川瀬弘至編集者
平成28年版産経新聞引用
第5章 満州事変と国際孤立
第6章 万歳とファッショ
第7章 二・二六事件
第8章 泥沼の日中戦争
昭和12年7月、北京近郊の蘆溝橋で日中両軍が衝突したときの報告を受けた首相、近衛文麿の第一声は「まさか、陸軍の計画的行動ではなかろうな」だったという。満州事変の二の舞を恐れたのだろう。
政府は昭和12年9月2日、それまで「北支事変」と限定的にとらえていた日中間の紛争を「支那事変」と改称した国家総動員法
第9章 欧州の戦雲と三国同盟
昭和天皇は、日英関係の悪化を憂慮した。
昭和15年9月27日、ついに三国同盟は成立する。
もっとも、同盟締結の責任を松岡だけに背負わせるのは酷だろう。当時、新聞をはじめ世論の大多数が早期締結を熱狂的に支持していたからだ。
日独伊三国同盟が成立した昭和15年9月以降、日米関係は、一気に危険域へと達した。
同盟締結後の10月12日、米大統領のルーズベルトは
「独裁者たちの指示する道を進む意図は毛頭ない」とする強硬な演説を行い、同月30日に蔣介石政権への1億ドル追加支援を発表。12月には対日禁輸品目の範囲を拡大するなど、日本への圧力を強めていく。
第10章 開戦前夜
独ソ不可侵条約が突如破られ、またも日本を混乱の谷に突き落とした。ドイツの大軍が、なだれを打ってソ連に侵攻したのだ。動員された兵力はおよそ300万人。約2700機のドイツ軍機と約3500両の戦車がモスクワなどに向けて走り出す。不意を突かれたソ連軍は総崩れとなった。26日、ハルは野村と来栖に米政府の回答、いわゆる「ハルノート」を手交する。日本に対し、1、中国と仏印からの全面的無条件撤兵2、満洲国政府および汪兆銘政権の否認3、日独伊三国同盟の実質的廃棄―を求めるという、激烈過酷な内容だ。
日米交渉を打ち切る「ハルノート」手交される直前の昭和16年11月26日朝、択捉島の単冠湾(ひとかっぶわん)に集結した、連合艦隊機動部隊が錨を上げた。空母赤城に座乗する第1航空艦隊司令長官、南雲忠一が率いるのは空母6隻をはじめ戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など計33隻。目指すはハワイ、真珠湾である。
真珠湾には太平洋艦隊の主力が在泊している。これを開戦劈頭(へきとう)の奇襲攻撃でやっつけてしまえと考えたのは、日米開戦に反対だった連合艦隊司令長官、山本五十六だ。失敗すれば虎の子の空母の大半を失う。海軍上層部の多くは危険すぎると反対したが、山本は自説を押し通した。正攻法の艦隊決戦では、万に一つも勝てないと考えたからだ。
第11章 太平洋の死闘
太平洋での戦争が始まり、初めての年明け。
昭和17年1月、昭和天皇は40歳、日本軍が英米両艦隊を駆逐し、国民が戦勝気分に酔う中、昭和天皇は1月26日の歌会始で、こんな和歌を寄せている。
峯つヽき おほふむら雲 ふく風の
はやくはらへと たヽいのるなり
連戦連勝におごらず、一刻も早く平和を回復したい気持ちが、素直に表れている。
日本軍の快進撃は続いた。
同じ頃、欧州の戦局も重大な分岐点を迎える破滅の足音が、駆け足で近づいてくる。ルーズベルトはなぜ、無条件降伏を打ち出したのか。
背景の一つに原子力爆弾の開発、「マンハッタン計画」があったとされる。アメリカが同計画に着手したのは42年8月。同年12月にはシカゴ大学で核分裂の連鎖反応に成功し、ルーズベルトは開発に確信を持った。無条件降伏要求は、この究極の兵器を使う大義名分にもなるだろう。
事実この後、ルーズベルトの非情な戦略を裏打ちするように、一般国民を無差別に焼き尽くす本土空襲が激化していく。
悪魔の火炎が、未明の帝都を焼き尽くした。昭和20年3月10日、東京大空襲―。この日、279機米爆撃機B―29が、計約1600トンもの焼夷弾を投下し、浅草、本所、城東、などの住宅密集地に地獄絵図を描き上げた。夜が明けて、生き残った者が目にしたのは、
一面の焼け野原と、道路や河川に折り重なった黒焦げの焼死体―。被害は死者10万人超、 罹災者100万人超に達した。
第12章 占領下の戦い
GHQはいよいよ本丸、大日本帝国憲法の”解体”に着手する。
1907(明治40)年に改訂された、日本もアメリカも調印したハーグ陸戦協定には、「占領者は絶対的な支障がない限り、占領地の現行法律を尊重」すると明記されている。しかしアメリカは、国際法とは他国に守らせるものであって、自国が守るものとは考えていなかった。
「南京大虐殺」をはじめ、虚偽と誇張に基づく日本軍の悪逆非道が事実と認定され、その弊害は今も続いている。
そんな中、一切の自己弁護を放棄して日本の正当性を訴え、昭和天皇の責任を否定したのが東条英機だった。東条の証言は「占領に対する最大の一撃」だったと、連合軍側も認めている。
第13章 国民とともに
46年6月、日米両国は沖縄返還協定に調印し、翌年5月に本土復帰が実現する。その記念式典で、「天皇陛下万歳」を三唱する佐藤の目は、涙で光っていた。
安保闘争などにより、復帰運動は変質していく。本土から活動家らが流入し、イデオロギー闘争の色彩が強くなっていくのだ。彼等は県民をオルグし、復帰運動を反米、反日運動へと歪めていった。祖国愛教育に熱心だった沖縄教職員組合(沖教組)となり、やがて日教組に加盟する。祖国復帰を喜ぶ多くの県民の思いとは裏腹に、一部の反日感情だけが正論のように報道され、それは現在に至っている。
終章 永遠の昭和
64年1月5日、昭和天皇は夕方に意識が薄れ。6日に昏睡状態に陥った。
7日未明容態が急変したとの報を承け、五時四十三分に皇太子・同妃をはじめ皇室御親族一同お見舞いになる。
午前6時33分、聴診器を胸に当てた侍医長の高木顕が姿勢を正し、皇太子に向かって深く頭を下げる。皇太子も、無言で頭を下げられた。
この日、激動の昭和に、静かに幕が下りた。