもカレー味のみそ汁を毎日飲むわけじゃないし」
「カレーはどうでもいいとして」
「どうでも良くないよ。カレー味のみそ汁を毎日飲むんだよ。彼と本気で付き合うっていうのは、そういうこと。うちの親も、もう歳だし」
彼女の口からいきなり親という単語が飛び出したことに、面食らった。
「今回、一瞬だけど死にそうになって、病院に駆けつけて来た親の顔を見たら、さすがに罪悪感が湧いてきて。それに私、昔から子供が欲しかったから。できれば三十歳までに産みたいし。それを思うと、そろそろちゃんと考えないとなって」
私は眉をひそめて、じっと澤井の話を聞いていた。
どうしてそんなことを言うの、と責めたい気持ちがふいに湧きあがって来た。
昔から澤井の奔放さに憧れていた、わけでない。むしろ自分とは対極にある子だと思っていたからこそ、適度な距離感で付き合ってこられたとも言える。
真白さんことで初めて共有できるものができた気がしたのに、梯子を外された気分になりかけて、気付いた。
私たちの通った女子大は良い家のお嬢さんが多い事で知られていた。澤井もその中の一人だったのだ。
だからどんなに好き勝手をして、本当に危ないところには落ちない。彼女が参加しているボランティアだって、よく考えてみれば、いかにもお金持ちのお嬢さん好みの趣味だ。
私はサイドテーブルにあった本に手を伸ばした。
懐かしい。女子大の頃、英文科の女の子たちの間で流行った『停電の夜』だ。もっとも当時の私にはあまりピンとこなかった。
そっとページを捲る。今なら表題作の、関係を修復できない夫婦の物語を理解することが出来るだろうか。
ねえ、と澤井が気づいたように、言った。
「千尋は、子供が欲しいとか考えたことないの?」
私は本を閉じると、即座に、答えた。
「昔から、子供、苦手だったから」
一息つきたくなって、ロビーの椅子に座って紙コップのお茶を飲んでいたら、くしゃみが止まらなくなった。
訝しんでいると、となりにいた若い女性がはっとしたように、胸に抱いていた赤ん坊に手を添えて立ち上がった。抱っこ紐から出た小さな手を見て、嫌がられたのだと気付く。淀んだ気持ちが胸を覆いかけたとき
「もしかして猫アレルギーですか?」
と訊かれた。
「え?」
「猫、飼っているんです。コロコロとか使って気を付けているんですけど、毛がどうして着いちゃうから」
彼女は片手でコロコロを服の上に滑らせる動作をした。赤ん坊がその動きに合わせて上下する。靴下に覆われたつま先は安心しきったようにだらりしている。
「いえ、違います」
彼女はほっとしたように、そうですか、とまた椅子に腰を下ろした。
「私の実家でも、昔、飼っていましたから」
と伝えると、彼女は、そうなんですか、と嬉しそうに言った。その瞳には猫と子供に対する愛情が同居していた。ショートカットの黒髪や丸みのある顔がまだ若々しい。私よりもずっとまっとうな人。
旦那さん以外に抱かれたいと思ったことはないの?
澤井の質問を、私は今この瞬間、彼女にしてみたかった。
ふいに目が合う。にこっとほほ笑まれて、反射的に笑い返してしまう。
「赤ちゃん、可愛いですね」
と当たり障りのない話題を振ると、照れたような笑みが返ってきた。
「私に似ちゃったんで、だいぶ顔がまん丸なんですけどね」
「そんなこと。すごく可愛らしいですよ」
彼女の謙遜するような笑みが、なぜか一瞬、消えた。なにか余計なことを言ったかと不安になっていたら、彼女はゆっくりと赤ん坊の顔を覗き込んで
「そうなんですよね。生まれてみたら、びっくりするほど可愛くて。容姿とかって愛情には関係ないんだな、て思ったんです」
なにか大事なものを手に入れたように、ひとりごとのように繰り返した。気分を害したわけではないと察してほっとした。だけどどうしてそんな反応をされたのかは分からなかった。
私は会釈をして席を立った。彼女は、お大事にしてください、と声を掛けて来た。
日の当たる玄関口を出ながら、いっそ光の中に消えてしまいたい、と一瞬だけ思った。
足の親指が、生温かい暗闇に包まれていく。
人の口の中ってこんな感触なんだ。と内心びっくりする。
足元から上がってきた真白さんの影が、重なる。表情を見守られながら、指が入り込んでくる。ゆっくり、ゆっくり力を抜いて、自ら落ちていく。
ふっと薄暗い天井を見つめて
「本当に、子供はいらないんです」
と私は呟いた。
彼はそっと手を止めて、ん、と訊き返した。
「既婚で子供を持たないことは、お金とか、身体的な問題とか、理由が必要で。単に子供が欲しくないと思っていないというだけで、なにか人間として欠けているように受け止められることが、時々苦しいんです」
「僕自身、子供はもちろん妻もいないので、そういう女性がいると、ちょっと安心します」
私は息を吐き出すついでに小さく笑った。きっと子供がいる女性にはまったくべつの言葉をかけるのだろうけど、たとえ本心なんてどこにもなくても、表面的な気遣いに救われることはある。
そっと自分の胸元に視線を落とす。大きく縫い合わせた真っ白な傷跡。引き裂かれた皮膚を無理やり引っ張り合わせたように引きつったまま残っている。
「気になりますか?」
と真白さんが訊いた。きっと私が聞いて欲しいという顔をしていのだろう。こういう勘がいいから、この仕事ができるのだ。
「傷跡自体はそこまで。ただ、私の心臓の病気が分かったときに祖母がとても悲しそうに謝ってたことが、今も印象深くて」
心臓病といっても手術すれば確実に治るものだった。祖母も昔同じ病気の手術を受けていた。
母が折に触れて、私の入院の話をしみじみと周りにしていたものだから、夫もだいぶ早い時期からそのことを知っていた。付き合い始めるとき、一から説明しなくても色んなことを知ってくれていて安心したことを覚えている。
「もしかしたら、あなたは怖いんじゃないですか? 子供に負わせてしまうことが」
私はその問いには答えなかった。代わりに言った。
「夫はまったく手術痕なんて気にしていないし、優しくて、いいひとなんです。それなのに、どうして自分がここに来たのかも、正直、分からないんです。ただ、今まで生きて来て、何かがずっと足りない気がしてた」
こんな仕事をしているからかもしれないけど、と真白さんは前置きしてから、言った。
「造形的に優れた肉体というものは、確かにあります。肌質にも明確に差がある。ただ優れたものにはそれこそ上には上があって、きりがなく、しかも意外と時間が経つと忘れてしまう」
「‥‥相手の顔も?」
彼は穏やかな笑みを浮かべたまま、はい、と頷いた。
「だから一人の時間に目を閉じたときに、浮かんでくるものは、傷跡だったりすることが、あります。それは本当に。その人だけの、唯一無二の形を」
嘘でもいいから、と私は呟いた。
「君の体が、君の体だけが綺麗で好きだ、と誰かに言ってほしかっただけかもしれないんです、でも結局、女性がセックスを求めている事ってそういう事じゃないかって思うんです」
彼が背中を撫でたので、その温かな首筋に私は顔を埋めた。
「真白さんは、きっとそのことを知っていると思って」
彼は、そうですね、と相槌を打ってから
「でも、そう言うことが分かるとか、分からない、とか、本当は大した愛情とは関係ない事だとも思う。女性の心が分かると言えば聞こえはいいけど、勘ばかりよすぎれば、結局、自分の心がなくなっていく」
私は上半身を離した。
「真白さんの心は何処にあるんですか?」
「分かりません。でも、あなたの心の在り処なら分かる。僕はきっと思い出すよ。その傷跡の形と、その奥にある心臓がどんなふうに鳴っていたかを」
彼は細い目でこちらを見据えた。
ふたたび抱き合うと、先ほどとは感覚が変わっていた。心は凪のようなのに、五感はいっそう研ぎ澄まされて、さらに細分化していくようだった。彼の膝の上に腰掛け、強くしがみ付く。いつもの棚の「アダルトグッズ」電バブ手を伸ばしかけた彼に向かって、首を横に振った。
彼は無言で、すぐにベルトを外した。私がその奥に触れるのを息を潜めて許していた。それからまた静かに腰を引いて、ベルトを締めた。紛らわせるように私の体を隅々まで丁寧に探った。その首に手を回して、いつしかうわごとのように、好き、とくり返していた。本当の恋はしなくても、今この瞬間に理解されていることに対する感謝を伝える言葉はそれくらいしかなかった。
終わってから、二人はぐったりとベッドに倒れ込むと、胸が締め付けられて、まぶたが熱くなった。
たとえ最後まで抱き合う事は無くても、彼の体がちゃんとその気になっていたことが泣きたくなるほど嬉しかったのだと気づいた。
前夜遅くから降り出した雪は、午後になっても、まだちらついていた。
「こんなに降るなんて久しぶり」
と私はコーヒーを淹れながら、言った。
「電車が止まらなきゃいいけど」
夫がテレビのチャンネルをニュース番組に変えながら言ったので
「今日だっけ? 結婚式のスピーチの件で、後輩の子と会うのって」
と私は椅子に腰掛けて尋ねた。夫は、うん、と頷いた。
午後三時になると、夫は今年初めてクローゼットから黒いダウンジャケツを出して着込んだ。
「むこうも夕飯は帰って食べると思うから、夕飯までには戻るよ」
と告げて、出て行った。
掃除を済ませてから、ファー付きのダウンを着て、外に出た。さすがに雪はやんで、遠くの空の雲が真っ赤く染まっていた。
駅前のスーパーマーケットで買い物を済ませて歩いていると、ファミレスのガラス窓の向こうに、夫の姿を見つけた。
向かいの席には髪を下ろした女の子がいてコーヒーを飲みながら、明るい笑みを浮かべていた。
私は買い物袋を持ったまま二人を見つめた。
大学の後輩が春に結婚するという話は、ずっと前から聞いていた。その結婚式のスピーチの件で会うということも。
夫はテーブルを挟んで、誠実な距離を保ったまま話していた。
それでも私は視線をそらすことができなかった。
夫が口を開くと、少し遅れて、後輩の子が笑顔になる。口を手に当てることもなく、上半身を前後に動かし、大らかな笑い方をする子だった。茶色いセミロング。クリーム色のタートルネックのセーター。オレンジ色のチークは、ほんのり色付く程度。傍目にも健やかで性格も良さそうな子だった。
冷えていく体温を感じた。
最後に夫と寝たのは、昨年の夏、軽井沢のホテルに泊まったときだった。
ほとんど体を重ねないのは、眠る前に仲良く語り合うだけでお互い満たされてしまうかだと分かっていても、今の私には、夫の肌や体つきを思い出せない。
毎晩、食卓を挟んで親友のように会話をとる私たちと、彼らとの間には、どれほどの差があるというのだろう。
私が引き返して買い物袋を駅前のコインロッカーに預け、駅に行った。
となり町の駅は、閑散としている分、ずっと雪が多く感じられた。積もった道を歩きながら、携帯電話取り出した。
永い呼び出し音の末に、諦めかけていたときに真白さんが出た。
「あの、これから予約したんですけど、難しいですか?」
彼は、大丈夫ですよ、と告げた。歯医者の予約ぐらいの軽さで、それから夜の予約が雪でキャンセルになったのだと付け加えた。
森の入り口は、白く霞んでいた。
枯れ枝にマフラーやコートを引っ掛けないように気を付けながら、石段を上がった。前回生まれた感情がじょじょに濃くなっていくのを感じながら。いけない、と分かっていながら。
石段を上がり切ったところで、突然、足がすくんで動けなくなった。
治療院までの道には、びっしりと雪が積もっていた。
その雪の上にできたばかりの白い足跡が、残っていた。
おそるおそるブーツを重ねてみると、私よりもわずかに小さく、まぎれもなく女の足跡だった。
私は踵を返した。
石段の雪はすでに溶けかけて、何度か滑り落ちそうになった。
大晦日の夕方、私たちは電車に揺られて、実家へと帰った。
公園の前を通りかかると、日が暮れて誰もいなかった。私がジャングルジムを指差しながら
「あのてっぺんから落ちた事がある」
と告げると、夫はまじまじ見上げながら、よく死ななかったね、と感心したように呟いた。
あの頃、お城のように感じられたジャングルジムは今も十分に高くて、自分がたかだか数十センチしか成長していないことを実感した。
団地に到着すると、夫は郵便受けを覗いてから、先に階段を上がった。
その背中を見ながら考える。私が真白さんとしている事を知ったら、夫は怒るのだろうか。悲しむのだろうか。
「一度、あなたの昔の彼女が、夜中に公園で一緒にいるところを見たの。一つのブランコに、子供みたいに二人乗りして揺れてたね」
私はそう言いながら、夫に謝るつもりもないのに責められたいのだ、と気付いた。
愛憎にまみれた男女のように責め合って、ぐちゃぐちゃになって、そして言って欲しかったのだ。
「はは。しかし千尋と夫婦になって、この階段を上がるなんて。詰め襟着てた頃は、想像もしていなかったな」
本当は、ずっと君に憧れていたのだと。
「そうね」
となり同士のインターホンを押してから、二人で顔を見合わせて少しだけ笑った。
私の母が先に飛び出してきて、あら面白いことして、とからかった。昔から着ているグレーのセーターには小さな毛玉がいくつも出来ている。白髪染めはしているけど、化粧っ気は全くない顔。ああ、私の母だと実感する。
今度は夫のお母さんが出てきた。白いブラウスに薄紅色のレース編みのボレロを羽織った格好で、千尋ちゃん、久しぶり、と笑った。この古い団地の中で、ずっと爽やかな華やかさを失わない人だ。私は会釈した。
「さっき、二人で相談してたんだけど。夜はうちですき焼きにするから、ちょっと休んでいらっしゃい。おかずはね、作って持ってきてくれるっていうから」
「おかずと言っても、きんぴらとか。ちっとも大したものじゃないけどね」
「あら関係ないわよね。子供にとっては、慣れた家の味が一番よ。千尋ちゃんって、たまには楽しみたいよね。この子、昔からぽっとして、あんまり気が利かないから」
畳み掛けるようなやり取りに、私たちは笑って、それぞれの家の中に入った。
ベンダに出ると、夜空は無数の星のすみかだった。
熱い首筋が心地よく冷えて行くのを感じていたら、となりのベランダの窓が開く音がした。
「千尋?」
白い仕切りの向こうから夫の声がした。
それぞれのベランダは仕切り一枚で隔たれている。
高校生の頃、夜中にベランダに出ると、となりから煙草の匂いが流れてきたのを思い出した。そのときだけは、夫が知らない異性のようだった。
お互いに気付いたときには、喋ったりもしたけれど、たいてい私は息を潜めて黙ったまま、かすかな煙の消えていく先を目で追っていた。
「久しぶりに、煙草?」
私が訊くと同時に、ライターの鳴る音がした。
「もう隠れなくてもいいんだけどね。母親の前で吸うのって、なんか気まずくて」
癖だね、と笑った。
暫く待っていると、目の前に白い煙がすっと流れてきた。銀河のように夜を透かし、揺らめきながら、どこまでも上がっていく。
白い仕切りの向こうから、煙草を右手に挟んだ夫が乗り出していた。
「どうしたの?」
「あの頃、よく千尋もベランダにいたよな」
「え?」
「千尋は気付いてなかったと思うけど、俺たち、同じ時間によくベランダに出ていたんだよ」
「何度か話したのは、覚えているけど。気付いてたなら、もっと声を掛けてくれれば良かったのに」
私が文句を言うと、夫は真顔で返した。
「そりゃあ、意識してたから。となりの女子高生が、夜中にベランダの仕切り越しにいたらドキドキするよ」
私が白い仕切りへと近付くと、夫は一瞬だけ瞬きをした。
夫の空いているほうの手に指を絡めながら、キスをした。
二人とも等しく、礼儀正しく、よそよそしく緊張していた。
唇を離すと、夫が照れ臭そうに微笑んだ。
その瞬間、津波のような罪悪感に呑み込まれた。ようやく自分が何をしたかを悟った。
真白さんのことを、万が一、夫が知ってしまったら。この人を失ったら。想像するだけで嫌な汗が噴き出した。神様、お願いです、許してください。もう二度としません!
叫びたくなるのを堪えながら、夫を見つめると、熟しすぎた果実が裂けたように甘い感情がゆっくりと滲んだ。
自分が何より欲しかったものはこの罪悪感だったのだとようやく気づいた。
真白さんは、いつものように出迎えた。
私は儀礼的に会釈した。
その態度に一つで、彼は察したようだった。
「ソファーに、座りますか?」
首を振って、背後でドアが閉まる音を確認してから、玄関先に立ったまま
「私がここへ来ていた事は」
「もちろん誰に知られることはありません。良かったら、最初に書いて頂いた問診票も今この場でお返ししますか?」
お願いします、と私は答えた。
彼は奥の戸棚から数枚の紙を持って来ると、差し出した。
折り畳んで、すぐにハンドバックの中にしまう。帰るまでには捨てる事になるけど、それでも乱雑に押し込んだりはしなかった。それは自分の体を傷つけるように恥ずかしい事だと思った。
「皆さん、そうです。長くは続かない」
と真白さんは静かな口調で告げた。
私は、彼をじっと見た。
ここに来るまで、私の記憶の中の彼は、真っ暗だった。不安と恐怖が肥大した影と化していた。
今、目の前にいる彼は、あいかわらず物腰柔らかな青年だった。
「いつの間にか、来なくなるの?」
「そういう場合もあります。離婚する人も多い。そして新しい恋を見つけます。どちらにせよ、長くは続かない。ほとんどの女性は、二人の男のところへは帰れない」
私が黙り込むと、彼は一つだけ、とほほ笑んだ。
「旦那さんには決して打ち明けないことです。理解されたいなんて考えないように」
「そうね」
と私は同意した。本当は、いつか話してしまうかもしれない、と思っていたのだ。それを見抜いたように彼は
「大丈夫、上手くいきますよ。あなたが自覚されたのだから。旦那さんを大切にしていけるはずです」
とにっこり笑った。
ああ、この人は壊れている、と初めて実感した。
この森の奥で、途切れることのない女性客を待ち続けて、歳を取っていく。
「あなたは、この場所を提供してくれた女性を待ち続けるの?」
私の問いに即答した。
「他人を愛することに興味がない人間も、いるんです」
諦めて、踵を返した。
「さようなら」
と彼が言った。私は、ありがとう、と背を向けたまま、返した。
森の小道は、ほんのわずかな草木が芽吹いているだけで、あとは茶色い地面が剝き出しになっていた。
土が柔らかくなっている所で、ふと立ち止まり、ぐっと右足に体重をかけてみた。
右足をずらすと、足跡は残らなかった。蟻の巣と見紛うぐらい小さなヒールの穴が空いただけだった。
私はまぶたに木漏れ日を感じながら、森を抜ける石段を下りた。
「性欲の強い女性の特徴」差し込み文書
性欲の強い女性像。男に多いテストステロン量を多く持っている。想像力が豊かで大人のおもちゃを持っている。三十代前半でセックスの良さもほどよく分かる。つまりオーガィズムに達するとき脳内物質ドーパミンが全身に射出すると全身痙攣を伴う快感を体得している。精神的に安定している。特に排卵期前後には露出度の高い服装を好む。お酒も好き。行動的で刺激的なことが好き。仕事能力も非常に高いというのが特徴である。
男性のように四、六時中性欲を発することは少なく、独身女性であっては排卵日前後とか、好みの男性と飲酒し、ドキドキ感、緊張感などの雰囲気中において猛烈な性欲を発する。しかし結婚したのち排卵日以外のセックスは、旦那の機嫌を損じると面倒くさいので義務とし、演技を装いイク振りして早く終わらせるという演出するというのが妻の優しさと男は心得ることだ。
「男性の性欲」
男性の性欲は個人差が大きく一般的には、仕事上精神的ストレスをあまり受けないブルーカラー労働者は精力絶倫という人が多い。本来男の性は
「オーガズム定義」男性性器図10精嚢に精液が満杯になると強烈な性欲を発する。人によっては夢精として下着を汚すことになる。
仕事上大きなストレス、家庭での大きなストレスを抱える人は男女問わず性欲は低い人が多い。
十八~二十九男性の性欲が一番強い年齢である。精嚢に精液が満杯になるには一、二、三・・・七日と個人差が大きい。
テストステロンが主として男性の性衝動を司るホルモンだという説に異を唱える者はいないようだ
精巣のライジヒ細胞で作られるクリスタル状のこの物質は、規則的なリズムで体の中を流れ、男性が生殖可能な年齢の間には、5分に一回ほどの割合でピークを迎える。
男性をセックス可能な状態にまで高からぶらせるのがテストステロンの仕事だと一般に信じられているため、欲望が極端に低い患者の治療に用いられたこともある。
90年代初めに行われたテストによると、テストステロンの低い患者に6ヶ月間テストステロンを補充する治療を行うと、勃起力が強くなり、射精の回数が多くなり、全般的にリビドーが高まるという。
男性の性欲は主としてテストトロンのレベルが保たれていることによって引き起こされる。このホルモンがあるから男性は、出来るだけ多くの相手とできるだけたくさんセックスをしようとするのである。かたや女性の性欲には、非常に異なる三つのホルモンが複雑に混ざり合って影響を与えている。
恋人同士のときは、ドキドキ感、緊張感が伴うことで会うたびのセックスをして旺盛で、二、三度性感を堪能しつつ交わり、そして新しい発見もあって、嬉しい楽しい日々があったと思う。
しかし結婚、出産、子育て時代に入るとドキドキ感、緊張感も失ってしまう。加齢に伴い男性の指先は、爪先両端が爪が裂け。或いは、指両端皮膚が角質化しセーターや布団に引っかかるようになってくる。このような指でクリトリスや膣内を触られたら傷だらけになり、数日後は大変な事態、産婦人科医に怒られることになる。
指サック、あるいはコンドーム特大サイズを手に嵌める。または、大人玩具を用いる人が多くなる。電バイブなど挿入が痛いという人も少なからずある。かのような人は当サイト発売の
ノーブルウッシングC型を用いると、男本身以上の能力を発揮する。是非一度使用して見てください。但し、ピストン動作激しい場合は破損しやすいので注意してください。破損した場合は細かく切り生ごみに出してください。
この三つのホルモン
三つのホルモンが正確に言えばいつどのように影響しているかをめぐって、ここ50年ほど議論が繰り広げられてきた。伝統的に女性に課せられてきた社会的プレッシャーに比べると、ホルモンの影響などないに等しいと主張する一派もいる。また、ホルモンの影響を受けているかどうかは一人一人異なり、一般論には意味がないという一派もいる。
また、ホルモンと性欲関係を探る研究は始まったばかりなので、はっきりした結論を出す段階ではないと主張すること人もいる。
実態はまだはっきりとしているとは言えないが、そろそろ仮説を立てるくらいなら許される段階に来た。そこでとりあえず、今の段階で解っていることだけまとめてみよう。
女性の月経サイクルとホルモンの満ち干はどういう関係があり、それはどのような心の動きを生み出すのだろうか。
エストロゲン
まず、エストロゲンについてみてみよう。このホルモンはいつでも生産されているが、排卵の直前に特に多くなる。セックス・セラピストのテレサ・クレンショウはこのホルモンを“マリリン・モンロー・ホルモン”と名付けている。“そばにきて私に触って! 私をあなたのものにして!”と訴えるホルモンだからである。女性を駆り立てるのも、このホルモンの仕業である。
テストトロン
二番目のホルモンはテストトロンである。女性の場合、このホルモンの量は男性よりずっと少ない。だが排卵期前後はぐっと量が増え、男性と同じ効果をもたらす。夜、相手を求めてさまよったり、タッチダウンを求めて走ったり、ビジネスで契約をまとめたり、何かを積極的に追い求めたり、戦いをものにしたりする背後には、テストトロンの働きがある。
このホルモンは、セックスにも関係がある。ふと立ち止まり考えずに前に進むのは、テストトロンのせいなのである。
プロゲステロン
三つ目のホルモンはプロゲステロンである。このホルモンはいわば“意欲に水をかける”ホルモンで、女性が家に溜まって家族の中に閉じこもりたくなるのはこのホルモンの働きなのである。
このホルモンの働きが強い人は、積極的・攻撃的な行動を取るよりもむしろ何かを育み、守る傾向が強い。また女性の月経サイクルの最後の方や妊娠期には、このホルモンは大量に生産される。
このように多様なホルモンが補い合って作用しあい、満ち干きを月ごとに繰り返す。これを理解すると、女性の性衝動に関してこれまでよりはずっと真実に近づける。
もう一度ウィーンのクラブに遊びに来ていたゾフィの例に戻ろう。
報告書によるとゾフィは26歳、長く付き合っているボーイフレンドがいる。彼女がクラブにやってきたあの夜、ボーイフレンドは家にいた。ボーイフレンドは疲れているので家で休みたいと言ったが、その夜のゾフィはなぜか落ち着かなかった。
セクシーなドレスに身を包み
そこでセクシーなドレスに身を包み、一人でクラブにやってきたわけである。
男漁りする気などなかったが、とりあえずそのための服装は整えてきた。来るとすぐに何人もの男が近づいてきたし、彼らと遊んでもいいかな、という思いがあるちらりと頭をよぎった。
研究者たちが彼女を見つけたとき、彼女はフル・スイング状態だった。頭をのけぞらせ、ドレスはめくりあがり、目には危険な光が宿っていた。
ゾフィに質問する研究者たちにとっては、これはなじみのパターンだった。決まった相手がいながら一人でクラブに来る女性たちは多かったし、彼女たちの服装や振る舞いにも共通するものがあった。
ゾフィの唾液を分析してみると、エストロゲンとテストステロンが両方とも濃い。排卵期だったのだ。
ゾフィのドレス、ホルモンの状態、そしてクラブに来るまでの経過から研究者たちになじみのパターンをまとめてみよう。ゾフィはその夜、妊娠可能な状態にあった。そしてボーイフレンドから離れ、一人でここにやってきた。
そして、クラブにいる他の女性、排卵期でない女性よりはずっとセクシーなドレスを選んで着てきた。報告書には、ゾフィがその夜ボーイフレンドではない男性とセックスをしたかどうかは記録されていない。
だが、それはどうでもいい。ホルモンの影響で、ゾフィはあの夜、もっとも妊娠する可能性が高い夜、そういう行動をとった。ここで疑問が出てくる。いったいそれはなぜだろう?
クーリッジ効果
多くの女性と性交するという適応上の課題に対するもう一つの心理的解答は、男性が女性によって欲望をかき立てられる現象、いわゆる「クーリッジ効果」に関係している。
この名称は、次のような逸話に由来している。合衆国第三十代大統領カルヴィン・クーリッジとその夫人が、新たに建設された国営の農場を別々に見学した。鶏舎を通りかかったクーリッジ夫人は、オンドリがメンドリと交尾しているのを目にとめ、オスはどれくらいの回数その務めを果たすのかと訊ねた。
「一日に何十回もです」案内の係員がそう答えると、クーリッジ夫人は言った、「そのことを夫に教えてあげてちょうだい」。次にクーリッジが鶏舎を訪れたとき、係員がオンドリの精力絶倫ぶりを話して聞かせると、大統領はこう訊ねた。「それは、いつも同じメンドリを相手にしているのかね?」「いいえ」係員は答えた。
「一回ごと違う相手ですが」それを聞いた大統領は、こう言った。「そのことを妻に教えてやってくれ」。新しい女性を目の前にした男性が性的に興奮し、複数の女性と関係する意欲をかき立てられる現象をクーリッジ効果と呼ぶのは、このエピソードからきている。
蛇猫奇譚
ふっくらした指がすっと近づいてきて、次の瞬間には、遮られていた視界がすっと開けた。
指の腹には、乾いた団子虫みたいな目やにが付いていた。
「本当に大人しいやつだなあ。普通、指で目やになんて取ったら。嫌がるよ」
旦那さん半ばあきれたように言い、ハルちゃんは誇らしげにティッシュで目やにを包んだ。ハルちゃんが足を伸ばして、若草色のソファーに寝転がった。たくさんクッションが並んでいるので、ボクが足の間に座り込むと、互いに身動きが取れなくなった。なんて心地良い不自由。ジーンズ越しでも内腿は温かい。
「そういえば、今日クリーニング屋にいったんだけど、セーターが安いハンガーに掛かったままで出てきた。あれって吊ったまま干しちゃうと、肩の所の形が崩れちゃうのに。まだ自宅で洗った方がマシだった」
旦那さんはテレビのチャンネルを変えながら、なるほど、と気のない返事をした。ぼく代わりに喉をごろごろと低く鳴らしてあげた。
「だから、サービス券を突っ返してやったの」
「は?」
旦那さんが面食らったように、振り返った。
「突っ返したって?」
「一週間以内に取りに行くと、次回使えるサービス券をくれるの。それを私。無言で拒否したの。店のご主人、すごく困ってた」
「どうしたの?」
旦那の問いかけに、ハルちゃんはきょとんとして、まばたきした。
「どうしたのって?」
「そんなことするなんて珍しいから。この前だって、バン屋の店員に怒ってたし」
「あれはレジが混んでたのにお喋りしていたから」
「いつもなら道でぶつかってきた奴にも謝る癖に。最近、変だよ。やけにいらいらしてる」
ハルちゃんは納得いかないという顔をした。
両手が伸びてきて、脇腹がぐっと持ち上がり、抱きすくめられた。
ハルちゃんが眉間を撫でながら、チータは分かってくれるようね。と訊いた。前足でしがみ付いて、にゃおう、と同意した。抱かれるのが嫌だという同輩も多いが、ボクにとってべたべたに甘やかされるのは至福のときだ。
ハルちゃんと暮らすようになったのは、三年前からだ。
寒さと空腹で、公園の花壇で行き倒れかけていたら、仕事帰りのハルちゃん見つかった。オレンジと黒の毛が交じってチーターっぽいという理由で、チータと名付けられた。
結婚してからも、ハルちゃんはボクを一番に可愛がってくれる。
旦那さんには、ズボンのポケットにティッシュを入れっぱなしにしたでしょう、などと尖った
声を出すけど、ボクのワガママには寛大だ。深夜二時にお腹が空いて起こしに行っても、寝ぼけ眼で台所に立ち、おかかをたっぷり振りかけた缶詰ご飯を出してくれるのだから。
ハルちゃんが朝から吐いたので旦那さんが調べて、日曜日でも診察してくれる病院に行くことになった。
赤いマフラーを巻くハルちゃんの足元で、ボクは鳴いた。吐くなんてよくあることだから大丈夫だよ。
ハルちゃんはこみ上げるように口を噤むと、ボクの頭を一度だけ撫でてから、旦那さんと出かけて行った。
お昼過ぎにハルちゃんと旦那さん帰ってきた。
ボクが出迎えると、旦那さんは上機嫌でコートを脱いだ。
「チータ。今年の夏にはうちに赤ちゃんが来るぞ」
赤ちゃん!
ボクはびっくりして、ひっくり返りそうになった。
昨夜ベランダで昼寝していたら、向かいの家の窓から、けたたましい泣き声が聞こえた。首をもたげると、窓越しに白いふわふわのドレスを着た赤ちゃんが見えた。
赤ちゃんは、お母さんに抱っこされても、おかまいなしに泣き喚いていた。毒でも飲んだかのように手足を突っ張らせてキリキリマイ、上半身をのけぞらせてはキリキリマイ。それは悲劇的なありさまだった。
ハルちゃんは、ちょっと休憩、と呟くとソファーに横になった。
あんなキリキリマイが来たら大変だよ。ボクはそう忠告した。でもハルちゃんはぼんやりと宙を眺めるばかりだった。
業を煮やして、ハルちゃんの膝に飛び乗った瞬間に
「チータっ」
青ざめた旦那さんによって、ボクはみごとに膝から弾き飛ばされた。
床に着地すると、ハルちゃんがようやく我に返ったように起き上がった。
「チータ、大丈夫!? あなた、チータには分からないのに」
「ごめん‥‥お腹の上に飛び乗ったら大変だと思って、つい」
「分かっている。けど。チータ、おいで」
ハルちゃんが抱き上げてくれたので、ボクはほっとした、胸の上にでろんと乗っかった。お腹に乗るのは当分控えよう、と思いながら。
「昼飯は僕が作るよ。春(ハル)、なにが食える?」
「トマトとツナのパスタなら、たぶん」
旦那さん、OK、と言って、台所に立った。
缶詰がぱきっと開く音がしたので、ボクはすっ飛んで行った。旦那さんはね仕方ないなあ、と呟きながら、空のお皿にツナを少し分けてくれた。
十数分後には、食卓の上で二皿分のトマトとツナのスパゲッティが湯気をたてていた。
「ちょっと塩味、薄いかな」
そう呟いた旦那さんのシャツの襟には、トマトソースが飛んでいる。
「ううん、大丈夫。美味しい」
朝から吐いてばかりだったハルちゃんは、スパゲッティをぐんぐん吸引した。細長い麺があっという間にお皿から消えた。鬼気迫る様子が、ちょっと怖かった。
食べ終わると。ハルちゃんはにっこり笑ってのたまわった。
「夕飯も同じものがいい」
旦那さんはフォークを動かす手を止めて、引きつった笑みを浮かべた。
となりの家の芝が背を伸ばして、青空が眩しくなる頃には、ハルちゃんのお腹はびっくりするほど大きくなった。
毎晩、ハルちゃんはベッドで寝苦しそうに汗をかいていた。寝返りが打てないので、朝まで落ち着いて一緒に寝られて、ボクとしては嬉しかった。
旦那さんは仕事から帰ってくると、味噌汁を作っているハルちゃんの後ろで、お椀を出したり、洗い物を片付けたりしながら
「今日も、ずいぶん動いた? 呼びかけたら、なにか反応した?」
と嬉しそうに尋ねた。
ハルちゃんは味噌を溶きながら、歌ってあげたら何度も足で蹴ってたよ、と答えた。
食後のお茶を飲みながら、ハルちゃんは病院からもらってきたエコー写真というものを出して、旦那さんに見せてあげていた。
ボクも横からそっと盗み見た。ぼんやりとした白い影に、ぽっかりと二つの黒い穴が開いている。みごとな心霊写真だ。
旦那さんは心霊写真をしみじみ眺めると
「さすがにどっちに似ているか分からないなあ」
と言った。きっと死んだら同じ顔になりますよ、とボクは思った。
「私に似ないで欲しいな。あなたに似て欲しい」
ハルちゃんは湯呑を上げると、真顔で言った。旦那さんは優しく、僕はどっちも嬉しいよ、と答えた。
「弟は、お母さんそっくりで美形なのに、私はちっとも似ていなかったからな」
「ああ。でも慧(けい)君は、たしかに綺麗な顔をしているけど、ちょっと冷たい感じがするから。僕は、今の春が、愛嬌があって可愛いと思うよ」
「ありがとう。せめて妊娠したからって、太り過ぎないように気を付けるね」
ハルちゃんはそう言って、笑った。ころんとした目、ころんとした鼻と唇。ハルちゃんは思わず蛇突きたくなる顔をしている。
「うちのおふくろが、生まれてから、大変だったら手伝いに来たいって」「え、でもお店もあるのに、栃木から出てくるなんて大変でしょう?」
旦那さんのご実家は、温泉街にある定食屋さんだ。
「まあなあ。お盆の時期とかぶると大変かもしれないけど。でも初孫ですごく喜んでるし、春のお母さんは亡くっているわけだから、本当に大変だったら、頼ってもいいと思うよ」
ハルちゃんは、うん、と言った。ちっともそのつもりはない目をして。
頑張り屋のハルちゃんは今も毎朝六時に起きて、旦那さんと自分のお弁当を作ってから出社する。家の中は以前と変わらずぴかぴかだし、洗濯物もカゴ一つ溜めることはめったにない。
真夜中、ハルちゃんがむくっと起き上がった。
トイレの前で待っていると、ハルちゃんが中から出て来て
「チータ、待ってたの?」
と訊いた。ボクは、にゃ、と答えた。
ハルちゃんは、喉渇いた、と呟くと、冷蔵庫から水のペットボトルを出して半分ほど飲んだ。
それからボクをじっと見下ろした。
「チータを可愛く思うほどに愛せなかったら、どうすればいいんだろう」
ボクは、と首を傾げた。べつにボクほど愛さなくてもいいんじゃない。ボクは死ぬまでハルちゃんと一緒だけど、人の子というやつは大きくなったら家から出て行くだから。
よいしょ、とハルちゃんは慎重に膝を折って床にしゃがむと、ボクの頭をそっと抱え込んで
「チータが、人間だった、良かったのに」
と言った。なんでそんなふうに思うのか、ボクにはちょっと分からなかった。
ばたばたと忙(せわ)しない足音で目が覚めた。
ボクが玄関へ駆けていったときには、ハルちゃんと旦那さんは大きな荷物を持って、靴を履いていた。
「チータ、病院に行って来るからな」
旦那さんはそう言い残して、汗だくのハルちゃんを気遣いながら、玄関を出て行った。
ボクやれやれと思いながら、薄暗い部屋に戻り。冷たい床に寝転がった。
夕方になっても二人は帰ってこなかった。
すっかり腹をすかせたボクは台所中をぐるぐる回って、鰹の削り節の袋を引っ張り出した。
床に散らばった削り節を舐めながら、いささか不安に駆られた。今までこんなに食事の時間が空いたことは一度もなかったのだ。
ようやくちょっと満たされると、ボクはソファーにうずくまった。カーテンは朝の内に開けっ放しにされたままだった。
ぼんやりと夜空を見つめた。一晩中かけて、いくつかの星が流れていった。
まだ朝靄の立ち込める時間に、ようやく旦那さんは戻ってきた。
猛烈に抗議するボクを見もせずに、旦那さんはさっさと缶詰を開けると
「すまないけど、またすぐに病院に戻るからな」
と言って。こんもりとマグロ飯の盛られたお皿を置いた。ボクはがつがつと喉を鳴らして、あっという間に食事を済ませた。その間、旦那さんはシャワーを浴びていた。
旦那さんはさっぱりした顔で、綺麗なTシャツに着替えると、ふっと光り輝くような笑顔を作った。
「とうとう、生まれたんだなあ」
ボクは一気に食べ過ぎたせいで、胸の奥が気持ち悪かった。きっとハルちゃんだったら、気遣って、何度かに分けてくれたんだろうに。
ドアが開いて、飛び出していくと、そこには一週間ぶりのハルちゃんが立っていた。
「チータ。ただいま」
ハルちゃんは、真夏には不似合いの青白い顔をして、か細い声を出した。紺色のTシャツの胸には布にくるんだ赤ちゃんを抱いていた。
ボクは足にすり寄ろうとしたけれど、すっとかわされてしまった。
「ありがとう。綺麗に片付けておいてくれて」
旦那さんは、猫の毛一本落ちていないよ、と笑った。ボクは憮然とした。まるで猫の毛を埃か何かのように。
そのときもハルちゃんの表情が曇った。
寝室に直行し、用意していた棚付きのベビーベッドに赤ちゃんを寝かせると
「猫の毛を…‥やっぱり良くないと思う?」
と真顔で、旦那さんに尋ねた。
「うーん。毎日、掃除機をちゃんとかけて近づけないようにしていれば、大丈夫じゃないかなあ。猫や犬を飼っている家はたくさんあるわけだし」
ハルちゃんは神妙な面持ちで頷くと、ベッドに横になって、目を閉じた。投げ出された腕には力がなくて、大丈夫かと呼びかけてみたけれど、返事はなかった。旦那さんが、仕事の電話を一本忘れてた、と慌てたように寝室を出て行った。
ボクはひらりとベッドに飛び乗って、ハルちゃんと赤ちゃんの顔を交互に覗き込んだ。
しわくちゃの赤ちゃんは小難しい顔で眠っていた。ちっと可愛くない。ただの小さなおっちゃんだ。
ハルちゃんの寝顔の方が、よほど赤ちゃんみたいだった。
翌日から、旦那さんがいない間、ハルちゃんは寝たり起きたりを繰り返しながら、赤ちゃんの世話をした。
赤ちゃんが泣くと、抱き寄せて胸を吸わせた。赤ちゃんは懸命に吸い付いていた。ハルちゃんは、旦那さんが一緒のときと違って、心細そうな顔をしていた。
励ましてあげようと、ベッドに飛び乗ったら。ハルちゃんがぎょっとしたように背を向けた。
ハルちゃん。元気だして。あと、ついでにお腹が空いたんだけど。
ボクがすり寄ると、ハルちゃんは怯えたように体を離した。わけが分からなくなって、なあなあ鳴いたら、眠りかけていた赤ちゃんが目覚めて泣き出した。
「チータっ。あっち行って!」
ボクは啞然としながら、仕方なく寝室から退散した。
その日から、ハルちゃんはどんどんボクに冷たくなっていった。
赤ちゃんのキリキリマイが始まると、どんなに呼びかけても、ボクの方を見ようともしない。赤ちゃんが眠っているときには、ハルちゃんもぐったり疲れたようにベッドに横たわっている。
一緒に寝ようと近づいただけなのに
「チータ! 赤ちゃん起こさないで」
と険しい顔つきで𠮟られて、ボクはがっかりしながらソファーの上で眠った。
旦那さんも、ハルちゃんの異変には気づいていた。
日曜日の午後、赤ちゃんが寝た隙を見計らって、二人で素麺をすすっていたときに
「春、最近チータに冷たい気がするよ?」
と切りだしてくれたので、ボクは救われた気分で、ソファーから首をもたげた。
「耳が尖っていて、尻尾の長い生き物にしか見えないのよ」
ハルちゃんが早口に告げたので、ボクは固まった。今、なんと言いましたか。
「え、なんて言った?」
ハルちゃんは苛立ったように、箸でそばちょこの底を突っつくと
「耳が尖った、尻尾の長い生き物にしか見えないの。チータのことが」
そのままだけど、なにかが正しくない。ボクは身をすくめて様子を窺った。
「二つ同時には愛せないの」
とハルちゃんが絞り出すように言ったので、旦那さんはしばし考え込んだ後に、尋ねた。
「それは、僕のことも愛してないってこと?」
「ごちそうさま、とハルちゃんは箸を放りだした」
それから、すとん、と台所の床にうずくまって泣き出した。毛繕いしてあげたくなる弱弱しい背中を、旦那さんもボクも途方に暮れて見つめた。
真夜中、泣き声で目が覚めた。
ハルちゃんが表情をなくしたまま、むっくりと起き上がった。赤ちゃんを膝の上に乗せて、ぼんやりと子守唄を歌った。
薄いカーテンの向こうには真っ青な夜が広がっている。旦那さんはまったく気付かずに寝息をたてている。
赤ちゃんはなかなか泣き止もうとしなかった。ハルちゃんのほうが、こっくり、こっくりと船を漕ぎ始めた。
寝たらだめだよ。起こしてあげようと思い、ひときわ高く、にゃあ、と鳴いたときだった。
ハルちゃんがびっくりしたように目を開いた。それから、泣いている赤ちゃんとボクを交互に見た。起こしてあげたよ。ボクは得意になっていっそう鳴いた。
ハルちゃんが赤ちゃんを下ろして、立ち上がった。
寝室を出て、居間へとずんずん進んでいく。ご飯でもくれるのかな、とボクは期待してついていった。
ハルちゃんはソファーの前で立ち止まると、振り返った。
その直後、ボクは仰天して飛び上がった。
ソファーのクッションがすっ飛んできた。鼻先をかすめて、ぽとんと床に落ちた。
ハルちゃんは恐ろしい形相でボクを睨んでいた。右手が、またクッションを掴んだ。ばんばんクッションを投げつけられてきた。ぶつからなかったけど、すれすれの所を飛んできた。
やがて、ハルちゃんの髪がてっぺんからじょじょに白くなり始めた。口元や目尻に皺が刻まれる。くっきりと瞳が見開かれ、顎が細くなって、ボクの大嫌いな蛇に似た面相になった。
ハルちゃんは愛嬌のある若妻から、美しいババアになっていた。
美しいババアは興奮したように小鼻を膨らませながら、右手を持ち上げた。銀色のナイフを握り締め、その先端は鋭く光っていた。度肝を抜かれて、一瞬、動きが鈍った。
美しいババアが勢い良く腕を振り下ろし、ナイフが頭上に降ってきた。
どうして、私だけなの‥‥?
なぜかハルちゃんの悲しそうな声が聞こえた瞬間、視界が真っ暗になった。
気づくと、ハルちゃんが床にへたり込んで嗚咽を漏らしていた。
髪に寝癖をつけたままの旦那さんが心配そうに、その背中をさすっている。
ハルちゃんは、チータが、チータが、とボクの名を繰り返していた。
「チータは、可愛いの。良い子なの。ちっとも、悪くないの」
旦那さんは、知っているよ、と頷いた。それからクッションの散らばった床をちらっと見た。
「産後鬱っていうんだよ、そういうの。明日病院に相談に行こう」
ハルちゃんは泣きながら、小さく頷いた。
居間は噓のように、しんとした。空気清浄機だけがひっそり音を立ていた。
「私、ずっと怖かったの。そっくりに、なってしまうことが」
「そっくりって、誰と?」
旦那さんの質問に、ハルちゃんは答えずに
「何でもない。もう、二度としない」
とだけ言うと、口を閉ざした。
ハルちゃんが動こうとしなかったので、旦那さんは
「続きは寝室で聞くから取り敢えず横になろう」
と言って、立ち上がった。ハルちゃん小さな子みたいについてくと、寝室のドアを開けながら、ちらっとこちらを振り向いた。
頬を真っ赤にして、涙袋を腫らした、いつものハルちゃんだった。
ボクは、みゃ、と短く鳴いた。
ハルちゃんは申し訳なさそうに顔をそむけて、寝室のドアを閉じた。
クッションの消えたソファーの上に飛び乗り、丸くなる。自分の体温だけではつまらなくて、尻尾が鼻先に触れると、くしゃみが出た。
浅い眠りから覚めて首をもたげたら、寝室のドアがうっすら開いていた。
中を覗くと、ハルちゃんはベッドで寝息を立てていた。傍らの棚付きベッドで赤ちゃんも眠っていた。ボクですら耳をそばだてないと聞こえないほど小さな寝息だった。
ボクがするりと入って行くと、となりのベッドにいた旦那さんが頭を上げて。こっちにおいで、と小声で手招きした。
呼びかけを無視して、ハルちゃんの枕元に飛び乗り、前足が髪をせっせと梳(す)いた。旦那さんがあせったように、こっちにおいで、と少し力を込めて言った。ボクは構わずハルちゃんの髪をしゃっしゃっと梳き続けた。ボクはハルちゃんが好きなのだ。ハルちゃんの腕の中で眠りたいのだ。
やっとハルちゃんが目を覚ました。旦那さんが警戒したように息をつめた。
ハルちゃんはじっとボクを見つめると、タオルケットを持ち上げてくれた。
ボクはしゃあしゃあと胸元に潜り込み。くるんと丸まった。ほんの少し蒸し暑いけど、とても心地よい。
旦那さんは拍子抜けしたのか、すぐにいびきをかいて寝てしまった。
うとうとしているボクの耳に、ハルちゃんの細い声が聞こえた。
チータ、ごめんね。大好きだよ。本当に、大好きだから。
ボクは、分かっているよ。と心の中で答えた。ボクにクッションを投げたのはたしかにハルちゃんだけど、本当は蛇みたいな美しいババアだったことも。
美しいババアを、ボクは前にも一度だけ見たことがあったのだ。
ハルちゃんが一週間くらい帰省することになって、ボクも連れていってもらったときに。
夜中にうろうろしていたら、暗い和室の片隅に棺(ひつぎ)がひっそり置かれていた。
棺の小窓越しに見た、ほっそりとした顔。
翌日のお葬式でハルちゃんが、お母さん、と呼びかけていた。蛇みたいな美しいババアは、ハルちゃんのお母さんだった。
ハルちゃんがボクにだけ聞こえる声で、言った。
「私、お母さんみたいにはならない。チータに約束する」
大丈夫だよ。蛇みたいなババアはもうどこにもいないんだから。
ただ明日からはちょっとだけボクのことを気にしてね。
そんな気持ちを込めて、ボクはハルちゃんのふっくらした指をそっと嚙んだ。
つづく
あなたは知らない