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「二人はもう愛し合わなくなっている時は、手を切るのも大そう難しい」
「よい結婚はあるが楽しい結婚はない」
「何かを強く欲する前に、現にそれを所有する人がどれだけ幸福かを確かめておく必要がある」

トップ画像たなべ聖子著

究極のあらわれ
ラ・ロシュフコー箴言集の中に上記の語彙がある
  

目次=人生は、だましだまし 田辺聖子

赤バラ金属疲労

忘れるということはステキなことである。
 苦労は、忘れてしまうと苦労でなくなる。
東へいっては、〈苦労は逃げえ〉といい、北へいってし、〈昔の恨みつらさは笑い話にしろ、受けるぞ〉という。色紙を出されると、
〈酔生夢死〉
 だとか、
〈山川草木(さんせんそうもく) 悉有仏性(しつうぶっしょう)〉
 だの、自分でもよくわからん文句を書き、依頼した側ももとよりわからず、べつに末代までの家宝にする気はないから、蔵(しま)っておきもせず、週末の大掃除にはゴミ袋に入れられてしまうのが、書き手も頼み手もべつに無残なこととも思わない。
オトナの夢の第一は「墓場に近き老いらくの、恋は恐るる何ものもなし」と歌った川田順の「老いらくの恋」(『恋の重荷』)で、これが理想であるが、まあ夢は夢である。

惚れる

「人は自分が愛した者のことは忘れても、自分を愛してくれた者のことは忘れない」
 というのであった。小説の中ではこのほうが座りがよく雰囲気が出る。
女が男に惚れて片思いをするとする。恋は想像力の助けを借りて、相手の男をいやが上にも好ましく思わせてゆく。女はいよいよ思いつめる。
 恋をうちあけようか、自分から口説くなんてはしたないと思われないかしら、しかし積極的に出なければとてもあの〈うすらバカ〉には(もちろんこの悪態には、せつない恋心が裏打ちされているのである。気付いてくれない朴念仁(ぼくねんじん)に、やるせない怨みの涙イッパイ、というところ)通じないだろうし、――と女はためいきをつく。
恋がかなって、いうことなしの人生至高至福の刻(とき)である。〈刻よ止まれ〉と思うのはこういう状況の折りの願いであろう。しかし人生にはそういう時間は長く続かぬことになっている。次第に齟齬(そご)をきたし、軋(きし)みはじめる。というもの、――女は注文の多い種族だからである。
 自分と等質の愛や恋を男に要求する。
 しかし男の在庫には、その種類の商品はない。〈男〉という商店には、その〈手〉の商品は扱っておらず、
〈これではあきまへんか。タイプは違(ちゃ)いますけど、性能は同じです〉
 と別のものをすすめたりする。女は承知しない。求めるものを、そっくり要求通り提出すべき、と男を恫喝(どうかつ)する。そのくせに、だ。

 男が自我を矯(た)めて、女に同調すると、女はまた、気に入らない。そこまで惚れてきた男を、こんどは見くびってしまう。

 優しい男、自分の思い通りになる男が好きなくせに、そうなると見くびるとは、何と女とは〈あまのじゃく〉なものであろう。わざとのように逆らってばかりいるが、その実、女にしてみれば真剣なのである。

〈私、まちごうたこと、いうてますか〉という気だから男は助からない。女に尽くせば尽くすほど女は、男を与(くみ)しやすしと呑んでかかり、無理難題をいう。

 やがて好むと好まざるによらず、別れの季節というものがめぐってくる。あらゆる恋は花を咲かせたら萎れるものだから。・・・・・
 別れる予感が感じられたら、女はたいへんなテクニシャンになる。
 ありったけの知恵を絞って男の愛を蘇らせ、男に、今までになく自分を愛おしい、と思わせようと努力する。

 二人の愛をつなぎとめ、至高至福の刻(とき)よふたたび――と意図するためではない。
 じつはそれは〈別れる〉ための工作であるのだ。――いや、女というものは奸譎(かんきつ)意味は「最高に美しい意味に於いて――」なものであるのだ。

 男はうまうまとそれに乗せられ、以前より女を愛しているような錯覚を抱かされてしまう。そこで女は別れてゆく。こういうアフォリズムは如何でしょうか。
「女は愛されていると確信した時に別れられる種族である」

寝首

赤バラいい男

いい男とは、可愛げのある男である。なんでもかんでも融通して折れてしまうというのも魅力がない。男はそんなに円熟しなくてもよい。角熟(かくじゅく)でよい。男の沽券(こけん)というのがあるが、時々それを出して見せたらよい。失敗談や弱音を正直に吐くのも可愛げのうち。
 べつに、慰めてもらおうとか、立ち直るヒントを与えてほしい、という下心で吐くのではなく、飾り気もなくダダ漏りに、
〈いやァ、もうニッチもサッチもいかへん。モロ、グリコの看板〉〈可愛げ〉というのは、意地悪から遠い、という認識がある。〈男と意地悪は出合いもので、たいていの男はみんな意地悪だよ〉という悲観派の女もいるが、環境や立場上、そういうのもいるだろうけど、男がみんなそうとはいえない。
 いい男とは、可愛げあってほどのいい男である。
 ということだ。

家庭の運営

 臭いものに蓋(ふた)。それは家庭の幸福。
家庭の幸福 太宰の「家庭の幸福は諸悪の本(もと)」というアフォリズムは、太宰ふうの逆説的表現ではなく、真理だという発見をもたらしたこと。家庭の幸福、などというものは、その家庭では芳香だが、外へ洩れると悪臭になる。よって、
「臭いものに蓋。それは家庭の幸福」
 という、私のアフォリズムは、そこからきている。
世の中が開明的になったのか、ススンダのか。あるいはどこか綻(ほころ)びかかっているのか。
 人々は人生で、家庭以外の〈面白いこと〉の禁断の味を、知り過ぎてしまったのである。

 幸福と面白いことは違う、ということを発見した、といってもいい。
 要するに昔の素朴な家庭観は(いまもその幻想を抱いている人もいるが)いまや変貌(へんぼう)しかかっている。
男も女も面白いことがこの世にあることを知ったから、家庭経営はむつかしくなってしまった。
面白おかしい家庭、というのはあり得ない、平和と、面白おかしいことは、両立しないから。
 面白いのは、人間関係だけではなく、趣味もはいる。その程度が社会的許容範囲であればよいが、バクチ、漁色、飲んだくれ、浪費、変態、ワルイことはたいてい、面白いだろう。それらは家庭の幸福や平和の対極にある。

 しかし、〈面白疲れ〉したときに帰る家があればこそ、面白いことにうちこんでいられるのだ。
 その帰る家が、いつまで、あるのか。
 家庭の運営、というものは、だましだまし、保たせるものである。

 なのである。不調になった体、車、諸機械、潤滑ならずる人間関係を、〈ああしィ、こうしィ〉、機嫌をとりとり、様子を見い見い、あっちにも立て、こっちを立て、あらゆる面から試み、思いつき、手をつくしてみる、綻(ほころ)びはつくろい、塗りの剝(は)げたところは塗料を吹き付け、壊れた部分は似たようなものを拾ってきて、あり合わせのチェーンでつなぎとめてそろりと動かす一メートル動けば、二メートル、という風に。それでも〈家庭〉という奴は気難しく、ふてぶてしい奴で、〈モノよりココロだあっ〉と叫ぶかもしれぬ。そういうときに、おお、そうかそうかと、これもあり合わせのココロでごまかしておけばよい。

 大切なのは、とりあえず、到達地点まで保たせることである。〈家庭〉のご機嫌をとるのを、〈だましだまし〉という。〈だましだまし〉というのは詐欺や騙(かた)りではない。
〈希望〉の謂(い)いである。
 しかし、人によっては、だましだまし保たせるにも飽いた、というときがあろう。そういうときはさっぱり撤回、解消して、また新しい家庭をつくればよい。しかし新旧を比較してみるに、〈家庭の運営〉たるや、やっぱり大なり小なり、〈だましだまし保たせる〉部分があるなあと、気付く・・・・のではあるまいか。
 人生はだましだまし 

上品・下品

 いつまでも、美味が美味で通らない。女の方の人生的体調にもよるが、〈舌の味が変わる〉ということもある。
 すると、今までオイシイと思っていた男が、そうでもないことに気付く。それどころか、美味だった点がおぞましくなってくる。女は思う。
〈あたしの舌、風邪気味で荒れてたんだわ〉
 かくて、〈可愛い男〉とは切れやすいのである。
〈可愛い男〉というのは、甘え上手だったり、ベッドボーイっぽっかったり、ワガママだったり、(男のワガママが魅力、という女もいる)中には薄情だったりする。
 薄情な美青年、というのもまた、ことさらなる味わいがあるのかもしれない。要するにその味に目くらましをかけられているうちは、
 老いという言葉と、字のイメージには、宿老とか、老熟、老練、というように尊敬的ひびきをもつものもあるが、しかしまあ、一般的概念では、老朽、老害、老獪(ろうかい)、老醜、老残、老耄(ろうもう)などと無残なイメージが多い。
老いぬれば転倒やすし。

赤バラ男と犬

 男は犬に似てる。
 場所ふさぎでカサ高いわりに、甘エタで、かまってやらないと淋しがってシャックリをする。
 このシャックリは精神的なシャックリである。体調の違和感を訴えてみたり、これ見よがしに不興を見せびらかす。
〈男持ち〉の〈女仕事師〉は、仕事も心ゆくまでできない。ときどきかまってやらないと淋しがる、というのは、ここをいう。

ふたごころ

 嘘というものはまあ、よっぽど致命的な、犯罪とよべるほどのものはおいて、たいてい少々しは普通に世に行われる。珠に商行為では自然の営為で、商売というもの、これなくして成立しない。男は嘘をつけない代り、黙っていられるという特徴がある。男は隠し事の大家だが、それは正直という特性と背馳(はいち)しない。

 金銭トラブルなら手の打ちようもあろうが、愛や恋、情のからむ秘密は、解決しようのないことが多い。本来的に身分不相応の秘事である。

 男は寡黙になってしまう。慎重に話題をえらぶ。妻を刺激しないことに全力を傾注し、秘密を守り通そうとする。そういうとき、妻は愛が冷めた、とか、心が冷えた、という男もあろうが、そこまでいかない、というのが大方の事情ではないだろうか。家庭は家庭として、もう一方は一方として。
「問い詰めて、とことん聞き出すのは妻。
 見て見ぬふりをして、問いただしたく思うことが口まで出かけても、むりにのみこむのが恋人。
 証拠をつきつけて、ぎゅうといわせるのが妻。
 証拠を自分で握りつぶして、信じまいとするのが恋人」

ほんものの恋

好色な人は男も女も、人生、たのしそうに生きている。
〈われわれ熟年にとって、やっぱり究極の憧れは、好色や色ごと、というより、恋やなあ。一世一代のラストの恋をして、この世をおさらばしたい、せつない望みがあるなあ〉

血の冷え

 一緒に笑うことが恋のはじまりなら、弁解(いいわけ)は、恋の終わりの暗示である。

 いいわけは、隠し事を暗示する。尤(もっと)も恋にはある分量のかくしごとは必要である。それは恋を一層おいしくする香辛料のようなもの、相手を愛する気持ちエゴはないから。

 しかしいったん利害の陰のさすエゴが生まれると、恋は腐臭をたてはじめる。
 恋を美味しく味付けするはずの〈隠し事を〉は、ワルの匂いのする犯罪になってしまう。弁解は嘘のはじまり。嘘や弁解を見ぬいていながら、まだ〈恋〉がたゆとうている人は、気づかないふりをする。
そういう外的条件のおかげで別れたのではなくても、いつかは愛は褪(あ)せ、熱も冷め、絆はほどける。
 そしてこの、恋の絆というヤツ、これが実にほどけやすいしろものであるのだ。
 これをいつまでも強く結びつけておこうとすると、とてつもないエネルギーと情熱、それにさまざまのテクや智恵を必要とする。

赤バラ恋と友情

ヒトと暮らす、
おっさんとおばはん、
捨てる
オトナ度

 夫婦でいるかぎり、夫婦仲よく、幸福でありたいと思わぬ夫婦はないだろう。ケンカしようとて、夫と妻になったのではないから。
 それでは、夫婦の幸福、というのはどういうものだろうか。

気ごころ

そやな

 今までは夫婦という関係を、少し消極的・退嬰(たいえい)的。悲観的に見すぎた憾(うら)みがあるので、今回は、反対に、進取的・楽観的・建設的、かつ世の中に有用的に考えようと思う。

人間のプロ
別れ

〈女の器量は年齢(とし)にもよりますな。若い女は”気散(きさん)じ”です。あ、気散じ、っていうのは明るうてパッパとしてて、好奇心や関心がすぐホカにうつりやすいこと。いったんはキッキッと怒っても、別口あったらひょいとそっちへ関心が向いて、あとくされない”ほな”になります〉

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