フランスのスーパーの野菜って、馬鹿みたいに産地が入り混じっているのね。フランス、イタリア、スペインがメインだけど、ドイツ、ウクライナとか、タイ、モロッコなんかも結構あったかな。で、私はチェルノブイリの汚染がいまだに残っている食材があることを知らずに二年くらい生活をしていた

本表紙金原ひとみ著

持たざる者 金原ひとみ

目次
矢印Shu修人
 矢印Chi-zu  千鶴子
 矢印eri エリナ
矢印朱里(あかり)

Shu修人

 三年前の自分を思い出す。その光景には幾重にもフィルターがかかっていて、既に正確な記憶はなくなっている。あの頃の自分はと虚空(こくう)を見つめた瞬間、僕はその鮮やかな記憶に疑いを抱く。別に、そんな明るい人生を歩んでいたわけじゃない。当時だってあらゆる苦悩や困難を抱えていたはずだ。でも同時に、もう人生はどうやっても元には戻らない形に転んでしまったのだと思う。

僕の世界はあんなにも光に満ちていた。あんなにも自信に満ちていた。あらゆるものを信じていた。僕は目に見えているものを把握し、頭の中に浮上し続けるあらゆる問いや疑問への答え、容易に練り直して思い通りの形へと作り上げた。完璧なコントロール感覚があった。世界を粘土のように、自分の手のひらで作り替えているような気分だった。

 あの時から、僕の粘土は形創られなくなった。拾い上げようとすればアメーバーのように指の隙間からこぼれ落ち、払おうとすれば手にこびりつき、パンツの裾を濡らし、嘲笑うように飛びかかり僕を緑色に染めた。まだらに緑色に染まった僕を慰める人はもういない。三年前、僕には慰めてくれる人がいたけれど、あの頃は慰めなんていらなかった。

慰めの意味すら分からなかった。慰めは女子供のためにあるものだと思っていた。世界は自分の手にあると思っていた。調子に乗っていたわけじゃない。それは単なるコントロール感覚の問題で、自分一人で完結した世界を生きている僕にとって、他人の慰めや評価など意味がないだけの話だった。

 下らない話をしている奴らを笑った。下らない仕事をしている奴らを笑った。下らない音楽を、本を、映画を、人を笑った。でも今の僕には、下らないものと下らなくないものの区別がつかない。あんなにも澄んで見えた世界は霞み、手に触れたものの形すらも把握できない。体中、五感が麻痺したように、今自分がどこにいるのかも自信をもって答えることができない。僕に言えるのはただ一つ。僕は何処だか分からないところにいる。という事だ。

 美しいものと美しくないものさえ見分けのつかないこんな自分が生きている意味などあるのだろう。最初は、時が経ればまた全てがうまく回りだす。これは必要な期間なのだと自分に言い聞かせて来た。でももう二年半だ。二年半、回復すると思っていた視力は全く回復せず、むしろ世界はより曇ったようにさえ感じられる。

 散らかった部屋にねそべると、背中に痛みが走る。背中の下から書類用のクリップを取り出すと、壁に投げつけた。ぴしんと音がして、クリップは床に落ちた。続けて、背中でがさがさ音を立てるスナック菓子の袋も引っ張り出す。天井を見つめ、ゆっくりと目を閉じた。学生時代を思い出す。あの頃、ひとり暮らししていた部屋も六畳一間の安アパートだった。でも、自分にあったのは全能感と欲望と好奇心だった。

今の自分には、不能感と憂鬱しかない。欲しいものもない。知りたい暮らしもない。やりたいこともない。食べたいものもない。何もない。ただ本能に任せて仕方なく食べ物を食べ、排泄し、寝て、頭に不快感を感じるようになったらシャワーを浴びる。オナニーの回数も減った。

 24時間営業のスーパーの入り口で、買い物かごを取り上げる。深夜二時、もう客は少ない。ひとり暮らし風の若い女の子や、くたびれたおじさんがお総菜コーナーでパックを見比べているのに混ざって、僕も50%オフ、30%オフの貼り紙と中身を確認していく。食べ物が無い。

結局いつもと同じ、親子丼を手に取る。自分の少し前で総菜を見比べていたひとり暮らし風の若い女が手を伸ばした先を見て、僕は一瞬立ち止まる。呆然としたまま、だらんと下した手が持っているカゴにゆっくりと親子丼を入れる。一瞬、喉の音が鳴った。僕は衝動に駆られていた。

 馬鹿らしい。そう思って背を向けてようとした瞬間、女が向き直って僕を見つめた。思わず目を逸らして、もう用もない総菜の棚にまた視線を走らせる。
「あの、もしかして」
 その女性の声に振り返る。胸が痛くなった。
「保田さんですか?」
「あ、はい」
「わ、すごい。私、今美大に通ってて、保田さんのこと、よく雑誌とかで見てて‥‥。この間保田さんのデザインを題材にした講義を受けたばかりなんです」
「そうなんだ、よく分かったね」
「すいません急に声をかけちゃって。あの、これからも安田さんの作るものを楽しみにしてます」
「ありがとう。君もがんばってね」

 はい、と、彼女は笑顔で答えた。可愛くはないけど、性格の良さそうな子だ。あか抜けなさを見ると、田舎から出て来たばかりなのかもしれない。
「君さ、それ」
「はい?」
「椎茸の」
「あ、はい。椎茸の肉詰め。夜食です」
「キノコ類は、セシウムを吸収しやすいから気をつけた方がいいよ」
「セシウム? って‥‥あ、放射能?」
「そう。セシウム137の半減期は三十年。筋肉に蓄積する」

 あ、はい、と彼女は戸惑った表情で答え、分かりました気を付けます。と微笑んで小さくお辞儀をすると背を向けてレジに向かって行った。気を付けますって、結局買うんじゃないか。何であんなことを言ってしまったんだろう。僕はしばらく立ち尽くしたまま、足を踏み出すことが出来なかった。

 しばらくぼんやりした後、僕はビールとウォッカとナッツ缶をカゴに入れ、レジに向かった。帰り道で我慢できなくなり、ビールを飲み始めた。ごくごく喉を鳴らして飲みながら、月を見上げる。何も欲しくない、何も楽しくない。でも、この生活の中で煙草と酒だけは、僕の満たされていない部分を僅かに満たしてくれる。

僕の未来には、アル中と借金地獄とそれらがツーインワンしている地獄という三つの選択肢しかないように感じる。貯金はあと幾らか残っているんだろう。もうずっとしていない銀行の残高確認。今日も買い忘れたコンディショナー。もうずっと替えていないベッドのシーツ。目の前に立ちはだかるこれらの現実を見るだけで、もう僕は一生まともに生きる事など出来ない気がする。

 ベッドに横になり、充電器に挿したままだった携帯を手に取る。迷惑メールに埋め尽くされた受信ボックスの中に、代理店の名前を見つけて開くと一気にスクロールした。仕事の内容に目を通すよりも先に、断らなきゃという思いが体中を駆け巡る。仕事が出来ないどころか、仕事の断りのメールすら書けない。

今すぐにでも返事をしなければならないメールが数件溜まっているのに、また一つ増えた。メールボックスを開いたことを後悔しながら、SNSを開く。佐野から、この間公開した誰々の新作映画どうのこうのというメッセージが一件と、友達申請が一件きていた。一瞬誰か分からずアイコンと名前を擬視する。

「千鶴か」
 呟くと、記憶が蘇った。申請許可をタップすると、Chi-zuという名前のアイコンが友達リストに追加された。最後に会ったのは四年前の自分を思い出そうとしている自分に気づいて、反射的に気を逸らそうと佐野のメッセージを表示させる。昔のことを思いだすと辛くなる。僕はこれまでにも何度もそうして無意識的に昔を思い出し、辛い思いをしてきた。ウォッカをコップに注いで飲む内に、煩雑なあれこれが頭から消えいくのが分かった。

 痛む頭を庇いながら起き上がると、冷蔵庫の中の水を取り出して一気に飲んだ。じんとにじむ冷たさに頭を歪めながら、ベッドに戻って枕の下の携帯を取り出す。「久しぶり。元気?」という千鶴からのメッセージに、「あんまり元気じゃない。千鶴ちゃんはまだフランスにいるの?」と返す。

メッセージはすぐに既読になり、「今はシンガポール」と入って来た。シンガポール、と呟きながら、「いいね、君はグロバルで」と返した。「来週から東京に行くの。一時帰国」。海外在住の女の子が、一時帰国直前に、四年ぶりに連絡をしてきた。これは、飲みに誘えという事だろうか。

誘う気にもなれずに、携帯を放りだしたくなったけれど、いまここでメッセージを止めるのも変に勘ぐられる気がして、もう一度手に取る。その瞬間、「会わない?」とメッセージが入った。ためらいを感じられない早さでいいよと一言入れると、簡潔に日時と場所についてやり取りを数回して、じゃあねとメッセージを入れ合った。彼女の迷いのない態度に、僕は四年前も違和感を抱いていたような気がする。

 森ビルを横眼に見ながら六本木ヒルズを通り過ぎると、けやき坂沿いにあるバーに入った。あ、いらっしゃいませ、と声をかけて来た店員は、僕の顔に見覚えあるらしく親し気に微笑んだ。ラウンジ、二名で入れる? と聞くと、ご案内します、と彼女は柔らかな口調で言った。
「こちらでよろしいでしょうか?」
 示された二人掛けのソファーの周辺に視線を巡らせて、天井を数秒見つめた後、並びじゃない席で、と言うと、ではあちらのお席でと奥のテーブルを示された。
「ギネスください。食事はもう一人が来てから」

 かしこまりました、と言って去っていくミニスカートの店員の後ろ姿を見つめる。ここの女性店員は、それを基準に採用しているのかと思うほど脚が長い。ここ最近家とスーパーの往復ばかりしていたせいで、久しぶりの六本木が粘土の高いシロップ地獄のように感じられる。

不思議だった。僕が六畳一間のアパートに籠もりきり、完全に停滞している間も、六本木は通常運転で毎晩休む事もなくこんな喧騒を演出し続けていたのだ。パラレルワールドに紛れ込んだような違和感だった。

 周りの席は、テレビ局が近いせいか業界系が多く、コンパか何か分からないけど、まだ八時だというのに既にお持ち帰りされそうなグラビア系の女の子たちが甘い声で花火大会のように絶え間なくあちこちから打ち上げられている。店の選択を間違えたかなと思いながらぼんやりと煙草に火をつける。

 約束の時間から十分過ぎ、二杯目のビールがテーブルに載った頃、千鶴の姿が見えた。軽く手を挙げる僕の姿を目に留めると軽く眉を上げ、こっちに方向転換をした。
「久しぶり」
「久しぶり。何だか、自信に満ち溢れて見えるね」
「何それ。変わってないよ」
「しかも四年前より綺麗になった」
「そう? 修人くんは、何か角が取れた感じがするね」
 全く嬉しくない感想に何と答えるべきか考えていると、ジントニックください、あと食事のメニューを、と店員に言って千鶴は僕に向き直った。
「久しぶり」
「二回目」
「修人くんに会いたかった」
「千鶴ちゃんて、結婚、まだしてるよね?」
「既婚女性が他の男に会いたかったって言うのは良くない?」
「日本において、旦那以外の男に会いたかったって言うのは旦那に対する裏切り行為だね」
「修人くんは? 結婚したんだよね?」
「したけど、もうしていない」
「別れたの? どうして?」
「長くなるよ」
「独身貴族再びか」
「二歳の娘もいる」
「うそ?」
「元妻が引き取ったけど、千鶴ちゃんは?」
「いないの。まだやりたい事たくさんあるし」
「そう。欲しいと思ってから作った方がいいよ。女の人は特に」
 千鶴がメニューを見ながら、アヒージョがあるよとか、マグロのカルパッチョ食べたい、と次から次へとメニューを声に出していく。
「千鶴ちゃん、放射能気にしていないの?」
「放射能?」
「気にしていない様子だね」
「気にしていないね」
「海外在住者は意識が高いかと思っていたよ」

「フランスのスーパーの野菜って、馬鹿みたいに産地が入り混じっているのね。フランス、イタリア、スペインがメインだけど、ドイツ、ウクライナとか、タイ、モロッコなんかも結構あったかな。で、私はチェルノブイリの汚染がいまだに残っている食材があることを知らずに二年くらい生活をしていた。フランスでも何も気にせずに好きなものを食べてきた私が、二年間汚染されたものを避け続けられたとは思えない。

つまり、私の体は既に大なり小なり汚染されている。そもそも今世界中で流通している食材には、核実験の汚染やチェルノブイリの汚染が残っているものもたくさんあって、そこに福島から放出された放射能が加わっただけと考えれば、今更気にしても仕方ないって気にならない?」

「でも、チェルノブイリからは二十七年経っている。福島の事故からまだ二年だし、まだまだ汚染は止まっていないんだよ? 垂れ流しなんだよ?」

「私は一時帰国中なんだよ? 一時帰国中に天ぷらと寿司と焼肉は絶対食べるって決めてるの。これから美味しいものをたらふく食べようという私に放射能の話はしないでくれない?
三年ぶりの帰国なんだよ?」

「悪かったよ。千鶴ちゃんはまだ子供産んでいないから、心配しただけよ」
「またそういう飯の不味くなるようなことを‥‥」
 やっぱり、実際に子供がいる人と、子供をいつ産むかわからない人の壁は大きいかもしれない。
「あ、そういえば、私の妹が放射能避難して今イギリスに住んでいるの」
 うん。子供連れてね。と千鶴は答えて、マグロとカラマリのソテーは決まり、と続けた。体中がざわついた。
「旦那さんも?」
「シングル」
「一人で? 子供と? 何でイギリス?」
「うーん、そこまでは分からないな」
「英語得意なの?」
「私が知る限り、堪能ではないはずだけど」
「誰か、頼りにできる人がいたのかな」
「分かんない。妹とそんなに密に連絡取っているわけじゃないし」
「元気でやっているの?」
「分からないってば」

 迷惑げというよりは、呆れたように千鶴は笑った。どうしたのと笑い声まじりに聞く千鶴になんといっていいのか分からず、僕は薄く口を開けたまま黙り込む。僕の食べたいものに一言も言及しないまま、千鶴はジントニックを持ってきた店員に数品のメニューを注文した。何か食べたいものある? といったように聞く千鶴に首を振る。
「あ、乾杯」
 グラスを持ち上げる彼女に、ビールを持ち上げて乾杯、と呟く。
「僕が離婚したのは、放射能のことが大きかったんだよ」
 え? と顔を上げる千鶴に、震災と放射能問題がなければ、離婚していなかったかもしれない、と付け加えた。

 仕事は軌道に乗っていた。ジャケットを手掛けたアーティストの楽曲が三十万枚ダウンロード、CDの売上げは十万枚を超え、カメラマンの友達と組んで作った新人俳優の写真集が、その俳優がドラマの主役を演じた事で突如十万部を突破し、あらゆる分野のデザインやディレクションの仕事が舞い込むようになった頃、僕と佐野の密着取材をしたいと番組制作会社から依頼があった。元々勤めていたデザイン事務所で七年間働き、同僚だった佐野と独力してから七年目の時だった。

三年目の時にアシスタントとしとて渡辺さんが入社してからずっと三人で回しいて、当時は目の回るような忙しさだった。あらゆる分野に手を広げた事もあって、事務所から打ち合わせ、打ち合わせから打ち合わせに向かうタクシーの中でも電話でどこかと打ち合わせをし、その電話の間に次の電話の内容を考えるような、自分が何の仕事をしているのか把握出来ないほどの忙しさで、今思えば取材には最適な時期だったのだろう。

密着取材番組の反響は大きかった。どこへ行っても見たよと言われ、知らない人にも声をかけられるようになった。一人バブルだねと、香奈は笑っていた。あのテレビの頃、彼女は妊娠中だった。何か恥ずかしくて見られないよと、胸に抱えたクッションに時折顔をうずめながら、香奈はテレビ局から送られてきた、僕らの出演した回のDVDをちらちらと見ていた。

結婚一年目、妻は妊娠中、仕事もバブル、とにかく毎日が充実していた。忙しくて、眠れなくて、家に帰るとお腹の大きい妻が寝ている。三十五という年齢にも、仕事の内容にも、収入にも、香奈にも、人生のどんな些末なディテールにも、僕は満足していた。好きな物だけで揃えていたインテリア、こだわり抜いた仕事部屋、事務所も一回り大きいフロアーに移したばかりだった。育児本がださいと漏らす香奈のために、英語を訳したタイトルを背表紙に入れたモノトーンデザインのカバーを自作した。

写真集のように美しいカバーに覆われた育児本をソファで読む香奈の姿に、僕は満足した。どんなに忙しくても妊婦健診には付き添い、両親学級にも参加した。徹夜で仕事をして、マッサージを受けて帰った後、こむら返りを起こした彼女をマッサージした事もあった。でも、寝る時間がない事にも、疲れが取れないまま出勤する事にも、全く苦痛を感じなかった。それが生きているという事であって、忙しくない生活を送っている自分なんてもう想像出来なかったし、そんな自分は自分じゃないような気がしていた。

 そして娘が生まれた。こんなにも新生児は小さいのかというショックの中で、僕が一番に抱っこした。それからは、本当に大変だった。僕も香奈も親とあまり付き合いが無かったために、二人であれこれ試行錯誤しながら、育児の形を模索し続けた。フレキシブルに来てくれるシッターも見つかり、定期的に家事代行を頼む事で香奈の負担を減らした。

それでもほとんど家にいない僕のせいもあって、香奈が孤立した育児に疲弊しているのは明らかだった。佐野ともう一人アシスタントが必要だという話し合いを持ち、香奈にも新しいアシスタントが入ればもう少し時間が取れるようになるからと話していた頃、地震があった。

 揺も私も大丈夫。地震の直後に一言だけのメールが入ってすぐ、携帯が通信不能になった。帰宅難民になったものの、むしろその影響で打ち合わせが流れ、家に帰れるという喜びの方が強く、僕は二時間かけて歩いてマンションに帰った。香奈は良かったー大きな声で僕を出迎えた。会社大丈夫だった? 歩いて帰って来たの? エレベーター止まったでしょ? と質問攻めする香奈に、遥はと聞くと、大丈夫だよ私地震が来た直後にお風呂場に籠もったのと言う。

「風呂場?」
「うん。トイレとかお風呂場が一番安全なんだって。ほら、落ちて来るものがないでしょ? 怖かったから一時間くらい、バスタブの中で抱っこしてたの」
 そっかと言いながら、赤ん坊を抱いて浴槽にうずくまる香奈を思うと、胸が締め付けられた。
「良かったよ。とにかく無事で」
「修人も」
 リビングのプレイマットに寝かされていた遥を見て、僕はそれまでさほど心配していたわけではないのに、全身から力が抜けていくのが分かった。
「津波、知ってる?」
「津波? ああ、警報が出てたよね。東北でしょ?」
「テレビとか、そっか見ていないんだ。すごい被害が出ているんだよ。すごい津波」
 点けっ放しのテレビからは、アナウンサーたちが緊迫した表情で被害を伝える声が流れていた。すごいなと言いながら、リモコンでザッピングする。
「原発が電源喪失?」
「ああ、福島のね」
「大丈夫なのかこれ」
「大丈夫でしょ」
「もし爆発したら、ここも危ないんじゃないか?」
「ここ、東京だよ? 福島って、遠いでしょ?」
「近くはないけど、チェルノブイリの時なんかイタリアのパスタが汚染されるって言われてたんだよ?」
「チェルノブイリとイタリアはどれだけ離れてるの?」
「それは…‥すっごく離れているよ」
 すっごくじゃ分かんないよと佳奈は笑った。僕もつられて笑った。明日が土曜日で良かった。余震が続く中、僕は香奈と遥を見ながらそう思った。こんなにぐらつくマンションに妻子を残すのは不安だった。

 千鶴はパスタをフォークに巻きつけながら「あの時私がフランスだったけど、やっぱり皆すごく混乱してた」と言った。
「駐在の人たちとか?」
「もちろん、日本人は皆、帰るか帰らないかとか大騒ぎだったし、フランス人たちも、私を見ると家族は大丈夫なのかと、通りすがりの人までが話しかけてきて、話しかけてこない人たちも、何かもの言いたげな顔で見てて」
「優しいんだね、フランス人って」
「世界中でそうだったと思うよ。駐在の人たちは圧倒的に関西関東が多いから、周りで家族に被害のあった人はいなかったけど、皆落ち着かなくて、一時帰国中に被災地にボランティアに行くって言っている人もいたし、旦那の会社も、寄付集めて送ったりしていたし、まあ日系企業はどこもやってたけど」

「そういえば、フランスで反原発デモやったりしていたよね。日本から見てても感動的だったよ」
「あの頃は、福島の事もよくニュースになっていたよ」
「日本はもう駄目だよ。原発推進の党が政権取ったし、マスメディアも腐っているし、日本人特有の事なかれ主義と僻(ひが)み文化で言いたいことも言えない世の中だよ」
「修人くん、そういう事言う人だった?」
 いや、と呟いて、ビールを飲み干す。別に今だってそういう事言う人じゃない、と続けると千鶴は不思議そうな顔で首を傾げた。

「千鶴ちゃんは日本にいないから、話してもいい気になってるだけだよ。日本に住んでいる人に原発とか放射能の話をすると皆嫌がるからね」

「ねえ、修人くんは、これから日本で人がばたばた死んでいくと思っているの?」
 千鶴は半ば呆れたように笑いながらそう言った。
「何が起こるか分からないと思っている」
「でも、皆普通に生活しているんでしょ?」
「そうだね。チェルノブイリ原発事故による死者数は三十三人から百万人まで諸説ある」
「そんな、どうやっても測れないような事に構ってられないでしょ。日本人は世界一忙しいんだから」
「僕も事故当時に海外にいればもそういう風に割り切れたかな」
「修人くんみたいな人って周りにいる?」
「何人かはね。知り合いでも何人か関西に移住したし、原発事故後、外出時に必ずマスクと眼鏡と手袋をつけてた女の子がいたよ」
「気が狂いそう」
「三ヶ月、いや、五か月くらい、マスク眼鏡手袋してたかな。でも彼女はある日突然、ばったりと気にするのを止めたんだ。出版社に勤めている子だってたんだけど、打ち合わせで久しぶりに会ったら、マスクも眼鏡も手袋もしなくて、どうしたの? って聞いたら。もう止めたんです人生楽しむ事にしたんです、って」

「真夏にマスク眼鏡手袋じゃ、周りから変人扱いされたんだろうね」
「彼女は、あれこれ気にして怖がっていた頃よりもずっと幸せそうでさ、ほんとうになんていうか、きらきらしてたんだ。でも僕は彼女が怖かったよ。人生楽しむ事にしたんですって、つまりどうせ死ぬんだからって事じゃない」

「例えば、病気の人が自分の余命を宣告されて絶望してたのが、余命の間に色々楽しんでから死のう、って思い直すのは怖いこと?」

「生きたいと思っていない人が、僕は怖いんだ。もちろん僕だってマスクも手袋もしてなかったし、食事だって今となっちゃ移行係数の高い物を避けるくらいの事しかしてないよ。でもさ、僕は開き直りとかとは違うんだよ。今自分にできる事をしているだけなんだ」
「彼女も、今自分にできる事を考えた結果、今を楽しむ事にしたんじゃない?」
「そういう人、けっこういたんだ。すごい怖がって気にして、避難するしかないで家庭内で揉めたりして、最終的に惚けたようにもういいやー、ってなる人。もう気にしないことにするわ、って、一瞬で恐怖が終わるんだよ。逆に言えば、放射能っていうのは、気にしなきゃそれで終わり、存在しないも同然、て事だ」

「外に出たら交通事故に遭うかも知れない、家の中に居ても飛行機が突っ込んでくるかもしれない、人は生まれた瞬間にいつか死ぬっていう運命を負うわけだよね。私は交通事故に遭わない、そう思わなきゃ外に出られない。これはもう精神性っていうか、気持ちの問題だよ」
「相手は車でも飛行機でもなく煙草でもなく放射能だよ?」
「戦争もあった。原爆も落とされた。今でも世界中で紛争やテロが起こっている。人間が人間の愚かさによって死んでいくのは今に始まったことじゃないでしょ」
「もちろんそれは世の常だよ。でも自分の子供に何かあった時に、あの時こうしていればと思う点をできるだけ少なくしておきたいと思うのはごくごく自然な発想じゃないか?」
「修人くんは奥さんに、何か強要したの?」
 僕が人に強要するわけがないよ、笑いながら答えると、千鶴は不敵に笑ってカラマリのソテーにフォークを突き刺した。

「強要しない人って、強要しない事で何かを強要していたりするものでしょ」
 遥がこういう女になったらいいなと、千鶴がカラマリをほおばる様子を見ながら思った。甘ったるい声を出して男にしなだれる女の子たちをバックに、千鶴はどんどんカラマリを口に運んでいく。グラビア飲み会の反対側を見ると、広いソファ席に八人ほどのやはり業界人らしきグループが飲んでいる。

三人の五十代ほどの女を、二十代か三十代前半辺りの男たちが接待しているようだった。もう私みたいなおばさんは、と言う女に、そんなことないですよ俺マリさんと超ヤリたいんです、と男が言って場を沸かせている。男たちは、やはり業界の人間に見える。一体何の会だろう。

「修人くんってそういう人だよね。君の好きにすればいいって言いながら、相手に自分の思い通りの選択をさせてる。今までそうやって、いろんな女の子に誘わせてきたんでしょ?」
「僕がそうさせたわけじゃない」

「君は自由だ君に決定権がある、そう言いながら、自由も決定権も奪ってる」
「自由に決定権は人に奪われるものじゃない。それらは常に自ら放棄するものだよ」
「じゃあ彼女たちは、どうして生きていく上で必要なその二つを放棄したの?」
「僕は自由と決定権を放棄した人間が何者かの犠牲者であるとは思わない。自分の人生のイニシアチブを取っていけない人間は、会社か結婚相手の奴隷にしかなれない。そういう家畜同然の人間を、僕は人間としてカウントしない」
「修人くんは家畜同然の女と寝てきたの?」
「僕は、自由と強さを兼ね備えた女性と付き合って来たつもりだよ」
「自由で強い女性と離婚した理由は?」
 言葉に詰まって千鶴を見つめる。千鶴だったら、あの時どうしたのだろう。幾度となく僕は考えてきた。香奈ではなく、この人だったらどうしたのだろう。他の誰かが妻だったら、どうなっていたのだろうと。

 三月十四日だっただろうか。それとも、十三日だったろうか。知り合いから電話が入った。大学時代の友達で、三年以上会っておらず、一年以上連絡すら取っていなかった彼は、安田くん子供出来たって聞いたけど唐突に切り出した。今二カ月の娘がと言うと、子供だけでも西に逃がしたほうがいいと彼はつづけた。

逃がすべきかどうか、ずっと思案し続けていた僕は慌ててネットで関西のホテルを探した。一週間でも、二週間でも、数日だけでも、とにかく逃げられるだけ逃げた方がいい、彼の言葉が頭に響き続けていた。鳥肌が立って。どんどん口の中が渇き、後頭部が痺れたようにじんとしていた。今すぐ荷造りしてという僕に、香奈は目と口を開け放して固まった。

「何を言っているのか?」
「遥を連れて西に行ってくれ」
「‥‥原発のこと?」
「そう。僕は行けないんだ。今週大きな仕事がある。それは変更できない。でも絶対に次の土日は行くから、それまでだけでもいいから行ってくれ」
 香奈は事情を呑み込めないのか、口を開けたまま穴が空くほど僕の顔を見つめた。

「そんなの無理だよ。どうするの? 遥連れて、ホテルに泊まるの? 遥、まだ二ヶ月の赤ちゃんだよ? 新幹線に二人で乗るの? そんなの無理に決まってる」
「大阪でも京都でも、一緒に行くよ。ホテルのチェックインまでは一緒に行くから」
「止めてよ何で急にそんなことを言い出すの? 訳わからないよ。私は一人で遥と逃げるの? そんな事出来るわけないよ。ここで生活してたって、慣れない育児と寝不足で倒れそうなのに、見知らぬ土地でホテル暮らししろっていうの? 二ヶ月の赤ちゃんと?」

「落ち着いて聞いてね。さっき電話があったんだ。東京電力に勤めている僕の友達で、子供だけでも西に逃がせって言ってた。どういう意味か分かるよね?」
 香奈は愕然とした表情を浮かべ、黙り込んだ。
「…‥でも、哺乳瓶の消毒とかもしなきゃいけない、調乳用のポットは? ホテルにキッチンなんてないよ? どうするの? 遥と二人で、ずっとホテルに籠ってるの?」
「落ち着いてよ。哺乳瓶の消毒とか、調乳用のポットを持っていけばいい。僕が全部持つよ。大丈夫。足りないものがあれば僕がすぐに送る。ホテルにいるのが辛かったら、この間買ったベビーカーで散歩に行けばいい」

「二ヶ月の赤ちゃん連れて散歩なんて、すごく大変なんだよ。私、ようやくこの辺歩けるようになったばかりなのに」
「この間買ったプレイマットを持って行こう。遥すごく気に入ってたじゃない」
 泣き始めた香奈を慰めてやりたかったけど、ホテルを取らなきゃいけないし、新幹線のチケットを取らなきゃいけなかった。そもそも、東京駅は大丈夫なんだろうか。パニックになってやしないだろうか。東京電力の友達は、さして仲の良い友達というわけではない。僕にまで連絡してくるという事は、きっと片っ端から子供のいる知り合いに電話を掛けまくっているに違いない。

そうやってどんどん情報が広まり、水面下で混乱が起こっている可能性もなくはない。僕も、知り合いに情報を回した方がいい。少なくとも、子供のいる家庭には連絡しなければ。これまでずっと、一人で悶々と考えているだけだった原発問題は、後ろ盾が出来たおかげで、すっかり誰に伝えてもいい話に置き換わっていた。

「ちょっと待って。行くのはいいよ。もう仕方ないよ。でも、修人はどうするの? 修人は東京にいて大丈夫なの?」

「放射能は、大人より子供に、男より女に強く影響が出る。僕と香奈だけだったら避難なんて言わないよ。気がかりなのは遥の事だけだよ。友達も、子供だけでもって言ってた」
「だけでもって事は、出来る事なら大人もって事でしょ?」

「僕は行けないよ。来週、奥山透の企画の打ち合わせがある。奥山透本人も来る。僕がこれに出なかったら、代理店の仕事はゼロになる。香奈、聞いて。これは念のための避難だよ。何が起こるか分からない。だから念のために避難しておく。避難して何もなかったら良かったね、避難して何かあったら、避難しておいて良かったね。その程度の事なんだよ。もっと気楽に考えて」

「気楽になんて考えられない! 遥が熱出したりしたらどうたりしたらどうするの? 私がまた乳腺炎になったら? 土地勘もない、だれも知り合いのいない街のホテルに泊まって、何日もそこで二人で過ごすの? 今日だって私、細切れにしか寝てないんだよ。昨日修人が寝ている間に私が何回授乳したか知っている? 私がどれだけ育児に追い詰められているか知っている? 分からない事だらけだ、出来ない事だらけ、もうどうしたらいいのか分からないの! 今にも壊れそうな状態で必死に育児しているのに、これ以上私の負担を増やすっていうの?」

 香奈はヒステリーを起こし始めていた。このまま激昂させたら、避難どころの話ではなくなってしまう。産後、そもそも慣れない育児で心身共に参っている中で大震災に直面し、余震の続く中津波と地震と原発の映像を繰り返し見続け、食料やミルク、オムツの買い占めなどのニュースもあって、既に精神的に摩耗している部分があったのだろう。

「今が戦争中でさ、どっかの国が空爆を仕掛けて来るって聞いたら、逃げるよね? 皆さ、どんなに子供が小さくても、おんぶして逃げるよね? 放射能は目に見えないよ。でも危険があるかもしれない所に、出来るだけ居させたくないと思うのは当然だよね? もし香奈が、本当に絶対無理だって言うなら仕方ないよ。

それだったら家にいよう。窓を目張りして、家にいればいい。香奈の気持ちを無視して、一人で先走ったのは悪かったよ。香奈が出来るか出来ないか、まずそれを考えよう。まず、心配なのは遥の事だよね?」

 頷く香奈に、オムツもミルクも僕が全部持って行くし、足りなくなりそうだったらホテルに届くように僕が送る、ベビーベッドに貸し出しをお願いするし、ミルクを作りやすいように、キッチン付きの部屋が無いか探してみるよ、と次々と提案していく。香奈がうんと言わなければ遥を逃がせないという切迫感に僕は必死だった。でも、話しているうち、香奈は遥が被曝する事が怖くないんだろうかという疑問がぐるぐると胸に渦巻き始める。被曝の危険性なんて僕にも分からない。

どんな被害が出るのかも、はっきりとは分からない。でも東京電力に勤める友達が逃げたほうがいいと言うのだから、きっと逃げたほうがいいに違いない。なぜ彼女は、遥と二人でホテルに泊まる事を怖がるのだろう。話しながら僕は、香奈の事が理解できなくもやもやとした気持ちが肥大していくのを感じていた。

「本当に辛かったら帰ってくればいい。その時は、何とかして時間を作って、迎えに行くよ。もう駄目無理って時は、連絡して。そうだ。僕の叔父が一人大阪にいるんだよ。もし何かあった時は、病院とか、色々紹介してもらったり出来るかもしれないし…‥」

「そんなの嫌! どうしてそんな見ず知らずの人に世話にならなきゃいけないの? 気持ち悪い! 修人はどうして私の気持ちを分かってくれないの? どうしてこの苦しみが分からないの? そんな見ず知らずのおじさんに、二ヶ月の遥を抱えて会いに行けと言うの?」

「そんな事言ってないよもしも何かあった時のために連絡しておいてもいいかも、って、それだけの事だよ。香奈、頼むよ落ち着いて話してくれ。今、香奈が精神的にも肉体的にもナーバスになっている時だっていう事は分かっている」
「ナーバスなんかじゃない! 私は正気だよ!」
 香奈は言い切るや否や両手で顔を覆って大声で泣き始めた僕はもう、何を言っていいのか分からなくなって、頭を抱え込んだ。ただただ、安全な場所にいてもらいたい。一号機が爆発して、他の炉もまだまだ爆発しそうだという時に、少しでも原発から離れたいという気持ちは香奈には全くないのだろうか。ひとしきり泣いた後に、行けばいいんでしょと香奈は絶叫した。行くよ! そうしなきゃ修ちゃんが私を軽蔑するから!

子供を守らないひどい母親だって思われたくないから! そう叫んで、香奈はリビングから出ていった。寝室からがたがたと大きな音がして、香奈が荷造りを始めたのが分かった。僕も泣きたかった。何故女はいつも、私の気持ちの話しかないのだろう。まるで男には気持ちが無いとでも思っているようだ。

 子供が出来たら女は変わる、何人もの知り合いから聞いていた。少なくとも産後の一年くらいは、産前とは別人格だと思っていた方がいいと話していたのは誰だっただろう。出会った頃の香奈は、こんな人ではなかった。僕たちが出会ったのはクラブで、初めて見た時彼女は一心不乱に踊っていた。お酒が大好きで、いつ見てもにこにこ笑っていて、一緒にいるだけで幸せな気持ちになれた。

でも子供を産んでから、いや、厳密に言えば妊娠して仕事を辞めた頃から彼女は少しずつ変化し始めていた。アルコール、カフェイン、生の食べ物、脂っこいものを徹底的に排除し、胎教やマタニティヨガに夢中になった。ベランダで煙草を吸って部屋に入る時、匂いが一緒に入って来る、あなたの肺に残ったニコチンがあなたが息を吐くたびに空中に浮遊し、私の肺に入り、赤ちゃんに影響が出ると言い始めた時はギャグかと思ったし、本気だと知った瞬間気が狂ったかと思った。

とにかく香奈は子供が出来て以来、ずっと何かに怯えていた。子供がああなったら、こうなったら、とあらゆるものへの恐怖を口にするようになった。超が付くほどポジティブ思考で、楽観的で、周りの人々を幸せにするキャラクターは消え失せ特に出産後の香奈は強い恐怖と焦りの中で身動きが取れなくなっているように見えた。

僕は香奈に以前の明るさとポジティブさを取り戻してもらいたくて、シッターを頼んだり家事代行を頼んだり、アシスタントを募集したり、香奈の負担を減らすべく知恵を絞っていたのだ。そんな時に震災が起きて、香奈は放射能避難を勧める僕にヒステリー起こしながら、私は正気だと喚いている。絶望的な気分だった。

 ホテルの空を確認してから、新幹線の切符を予約し、神戸のホテルを二週間分予約した。香奈が二週間耐えられるとは思わなかったけれど、予約しておかなければ空き部屋がなくなるかもしれないと思った。

 神戸のグランドホテルを予約したよ。簡易キッチンのついているジュニアスイートにしたから、調乳もしやすいと思うし、ベビーベッドの貸し出しもお願いしておいた。新幹線は五時台のを取ったから、ゆっくり支度をしよう」

「神戸?」
「グランドテラス、香奈泊まりたいと言ってたよね? 
ほら、友達が泊まったとか話してたじゃない」
「どうして神戸なんかに?」
「だって、前に‥‥」
 香奈はまた泣き始めた。どうしてそんな遠い所にホテルを取るのか、東京から神戸まで一体何時間かかるのか、グランドテラスは一緒に泊まりたいと言ったのであって遥と二人で泊まりたいと言ったわけではない、京都か、いっても大阪までと思っていた、香奈は泣きながら切れ切れにそう言った。僕は反射的に謝っていた。

ちゃんと相談すれば良かった今から京都や大阪のホテルを取り直してもいい、新幹線の切符はもう取ったから、京都や大阪に変更するのは何の問題もない、何度も何度も同じ事を繰り返した。香奈に冷静になってもらいたくて、必死だった。

「放射能がどこまで拡散するか、僕にはわからないから、できるだけ遠い方がいいって思ったんだよ。でも、岡山とか広島じゃさすが遠すぎるかなと思って。香奈も田舎は嫌だろうし、神戸だったら香奈の好きなブランドのフラッグショップもたくさんあるし、ちょうどいいかなって、早合点したんだよ。本当に悪かった」

 僕の弁明を聞いた香奈は、二ヶ月の赤ちゃんを連れて買い物なんてできないし、神戸は酒鬼薔薇(さかきばら)の事件があったから怖いと訳の分からない事を泣きながら喚き始めた。彼女は冷静な判断が出来る状態じゃない。その事実が僕を絶望させた。この人だ、と結婚を決めた香奈は居なくなってしまった。あんなに自由で、身軽で、遊び回っていた香奈は、赤ん坊とホテルに泊まるのを怖がり、ヒステリーを起こしているのだ。もう、東京で三人、普通にいつも通り一緒にいた方がいいのかもしれない。

このまま香奈を西に避難させたら、悲惨な結果が待っているかもしれない。もういいよここに一緒にいよう、といってしまいそうになったその瞬間、ちょっと待ってと言った香奈が鳴り始めた携帯を手に取った。もしもしお父さん? と香奈が話し始めたのを見て、僕は寝室を出て仕事部屋に戻った。パソコンには、ホテルの予約完了画面が映し出されている。

僕は窓の外を見つめた。この東京の空に、もう放射能は舞っているのだろうか。次第に、もうここに居た方がいいのかもしれないと気持ちが傾き始めていた。今から出発したら、外で放射能を浴びるかもしれない。それなら、ガムテープで目張りして、しばらく遥を外に出さないように気を付けて暮らした方がいいのかもしれない。

そんな風に思いながらも、頭の中には友達の「子供だけでも西」という言葉がこだましていた。携帯を取り、着信履歴を表示させる。友達の名前を見つめ、携帯を閉じた。どこかで、さっきの電話は自分自身の恐怖心が見せた幻だったのではないかと、自分を疑っていた。それくらい、僕は自分が見ている世界が信じられなかった。

うんにゃあと声が聞こえた。遥がお昼寝から目覚めたのだろう。僕は寝室の前を通り過ぎる時に「僕が行くよ」と香奈に声をかけ、子供部屋のベビーベッドの中でふるふると蠢(うごめ)く遥を抱き上げた。まだ首の据わらない遥の頭を二の腕で支え、右手で小さい頭を撫でる。瓶に入っている所しか見たことがないけれど、マリモはこんな感触かもしれない。そう思わせる、生えたたての柔らかな髪の毛。小さな目が僕を捉え、細く歪んだ。

「今笑ったね?」
 嬉しくて思わず僕も笑ってしまう。その時、奥山透の企画も、今進行中の仕事も、全て捨ててしまいたいという選択肢がちらりと頭をよぎった。いやまさか、と同時に思い直す。冷静な判断が出来ていないのは、もしかしたら香奈ではなく、僕なのかもしれない。そう思うほど、遥を抱きながら見上げた東京の空は普通に青く、普通に美しかった。
「お父さんが、行かなくていいって」
「お義父さんが?」
「うん。大丈夫だって。原発の事は国の発表している通りで、東京から逃げる必要はないって」

 もうこれ以上、西への避難を勧める事は不可能だと僕は思った。そうか大丈夫なのかと、どこかで思っていた。佳奈の父親は、都庁に勤めている。何とか局長という役職だった。お義父さんが言うなら、大丈夫なんだろう。きっと、僕たち一般市民には知り得ない内部情報もそれなりに回ってきているはずだ。

僕は次第に、友達の言葉にフェードアウトしていくのを感じていた。彼は混乱していたのかもしれない。彼に電話してもう一度詳しく話を聞こうと思ったけれど、忙しいだろうと思い直して、僕はわかったよと答えた。

「三人でここにいよう。きっと大丈夫。念のために窓に目張りして、しばらく遥を外に出さないようにしよう」

 香奈は涙の跡が残る顔で、びっくりしたよ、修人が突然西に行けなんて言うから、と言ってまた泣き出した。悪かったよ、心配し過ぎたね、お義父さんが言うなら、きっと大丈夫だよ、遥を左腕に抱いたままそう言って、右手で香奈の頭を撫でた。良かった、と泣く香奈を抱きしめる。

両手で女性を二人抱えた僕は、息苦しさを持て余していた。ゴールのない迷路にラットを放り込むように簡単に、終わりのないゲームに投げ込まれたような気分だった。もう止めよう。無駄に香奈を不安がらせるのは止めよう。大丈夫。被曝なんてしない。僕はそれから脚立を持ち出し、一心不乱にガムテープで目張りを始めた。

最初にベビーベッドの置いてある子供部屋、次にリビング、寝室。僕の仕事部屋の目張りを始めた辺りで、二つあったガムテープがなくなった。目張り作業はそこで止めた。僕は満足していた。そして新幹線とホテルのキャンセル作業を始めた。

 千鶴は三杯目のジントニックを呑み終えると、ワインをボトルで頼んだ。
「私好きなの。この雰囲気」
「この雰囲気? 
この、店の?」
「うん。このちゃらけた、真剣さの欠片もない空気。意味なく盛り上がって、意味のない話しか聞こえてこない感じ」
「意外だな。千鶴ちゃんは、そういうところが嫌いだなと思ってた」
「別に大好きではないけれどね」
「千鶴ちゃんがあんな風になることってあるの?」
「昔はあったよ。今はさすがにもうないけど。でもね。あの感じって日本にしかないの。無意味の渦がものすごい速さで出来上がって、狂乱が生まれていく感じ。昔CMで、メリーゴーランドの周りに自転車が何十台も置かれて、それをマッチョな男たちが一斉に漕ぎ始めて、その力で発生した電気がメリーゴーランドを回すっていう、何のCMか忘れたけれどそういうのがあって、日本のわっと盛り上がってエネルギーを生じさせていく感じって、何かのイメージだなって思うの。皆が漕ぐのを止めるとメリーゴーランドはゆっくり減速して止まって、電気もふっと消えるの。

あの何も残らない感じ。皆で生じさせた電気は、メリーゴーランドに乗っている子供を喜ばせるためでもなく、自分たちが乗るためでもなく、その電気はただただメリーゴーランドを回すだけ。意味も分からないまま。ここにいる人たちも、今この瞬間のこの場を如何にぐるんぐるん回していくかって事を目的にしている。それで大いに回った後、遠心力でホテルまで飛んで行ったりする」

「僕はそういうのが大嫌いだけど」
「私も大嫌いだったけど、フランスに行って最初に恋しくなったのは日本食でも友達でもなくて、この無意味さが横行する空気だった」
「僕らも盛り上がってみる? 無意味に」
「修人くんとは無理」
 苦笑いで呟いた千鶴には、どことなく老衰した印象が残った。あの無意味で悪趣味極まりないコンパや飲み会のノリが好きだと発言する千鶴の中には、そこはかとない虚しさを感じる。
「千鶴ちゃん、シンガポールでは何をしているの?」
「語学校に週三日通って、土日は旦那とテニスとゴルフ、たまに個人で通訳とか家庭教師やっておこづかい稼いで、余った時間でショッピングと映画」
 思わず苦笑いが洩れる。彼女の話を聞いていると、自分が鳥かごに閉じ込められた犬のように感じられる。
「千鶴ちゃんて、英語ぺらぺらだったよね? 語学学校で何語勉強してるの?」
「英語。フランスでフランス語がんがん詰め込んでたら、結構飛んじゃったの。飛んだ分を取り戻しつつ、商業用の英語も身につけようと思って。今回の駐在は長くなりそうだから、私もいずれ働けたらなって。シンガポールには日本企業がたくさんあるし。英語がそれなりに身に付いたら、次は中国語を日常会話レベルくらいマスターしようと思ってる」

 なんだろうねその語学に対するポジティブさは。と、学生時代にもっと英語をきちんと勉強しておけばよかったと後悔している多くの日本人の典型である僕は無力感に打ちひしがれ溜息まじりに呟いた。
「何にもないから言葉を詰め込んでいるだけだよ。修人くんみたいに、創造する人とは違うから。まあ、専業主婦のお遊び。フラダンスとか料理教室に通うおばさんと一緒。私はそういうおばさんたちとちょっとベクトルが違っただけじゃない?」
「僕は、もう二年仕事をしてないんだ」
 千鶴は笑って、嘘でしょう? と弾むような声で言った。
「震災があってから、ずっと駄目なんだ。元々リーマンショック以降広告業界自体たちいかなくなっていたけど、震災でダメ押しされた所があって。僕んとこは他のデザイン事務所と比べたら面白いぐらい景気が良かったんだけど、それでも震災の時に企画段階だったものはかなり話が流れてさ。

いや、まあそれもこじつけで、本当は単に僕が駄目になったんだけどね。震災で打撃があったものも、企画が殆ど流れたのも本当だけど、そもそも僕が駄目になったんだ。ガラスがぱーんと打ち砕かれたみたいに、粉々になった感じだよ」
 黙って相槌も打たずに聞いている千鶴に居心地が悪くなって言葉を止める。でも突き動かされたように口が開いた。
「何も出てこないんだ」

 そう言い切った瞬間、心臓の鼓動が速くなった。ずっと誰にも言わなかった。何も出てこないと認めたくなかった。いや、認められなかった。今は形にならない、今は出来ない、もう少し色々整理しないと駄目だ、来月には、いや、再来月には、いや、数ヶ月後には前のように仕事が出来るはずだ。ずっとそう言い続けて来た。自分自身にも、そう言い聞かせてきた。震災から一年半後、僕は事務所を辞めた。独立という建前ではあったけれど、事実上今僕は無職だ。

最後まで引き止めてくれた佐野にさえも、何も出てこない正直に話すことは出来なかった。震災まで、僕はどんな仕事でも企画書を詠んだ段階である程度のイメージが出来ていた。でも震災から一年半、震災の段階で既に企画が進行し構想が決まっていたものや、以前に作ったデザインの流用程度のものは作れても、新しいものを一から作る事がほとんど出来ず、限界まで引っ張った挙句佐野に丸投げする事もあった。

そうしてそうやって佐野が創ったものが良いのか悪いのかという判断さえつかなかった。佐野は知っていたはずだ。僕がもう何も作れないと。

「笑っちゃうくらい何にも出てこないんだ。今まで自分がどうやってあんなに膨大な仕事をこなしてきたのか全く思い出せない。何を根拠にあんなに強い自信をもって物を作っていられたのか、さっぱり分からない。自分が過去に強い自信を持って作った物も、今となっては良いのか悪いのか判断出来ないし、人の物を評価することも出来ない。何が良くて何が良くないのか、さっぱり分からないんだ。

今の僕には、全てが意味のないものに見える。広告とかデザインなんてどうでもいいような気がするし、もっと言えば世の中の全てのものに意味を見出せない。正直、デザイン始めてから十四年も経って、手が勝手に作っているような感じで何でも作れたんだ。難しい事なんて何もなくて、発注元の望むイメージさえ分かっていればそれを大衆に受ける形にするのは容易かった。

面白いほど簡単に合格点のものが作れた。もちろん全ての仕事に真剣に取り組んだよ。自分が驕っていたとも思わない。でももうわからないんだ。あの時自分が何をみていたのか。思い出されるビジョンは、全てが作り物に感じられる。震災前の自分が、もうさっぱり分からない。今の僕にとって、以前の自分は全く理解出来ない人種なんだ」

「修人くんは、震災前の自分と後の自分と何が変わったと感じるの?」
 僕は、と言ってからワインを飲み干す。ふと気づいて煙草を取り出し火をつける。今自分が自分にとって有意義だと思える事は酒を飲む事とタバコを吸う事で、今その有意義さの頂点にいる自分が全く以て何者とも関わらない、何者にも影響を与えない虚無的な存在である事に愕然とする。

「世界が変わったと思ったんだ」
 世界? と呟いて千鶴は背もたれに寄りかかるとそのまま肘掛けソファの上部に頭を載せ仰ぐように天井を見つめた。千鶴の胸元が、呼吸に合わせてゆっくりと上下している。世界か。彼女の繰り返した言葉は、彼女が世界の全てを知っていると錯覚させるような響きを持っていた。

僕は、香奈に外に出ないようきつく注意した。食材は全て僕が買って帰るか、宅配の食材を頼む。ゴミ捨てもする。何か欲しい物があったら全て僕に言ってくれと言った。彼女は、もうあの避難するしかないの騒動以来、全く放射能の事を気にしなくなっていた。立て続けに原発が爆発しても、大変だね避難区域に指定された地域の人は、と全く他人事な態度でニュースを流し見ていた。

僕は安心しきれず、断続的に原発と放射能の事を調べ続けていた。まあ大丈夫だろうと思う時と、やっぱり東京も危ないじゃないかと思う時と、気持ちがぶれ続けた。危険だと言う人の情報を読めば不安になり、大丈夫だと言う人の情報を読むとやっぱり大丈夫なんだという気になった。

どんな結論を出せばいいのか、どんな決断をすればいいのか分からず、ひたすらパソコンに向かって調べ続ける事しか出来なかった。こんなにも自分が無力だと思った事はなかった。逃がすべきなのかもと思いながら、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせ続けた。

 東京の浄水場の水から一キロ当たり210ベクトルの放射能ヨウ素が検出された時、僕はもう一度香奈に避難しないかと聞いた。香奈は何言ってるのと笑って、もう全く取り合ってくれなかった。外出禁止令も四月に入る頃にはすっかり無効化してしまい、今日はちょっと遠いスーパーまで買い物に行っただの、今日は遥を連れてカフェに行けただのと、香奈は嬉しそうに話すようになった。地表に近い所の線量が高いからベビーカーではなく抱っこ紐にしてくれという僕の願いは聞き入れられたが、もう数キロ遥が重くなったら、ベビーカーに切り替えられるのは目に見えていた。

 五月に入り、ほうれん草から何ベクレル、レタスから何ベクレル、牛乳から何ベクレル、お茶から何ベクレル出た。と次から次に食品汚染がニュースになると、僕は東北関東のものは買わないように香奈に注意した。でも、外で素性の分らない食材は口にするな、と注意した数日後には友達とカフェランチをしてよく分らないけどカレーを食べたという。

冷蔵庫の中を見ると、牛乳は東北産、禁止したはずのキノコもあれば、国産としか明記されていない肉も入っている。西日本のものを買ってくれと言ったんじゃないかと言うと、だって売ってないんだもんしょうがないでしょ? と苛立ったように言い返された。

「ちょっと考えてみてくれないかな。遥は香奈の母乳を飲んでいるよね? チェルノブイリの時、一万キロ近く離れた日本の母親の母乳からも放射性物質が検出されたんだよ? 今福島から三百キロそこそこの東京に暮らす香奈の母乳がさ、吸気被曝の分は仕方ないにしても、食べ物によって汚染される可能性があるんだよ。

そう考えたらさ、空気と違って自分で選ぶことの出来る食材で母乳が汚染させてしまうのは、出来るだけ避けた方がいいと思わないか? 今の日本には、避けられる危険と、避けられない危険があるんだよ」

「避けられないのよ。だって東京で食材を買うんだよ? 西日本の物なんて何もないよ? 修人この間も製造所の場所がどうのこうのって言っていたけど、そんなもの見ても分からないし、その修人がよく言ってる、製造所固有記号なんて見ながら買い物なんて出来ないよ。

遥連れてベビーカー押して買い物してるのに、そんな何時間もかけて原材料の産地とか製造所とか調べてられないし、それこそ加工食品なんて産地書いてないから一つも買えなくなる」
「ちょっと待ってよ、香奈、ベビーカーで買い物してるの?」
 あーまた始まった、という顔で僕を見つめる香奈が信じられなくて、僕は呆然として体から力が抜けていくのが分かった。どうして彼女は、怖くないのだろう。怖い僕がおかしいのだろうか。頭がおかしくなりそうだった。封の開けていない牛乳、産地の分からない肉、キノコ類を全てゴミ箱に入れると、香奈に殺されるんじゃないかと思うほど鋭い、軽蔑の籠った目で僕を睨みつけた。

「今も避難して満足にご飯を食べられない人たちもいるのに、修ちゃんは東北のものだからって理由で食べ物を捨てるんだね」
 香奈の言葉に、当たり前だよと呟く。
「僕のしている事が何か間違ってるっていうんだ? 僕は遥を被曝させたくない。だから被曝する可能性がある物を香奈に食べてもらいたくない。佳奈がそんな偽善的なことを言う人だとは思わなかったよ。アフガンで餓死している子供たちいるからって、香奈はこれまで何も食べ物を捨ててこなかったっていうのか? ピザの端っこの部分とか、サンドイッチの具の入っていない所を香奈が残しているのを僕は何度も見て来たよ。

ここは美味しくないからって理由で食べ物を捨てるのと、これは被曝する可能性があるからって理由で食べ物を捨てるのと、どっちが真っ当だと思う? はっきり言っておくよ。僕は自分の家族さえ無事ならそれでいい。アフガンの子供たちも東北の子供たちもどうでもいい。僕が彼等を守ることが出来ないからね。僕が守れるのは、香奈と遥の二人だけだ。だから僕は香奈と遥を守りたいんだよ」

 香奈は黙ったまま軽蔑の視線を憎しみの視線へと変え、無言のままリビングを出ていった。信じられなかった。でも、香奈は僕のしていることを、同じ気持ちで見つめていたのだろう。香奈は本気で僕を軽蔑していた。

 このままではうちの冷蔵庫は汚染食材の宝庫になる、そう思った僕は、頼みの綱で同職の友達に電話を掛けた。オーガニックマニアで、食品の危険性について語らせたら右に出る者がいないと、仲間内でネタにされるほど自然派志向の友達だった。久しぶり、元気? 
という挨拶もそこそこに食材について質問し始めた僕に、彼女はすぐに感づいたようだった。

「西からの配送ってもしかして放射能?」
「そう。放射能。うちの奥さん、何にも気にしていないんだ」
「子供がいるんだよね?」
「そう。まだ離乳食はやっていないんだけど、母乳が心配でさ。レイカの所は? ちゃんと気を付けてる?」

「気を付けているよー。必死。はっきり言って震災以降子供に震災前の物と海外の物のしか食べさせてない」

 彼女のある意味過激ともいえる自然派志向に、僕が共感する日がこようとは想像もとなかった。
「さすがだね。何か色々、頼むよ情報。僕はそういうの全く詳しくないし、彼女は自分で調べる気は全くないし。あまりにも情報不足なんだ」
「任せといてよ。九州から直送してくれる有機栽培の農家を教えるよ。あと、外国のオーガニック食材を買えるサイトとかも送るから。何か他に知りたいことがあれば、教えるよ。うちは最近アメリカのオーガニック粉ミルクとオーガニックオムツが五日で届く個人輸入サイト見つけて、もうほとんど完全な物のルートは確保出来た感じだからさ」

「粉ミルクとオムツの方も頼む。あとは、何か放射能について知る上で有益なサイトとか、放射能関係でレイカが追っかけてる人がいれば教えて欲しい」
「了解。どしどし送るよ!」
「ほんと助かる」
「修人くんの所は…‥三月はどうしてたの?」
 僕は、と言いかけて言葉に詰まる。遥を逃せなかった無力感に、胸が痛くなる。
「私しんとこ、居ちゃったんだよね。結構最初の頃国の発表信じちゃってさ、何か危機感意識働いて食べ物とか水は震災前の物と海外の物に完全に切り替えたんだけど、まあ仕事もあったし、四月くらいまでは逃げるって発想は無くて」

「うちも、逃げられなかった」
「ま、今更考えても仕方ないから、これから出来る事を前向きにやっていくしかないよね。でも、ちょっと考えているんだ」
「何を?」
「うち、移住するかもしれない」
「ほんとに?」
「うん。旦那がかなり本気で移住って言い始めてたの。私は、やっぱり東京にいたいし、仕事だって西に行ったら無くなると思うから踏ん切り付かないんだけど」
「旦那さんは、東京は危ないって?」
「大丈夫かもしれないけど、もしもこの子に何かあったらって思うと、って、泣かれたの。東京にこだわってる時じゃないのかもって、私も少しは考え始めたて‥‥旦那は元々一年の半分は全国を飛び回ってるし、拠点がどこになろうと関係ないからさ」

 僕は、何度かライブで見たことがあるレイカの旦那を頭に思い浮かべた。ソロのミュージシャンとして活躍し、作曲家として他のミュージシャンに曲を提供したりもしている人で、レイカが結婚する前からちょくちょくCDを聞いていた僕は、同じ事務所から独立した先輩であるレイカが彼と結婚したと聞いた時は大声をあげて驚いた。

「そっか。レイカはほら、子供できてから規模縮小してたし、今の仕事量なら西でも何とかなるかもよ。京都なら二時間ちょっとだよ? ちょっと打ち合わせって事になっても何とかなるんじゃないか?」
「そうかな。まだ分かんないけど、移住とか、また何か決まったら連絡するよ。周りに放射能気にしている人すごく少ないから、修人くんが気にしてるって知ってちょっと気分が楽になった」

「僕もだよ。奥さんが全く気にしてないから、外でも家でも孤立している感じで」
「私さあ、あれがきっかけで母乳止めたんだ」
「事故があって?」
「そう。原発爆発のニュース見て、その日だけあげて、次の日に断乳したの」
「何でそんな危機意識高いかな。レイカ、あんなに母乳育児張り切ってたのになあ」
「ほんとだよ。食べ物もすごく気をつけて、栄養のバランスも気を付けて、お酒も飲まなかったのに、放射能で全部おじゃん」
「やっぱり、うちも海外のミルクに切り替えた方が良いのかな」
「それは、奥さんが決める事だよ。私は、すっごく泣いたよ。断乳してからしばらく、ずっと涙が止まらなかった」

 母乳をあげるという行為が、女性にとって一体どういうものか、僕は近くでみていてもきちんと理解しているとは思えない。彼女が泣いてまで断乳したという事が、僕には実感として、全く共感出来なかった。同時に、何故そこまで危機意識が働いたのなら、避難しなかったのだろうと不思議に思う。

「ま、とりあえず情報送るから。参考にしてよ」
 レイカの明るい声に顔を上げ、ありがとうと答える。じゃあまたねと言った彼女の声が震えているような気がして、僕はまたねと無理矢理明るい声で答えた。それぞれの家庭に、それぞれの原発事故がある。それぞれの家庭に、それぞれの放射能被害がある。僕は空が開けたように、霧が晴れたように、気持ちがすっきりしていることに気がついたら。

やっぱり東北関東は子供には良くないなのかもしれないという不安要素を植え付けられたにもかかわらず、こういう話が普通にできる人がいる事に、僕は感動していた。でも同時に、同じ屋根の下に暮らす香奈に、遥の口にするものの決定権を持つ香奈に、同じように危機感を持って語ることの出来ない状況には溜息しか出なかった。どんなに気を遣って放射能の危険性について語っても、彼女は僕が危害を加えて来る敵だと思っているかのように顔をしかめてそれ以上言ったらキレるぞというオーラを出す。

 大人のインスタントものから子供の粉ミルクやオムツやおもちゃまであるアメリカのオーガニック専門ショップ、放射能対策の支援として個人で粉ミルクを発送してくれているオーストラリア在住の女性の連絡先、九州の野菜を直送してくれるショップ、飼料まで全て輸入ものと公開している九州の乳、卵製品のショップ、測定法には疑問があるけどという前提で全品検査をしているという大型の食品配送ショップ、ゲルマで全品測定をしている北海道の有機栽培農家のショップ、

更には海外製造のティッシュやトイレットペーパーを売っているショップまで、レイカのメールに僕の知りたい情報が全て詰まっていて、更に全てのショップの電話対応の態度や危機意識のレベルについても書いてあった。数日後、レイカの旦那がチェルノブイリ関連の動画や、健康被害に関するレポートのPDFファイルを添付したメールを送ってきた。面識もない僕にわざわざそんなメールを送ってくれた彼の気持ちが、僕には少し分かった。

同じ疑問、同じ不安を抱いている人が周りにいない状況にいるのが、きっと彼も辛いのだろう。だから、同じ不安を持っている僕に、ここまでしてくれるのだろう。でも彼ら夫婦のように、香奈と僕の間で同じ危機感を共有出来ていたら、僕はどれだけ楽だっただろうと思わずにはいられなかった。

 彼らの過激なまでの放射能対策に驚いた部分もあったけど、僕は彼らがやり過ぎているとは思わなかった。でも彼らからもらった情報を、そのまま香奈に知らせる事は出来なかった。手始めにチェルノブイリ関連の動画を送ったら、香奈は酷く取り乱した。確かにショックな動画だったかもしれなかった。でも見てもらいたかった。そうすれば、香奈は今自分の置かれた状況に気づき、少しは食材に気を遣ってくれるかもしれないと思ったのだ。

でも現実には、彼女は泣いて喚いて取り乱して、何でこんな気色悪い動画を送りつけるのよ遥がああなるわけがない。皆が東京は大丈夫だって言っている。私だってたくさんの情報を調べてきた。あなたの言っていることがどれだけ滑稽な事なのかがきちんと分かるサイトをいくつも知っている。これから送るサイトを全部隅なく読んで欲しい。そうすればあなたはチェルノブイリと福島がどういう意味で違うものなのか分かるはずだ。彼女はまくしたて、僕にいくつかのサイトを送った。

そのサイトに載っているのは、確かにもっともらしい情報だった。でも何故この人たちがこういう事を話すに至ったかという背景を調べ始めると、とても彼らの語ることを信じる事は出来なかった。確かにチェルノブイリと福島は違うかもしれない。キエフと東京は違うかもしれない。でも、大丈夫かどうかなんて誰にも分からない。

何を以て大丈夫と言うのかも、人によって違うのだ。東京で一万人の子供が死にました。それをほら大した事なかったと言うのか。大変な事態だと言うのか、それはほぼ個人の裁量だ。百人死にましただったら、基本的に大丈夫でしたの範囲に入るかもしれない。でも放射能の影響で死んだと断定する根拠が明確になっていない以上、過激に気にしてしまうのは当然の事じゃないだろうか。

最悪の場合を想定するのが人間の性ではないだろうか。何故彼女は、それが分からない以上気にしても仕方ないと思うのだろう。香奈はおかしくないだろうか。いや、おかしいのは僕なのだろうか。想い出される香奈の記憶はまるで別人のようだ。
あんなにもシンクロしていた僕らは今、もう何一つ大切なものを共有していないように見える。僕たちは遥という大切な命を二人で作り上げたいというのに、いや、それ故にかもしれないが、二人で同じ世界を生きる事はもう不可能な気がした。

 おばさんのコンパ組が二次会に流れ、店内は風通しが良くなっていた。でも少しずつ、千鶴と二人でいる事に、違和感を抱きつつあった。何故今僕はここで、彼女と二人で飲んでいるのか。何となく流れで会う事になってしまったけれど、さほど親しい付き合いをしていたわけでもない彼女に、何故ここまで個人的な話をしているのか。自分でも分からなかった。今冷静になったって仕方ないと思い直してワインを飲むけれど、酔えば酔うほど、僕は彼女と二人でいる空間に居心地の悪さを感じ始めていた。

「妹の事は詳しくは知らないけど、それは知ってる。フランスから最初に連絡が取れたのが妹でね、その時からもう逃げるかもって言ってた。爆発前から。爆発するかもしれないから逃げるかもしれないって。で、本当に最初の爆発が起こる前に沖縄に飛んで、半年間沖縄に住んで、ビザが取れるや否やそのままイギリス」
「それはすごいね。なんていうかその、妹さんは、頭のいい子なの?」
「頭? 頭は、悪いと思うけど」
「頭悪いんだ?」
 変なやり取りに、二人して笑いが止まらなくなる。ふうっと息を吐きながら、二本目のワインを飲み始める。つまみがないねと言って、彼女はチーズの盛り合わせを頼んだ。
「エリナは、よく言えば天真爛漫。悪く言えば馬鹿。あ、エリナって妹ね」
「そっか。千鶴ちゃんとは正反対なタイプだ」
「私をよく言えば?」
「向上心のある優秀な女性」
「悪く言えば?」
「近付き難い自信満々の完璧主義者」
「修人くんは、良く言えば天才肌の敏腕クリエイター。悪く言えば独りよがりの自己満足男」
 そこまで言うかと思いながら、苦笑いを浮かべる。離婚する前に、香奈にも同じような事を言われたのを思い出す。

「たまには、連絡してあげたら? 海外で一人で、すごく寂しいかもしれない」
「あの子には心配も同情も不要ないの。こっちが何か気遣って言うと、何が? っていう人なの。悪意が無いのが救いだけど、とにかく人の気持ちが分からないの」
「人の気持ちが分からない人にも、寂しい時はあると思うよ」

 そう と呟いて千鶴は笑った。寂しいのは修人くんじゃない? 彼女の言葉に、胸が痛くなる。
「そうかもね。僕は確かに孤独だ。寝ても覚めても咳をしても一人」
「子供には会っているの?」
「一ヶ月に一回ね」
「子供がいる時、楽しい?」
「楽しいけど、まだ二歳だからね。普段会っていないから、会ってから慣れるまでに時間がかかって、ようやくきゃっきゃ言って遊んでくれるようになったかと思ったらバイバイだから、もどかしいね。もうちょっと大きくなったら違うんだろうけど」

 修人くんがお父さんか。という千鶴の呟きに、漠然とした違和感を抱く。実際に子供が生まれてみて、ほとんど育児に参加できない僕が父親を名乗る事を、僕はずっと申し訳なく感じてきた。ロクに育児もしていないのに、うちの子はさあ、と父親である自分を誇示するような男を何人も見て来たせいだろうか。子供が生まれてからは、そういう奴を見るとお前は父親というより種馬だろうと思うようになった。

だからこそ、僕は家庭内での決定権は香奈に委ねようと決めていた。家庭の全てを切り盛りしている香奈から決定権を奪ってしまったら、僕たちの関係は破綻してしまうと思っていた。だからあの時、僕は西への避難をあれ以上勧められなかった。でもだからこそ、西からの食材の配送や、海外のものの個人輸入はかって出た。香奈の仕切る範囲を出来る限り壊さないように気を遣いながら、ネットショッピングを続けた。

料理しない人が食材買ったって駄目なの、何もわかってない、ミルクもフォローアップミルクなんてまだ飲めないのに間違えるし、香奈の愚痴は日増しに増えていった。これまで自分が担ってきた食事や子供の事に干渉されるのが嫌だったのだろう。仕事も出来なくなり、香奈には否定され続け、もやもやとした放射能への恐怖を人に語れずにいる内に、僕は次第に自分の前にたちはだかる無力感がもう自分の力で越えることが出来ない領域にまで肥大しているのを感じ始めた。

赤ん坊はこんな気持ちなんだろうか。今目の前にある紙くずさえ自分の力では払いのける事が出来ないよう、そんな無力感だった。もう、自分には何も出来ないような気がした。何かを決断する事も、何か行動する事も、何かを動かす事も、何も出来ないような気がした。実際その頃の僕に出来たのは、ネットショッピングと放射能について調べるだけだった。

 病的だよ。狂ってる、どうしちゃったの、香奈は何度もそう喚き散らした。こんな修人とまともに話せないよと何度も涙を流した。香奈の言葉は、僕をより締め付け、僕の無力感はより強くなるばかりだった。どうかしていると喚く香奈の向こうで、ハイハイする遥をぼんやりと見つめていた、あの小さな体が、今まさに被曝しているかもしれない。

あの小さな体の中の小さな骨の中に、筋肉の中に、生殖器の中に、香奈の食べ物の中から溶け出し母乳へと移行した放射能物質が蓄積しているかも知れない。僕と香奈と遥、三人の体から光を放ち、三人の身体から発せられる放射線が互いの体を貫き合っているように見えた。

光り輝く家族をぼんやりと見つめ、はっと我に返ると、僕は香奈に背を向けてリビングを出て、仕事部屋に籠った。そしてまた放射能について調べ始めた。確かに僕は、正気ではなかったのかもしれない。

 僕は何故、合理的な判断が出来なかったのだろう。合理的に判断、それは非難する事。或いは東京で出来るだけ食事や吸気による被曝に気を付けて暮していく事だ。僕はそのどちらも選択する事が出来ず、このままじゃいけない、このままじゃいけない。とずっと悩み続けていた。香奈とも、きちんと冷静に話し合えば、食材についてだって妥協点をみつけられたはずだ。

僕は自信がなかった。とにかく自信がなかった。放射能について話すたびにどうかしてる。おかしな人、という目で見られ続けるうち、自分の気にしている事が本当に気にするべき事なのか、さっぱりわからなくなっていた。
「円満離婚だったの?」
「どうかな」
「時間かかった?」
「話し合いにね。向こうからの条件と僕の条件が食い違った」
「面白そう。修人くんはどんな条件を提示したの?」
「彼女がずっと欲しがっていた高級マンションを購入する。養育費も月十万。言っとくけど養育費の相場は普通一人五万って言われている所を十万だよ」
「は? 向こうはそれ受け入れなかったの?」
「マンションは京都以西のもの、って条件をつけた」
「…‥それって、放射能の事で?」
「そう。西に行けば、食材は必然的に西のものが多くなる。本当は、遥には関西以西のものしか食べさせないっていう条件も付けたかったけど、それを言ったら多分異常者扱いされておじゃんになると思って」
「それは、異常者扱いにされるわ」
「京都以西ってだけで猛反発だよ。もう、何日も何日もものすごい罵声を浴びせられたよ」
「だって元奥さんて東京生まれでしょ?」
「いや、生まれは福岡で、子供の頃は福岡に住んでいたんだ。まあ、子供の頃だけど」
「それは無理だよ。東京で育った人に東京出て一人で子育てしろって、それは猛反発するよ普通」
「でも千鶴ちゃんだって旦那さんが転勤だから、ってあっさりフランスに行ったじゃない」
「旦那が一緒じゃなかったら行かなかった」
「千鶴ちゃんの妹は一人で子供を連れて東京を出て行っただけでなく日本から出ていった」
「ああいうのは基準にはならないって」
「子供も一歳過ぎてたし、育児も少しく楽になってきたようだったから、行ったんだよ」
「結局、どうなったの?」
「今京都に住んでる」
「うそ?」
「条件付きでね。僕との契約期間は五年。離婚後五年経ったら、彼女は自分の好きな所に暮していい。マンションは売ってもいいし、賃貸に出してもいい」
「それって、何か、何ていうか‥‥」
「滑稽だよ。愛し合って結婚したはずの女が、最後は経済的にどっちが得かを考える条件の摺り合わせをする。別に、僕が浮気したり暴力ふるったりしたわけじゃないから、本来だったら結婚してから築いた財産の分与だけで済んだはずだったんだ。京都に住めば、それはプラス高級マンション。

彼女は相当迷ってたけど、現地のマンションの内見に行きはじめた頃から顔つきが変わってさ、確かに関東は余震が多いし心配だよね、とか言い始めて、何か、ぽかんとしたよ。もちろん、一人で生きていく決意をした彼女が経済的な問題をシビアに考えなきゃいけなかったのは分かるし、何にせよ最後はお互いに納得のいく結論が出た。僕はその条件を彼女が飲んでくれた時、震災以降初めて彼女を愛おしく思えたよ」

「でも五年後に、戻ってもいいの?」
「五年いれば、娘も小学校に通う頃だし、きっと向こうで新しい彼氏とかも出来るだろうし、生活も落ち着いて働きづらくなるんじゃないかっていうのが一つ。あと、チェルノブイリの被害は事故の五年後から顕著化したっていうのが定説で、離婚が震災の一年後だから、事故から六年後に契約が切れることになる。

その頃に東北関東で被害が見え始めていたら、彼女自身も考え直すかもしれないし、もしその頃に被害が出ていなかったら、僕も杞憂(きゆう)だったと思える」

「修人くんは、自分は逃げようとは全く思わなかったの? 海外で仕事に就こうとか、西の方で事務所構えようとか」
「散々悩んだよ。でも、動けなかった。仕事をするに最適な環境を捨てようとは思えなかった」
「でも、結局仕事は出来ないと」
「離婚していなかったかもしれない、からしばらくして、事務所を辞めたんだ。離婚して、子供を被曝させる心配から解放されて、養育費も払い続けなくちゃいけないって、仕事に対するモチベーションはあったんだけど、結局何も出来なかった。事務所を辞めた時、自分も避難して京都の子供の住んでいる辺りに引っ越そうかなとも思ったけど、やっぱり僕の仕事は東京じゃないと出来ないから。また前みたいに仕事が出来るって思っていないと、自分が保てないんだ」
「何か、自分勝手だよね。危ないかもしれないから逃げろって言って、逃げない人を責めて、逃がしたらもうおしまい。能動的なように見えて、修人くんは全然能動的じゃない。自分は何にもしない。ただパソコンの前に座って調べものして指示を出すだけ。誰もそんな人のいう事聞こうなんて思わないよ」

「僕は、自分にできる事をしただけなんだ。でも千鶴ちゃんの言いたいことは何となく分かるよ」
 ぼんやり水の流れるガラスの壁を見つめる。自分の何が悪かったのか、千鶴の言っている事は、分かるようでわからない。じゃあ実際に、どうかれば皆が幸せになれるのだろう。どうすれば、僕と香奈が一緒に幸せになる事が出来たのだろう。僕の一寸した態度や言動の違いで、彼女と僕の運命が変わっていたとも思えない。

「一緒に行けば良かった。修人くんが一緒に行こうって言えば、奥さんも避難したと思う。一緒に逃げて、一緒に考えて、一緒に結論を出せば良かった。修人くんは奥さんに避難を迫った時、奥さんの自由と決定権を奪ったんだよ」
「自由と決定権を奪ったのに避難させられなかったってこと?」
「奪ったから、避難させられなかったんでしょ」
「僕のあの言動が、彼女から自由と決定権を奪うものであったとは僕は思わない。僕は、彼女自身に考えてもらいたかった。冷静にどうすべきか、きちんと話し合いたかった。でも彼女は泣いて取り乱しただけだった」

「結局、行動がすべてでしょ。あなたが決めても二人で決めても、子供を避難させるのは奥さんでしかない。そこでフェアに話し合おうっていうのがそもそも無理じゃない?」

「でも彼女には仕事が無かった。僕には仕事があった。僕がその仕事で幾ら稼いだと思う?避難するのにもお金が必要だ。これは単なる状況の違いによる棲み分けだよ。僕が専業主夫なら避難してた。それは確実だ。

福島でもその周辺でもたくさんの家庭が母子避難している。それは男には仕事があるからだよ。そこでしか出来ない仕事があるからだよ。何もかも捨てて家族で田舎に引っ越してどうする? 家庭菜園で細々と暮していくのか? そんなこと出来っこない」

「彼女にとって母子避難は、それと同じくらい出来っこない事だったんじゃない?」
「僕にはわからないんだ。彼女が何故母子避難をそこまで恐れていたのか。子供が生まれるまで、彼女は冷静な人だった。取り乱したり、ヒステリーを興したりするタイプの女性じゃなかったんだ。本当に、出産と震災を機に、別人になったような気がしたよ」

「男は出産で母になってしまった女に苛立ち、女は子供が出来ても変化のない男に苛立つ。ありふれた話じゃない?」

「そんなありふれてるの?」
「よく聞くよそういう話。女の人は、母親になると子供を守るために危機意識が強くなるから。修人くんの危機意識とは、全く別の所の危機意識が、彼女にも働いてたんだと思うよ」
「あれだけ妊娠中食べ物に気を付けて、僕に禁煙しろとまで言ってた彼女が放射能を気にしないなんて、僕にはちょっとSF過ぎる話だったよ」
「でも、修人くんの状況を聞いて、そこまで原発事故が怖かったのなら、何で仕事を辞めて家族で非難しなかったのか分からない、って人もたくさんいると思う」

 僕は全く、千鶴の言う事に共感出来なかった。放射能の影響を受けやすい子供を避難させたい。それは普通の事だ。じゃあ誰が避難させるか? それは現実的に動ける人、うちで言えば香奈だった。誰が経済を回して行くか? 香奈が専業主婦である以上それは僕でしかなかった。でもこれ以上この押し問答を続けても、意味がないような気がした。これと同じようなやり取りを、香奈ともしていたような気がする。

あなたはいつも私の感情を計算外にしているから話が嚙み合わない、私がロボットならいくらでも避難した。でも私はロボットじゃない、感情がある、だから出来ないことは星の数ほどある。そういう事を何度も何度も言われた。僕は彼女の感情を加味して考えることが出来なかったし、あの状況に於いて自分の感情を喚きたてる彼女は何かを見失っているような気がした。

 二本目のワインを飲み終えた後、千鶴はこれからどうすると聞いた。どこでもいいよと携帯で時間を確認しながら言うと、ホテル取っているけど来る? と千鶴は言った。
「うん。どこ?」
「インターコンチネンタルだから、歩いて行けるよ」
 そっかと言いながら上着を羽織り、定員を呼んで会計をお願いした。
「いいよ。今日は私が出すから」
「三年ぶりの帰国なんだから、僕が出すよ」
「子供の養育費で首が回らない人から奢られるの嫌だもん」
「大丈夫。まだ回っている」

 本当かな、と笑う千鶴を見ながら、ホテル来る? という言葉は僕がいわせたのだろうかと思う。自分の何気ない言葉が、誰かの自由を奪っているのかもしれないと思ったら、僕はもう何も言えなくなってしまうだろう。

 深夜の六本木を歩きながら、隣を歩く千鶴を見下ろす。女の人と二人で歩くのは久しぶりだった。香奈とは、休日によくこうして歩いた。六本木や、新宿、青山辺りをよく歩いた。香奈はよく言ってた。こうして隣を歩きながら、背の高い修人を見上げるのが好き、と。彼女の視線に憧れと、愛情と、尊敬を感じた。震災以降、彼女の視線は怒りと、憎しみと、軽蔑が入り混じり、とうとう狂人扱いされても、僕は香奈を嫌いにはならなかった。

これから他の女性と付き合ったり、また結婚したりする事があったとしても、僕は香奈の事を好きで居続けるだろう。香奈が遥を虐待したり、殺人事件を起こしたり、テロや通り魔のような何かとんでもない犯罪を犯したとしても、僕は一生香奈の味方で居続けるだろう。

これまで別れてきた女には全く感じたことが無かった、この初めての不可解なほどに寛容な愛情を得られた事が、僕と香奈の結婚に於ける最も有意義な事象かもしれない。彼女に出会って、結婚して、子供を作って良かった。僕は、離婚以来初めて女の人と寝るためにホテルまでの道中を歩きながら、そんな事を思っていた。
 つづくChi-zu