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近頃になっても、セックスレス・カップル、つまり、結婚していながら全くか、あるいはそれに近く性行為のない夫婦のことが、興味深げにマスコミで取り沙汰されていますが、セックスレスという病いは、「ニッポン病」と言って悪ければ「時代病」と呼んでもおかしくないくらいに、実際は、深刻な問題を内蔵した、絶対に安っぽくない性の現象なのです。
本表紙 奈良林祥 著書
ピンクバラセックスレス夫婦だって不倫や浮気は楽しいものだしロマンスがある。浮気性の妻や夫をどうあやせばいいのか、恋人の浮気疑惑が浮上したときはどうしたらいいか、恐るべき夫の言い訳の”ただのお友だち”をどう撃退するか?

序章 セックスレス・カップル

「sexless Couple」と赤い字でカルテの欄外の余白にわざわざ書き込みをするようになったのが、今から十年くらい前からだったと覚えています。それは、セックスレス、つまり「結婚して三年になるのに、性行為が一度もないのです」、というような相談事をもって私を訪ねて見える女性が、異様に増え始めたことがきっかけでした。セックスレス・カップル(性交渉がまったくない夫婦)とカルテの欄外に横文字で大きく書いたのは、年度末に統計を取る時便利であるように、というつもりからでしたが、今話題のセックスレスになるケースが私のクリニックのクライアント(相談依頼人)の中に、それまで全くなかったというわけではありません。しかし、あったとしても、せいぜい年間に三、四例程度のものでしたから、世の中いろいろあるな、くらいの事で済まされていのです。それが、十年前の一九八六年頃から、徐々にその数を増やしはじめ、そんな呑気なことは言っていられない雰囲気になってしまったのです。

 クライアントの話をひたすら聴く、カウンセリングという仕事も、これでなかなか頭が疲れる労働なので、私は四十年来、一日五名の面接に限って仕事をしてきたのですが、その五名のうちの三名までがセックスレス夫婦のケースであった。などと言う日があるようになってしまったのです。しかも、”ある日突然に”といった感じです。私の職場である主婦会館クリニックの一九九〇年の年間統計では、なんと、相談訪問者全体の三十六・四%がセックスレス夫婦のクライアントで占められる、という事態になりました。

 セックスレスという現象
 今でこそセックスレスなどとう言葉が、専門外の方にも通じる言葉になってしまいましたけれど、その頃はまだ専門家だけが用いる、新しい専門用語であり、性の病いとしても珍しいとされるものでありました。ところが、私のクライアント(相談依頼人)の三人に一人が、その珍しいとされる性の病の相談なのだというのでありますから、これは、ただごとではありません。ただし、セックスレスの相談件数が急増した原因の一つに、セックスレスをテーマとして私が書いた『性を病むニッポン』という本が、同じ年に幾つもの新聞の書評欄に取り上げられて評判になっていた、ということがあったかもしれません。

 近頃になっても、セックスレス・カップル、つまり、結婚していながら全くか、あるいはそれに近く性行為のない夫婦のことが、興味深げにマスコミで取り沙汰されていますが、セックスレスという病いは、「ニッポン病」と言って悪ければ「時代病」と呼んでもおかしくないくらいに、実際は、深刻な問題を内蔵した、絶対に安っぽくない性の現象なのです。

 ところが、性の治療上の定説の一つに、「欲望に原因を持った性の病いは治すのが難しい」というのがあるのですが、セックスレスという性の病は。性欲が燃え上がらないからセックスレスであり、まさに性欲にかかわる病気で、だから、性の難病の一つと言えると思うのです。

 では、性欲に関係した性の病気を治すのが難しいのか。それは、原因が多くの場合、本人にとってはもはや無意識の領域にいってしまっている、深層心理的なものであることが多いからなんです。つまり、本人にも、原因が分からないのですよ、こまったことに。
 私は、セックスレスという性の病気を
A 原発性
B 続発性
C 疑似性
D モラトリアム型

 の四種類に分類して考える事にしておりますので、以下に分類表を表示しておきます。
 分類表の一番上の原発性というのは、「結婚の最初からのセックスレス」というタイプのものでしてね、そのほとんどが無意識という、本人も気づけない心の深い部分に潜んでいる葛藤がいわゆるSexslessなる現象の分類
A 原発性
1、 回避型パーソナリティー
a 成功への恐怖
b 親密への恐怖
2、 過剰自己防衛
3、 母親への精神的固着(マザー・フィグゼイション)
4、 初性交時におけるインポテンス、射精不能、性交痛、などを起因とする

B 続発性
1、 妻の妊娠もしくは出産を機に、夫が全く妻を求めなくなる
2、 婚約中には彼女を妊娠させるくらい熱心に性行為をしていた男性が、結婚と同時に、全く妻を求めなくなる。婚外交渉などはない。妻に申し訳ないと思っているが、自分にも原因が分からない
3、 婚約中あるいは婚前は、結構まめに性交渉があったのに、結婚したら月に一回、三ヶ月に一回、半年に一回という程度にしか求めない夫になってしまう。理由として、忙しい、疲れている、と言うが、妻がかわいそうという気持ちはあり、婚外交渉はない
4、 第一子出産と同時に、妻の側が性交拒否の行動にでる

C、疑似性
 1、ニッポン国特産的男のわがまま放置型
 性欲旺盛、性機能正常。忙しい、疲れている、男は仕事が命だ、文句あっか、等々、言語明瞭意味不明にして一見わけありの言辞を口にするか、あるいはひたすらに黙して語らずなどしつつ、妻との性行為を、半年、一年、三年、五年と営もうとしない。しかし、家庭外では他使用の差はあるとしても、ちゃんと以上に性行為在り。相手が愛人であったり、お妾さんであったり、ということも、もちろんあり。この手の男性によって、じつはニッポンは政治され、生産され、経済され、商売され、おかげさまで経済大国であり得ているのだ。
2、昔軍隊、いま企業型
  仕事とSEXは家庭に持ち込まないのが俺の主義でね、等と粋がって、妻を「欲しがりません勝つまでは、と、じっと夫の帰りを待った、かつての出兵兵士の妻」のような状態にさせておいて、男は外で慰安婦ならぬセックス産業の顧客でもあるという

D、モラトリアム型
 1、マスターベーションで性欲を満たし、夫婦間の性行為はない
原因、という厄介なものです。その原発性なるグループの中の、「過度の自我防衛」が原因というセックスレスを、まず考えてみたいと思います。というのは、このタイプの人間は、これからの日本では、増える事はあっても、減ることはないであろうと思われるからです。

 自我の壊れる不安

 さて、人間の心を乱暴に断ち割ってみると、その真ん中に、心の核のように存在しているのが”本能的欲望群”という欲望の固まりです。生まれたばかりの頃の赤ちゃんの心は、まだ無垢で本能的欲望の固まりみたいなものですから、小便がしたければ産婦人科の部長先生の回診の最中だって小便をしてしまうし、お腹がすけば、パートから疲れて帰ってきたママがやっと寝付いたばかりであっても、情け容赦なく、夜の夜中でもお構いなしに大声で泣いておっぱいをねだります。
赤ちゃんは、本能だけを頼りに生きている人ですからね、仕方ないのです。が、その赤ちゃんも、そうそう本能だからと、甘えてばかりもいられないのです。というのも、人間生まれたのが身の因果、というか、なにせ人間という生き物は社会という一つの秩序の中で生きていかなければならない宿命を持った生きものであるわけですから。ということは、人間は、社会の一員として生きる以上、欲望は何時でも必ず満たすことが出来るものではなく、必要に応じて、随時、欲望を抑えることが出来ないようでは、社会の構成員として認めて貰えない、という事をわきまえねばならない、ということです。

 なぜって、人間皆が本能的欲望を四六時中むき出しに生きてごらんなさいな、世の中すっちゃかめっちゃか、社会だ秩序だどころの話じゃなくなっちゃいますもの。それじゃ、人類滅亡しちゃいます。それは困る、というわけで、人間は、赤ちゃんの頃から、将来本能的欲望を我慢することができる人間に育つようにと、子育ての中に躾(しつけ)という、欲望を抑える事を身につけさせる教育を受けたりして育てられるのです。
そして、そのような親の努力や、周囲からの影響や、保育園や幼稚園における教育等の結果として子どもの心の表面に作られる「本能的欲望を抑えるヨロイカブト」のような心の働きのことを、「自我及び超自我」と呼ぶのです。砕けた言い方をさせて頂くなら、人間に対社会向き用のよそいきの顔をさせる心の働きのことを、自我(エゴ)および超自我(スーパーエゴ)というのです。

 つまり、人間とは、常に本能的欲望が表面に飛び出してこないように自我なるヨロイカブトで欲望を押さえつけながら、よそいきの顔をして生きることを余儀なくされている生き物なのです。だから、生きていること自体、疲れることなのです。人間にとっては。

 ご自分に似せて人間を作られたという神様なるお方にしてみれば、これじゃ不憫で見ていられないというので、与えてくださったのが性行為という。

「ここでは、自我なんてしかめっ面らしいヨロイカブトもみんな脱ぎ捨て、生まれた時と同じ本能的欲望の固まりに立ち戻り、思いっきり、二人で楽しんだらよろしい」
 という時と場であるのだ、と考えてみたらいかがでしょう。現に、自我の観点から性を考える立場の学者の中には、性欲が満たされるオーガズムというのは、「自我からの解放の瞬間である」と定義付ける人もいます。もっとも、オーガズムの瞬間の感じとり方ということになると、女性と男性の間には、かなりはっきりとした違いがありまして、女性にとっては、”オーガズムは自我の溶解”というように感じられるけど、男性には、”オーガズムは自我の崩壊”というように感じられるのです。いずれにしても、オーガズムという生理現象は、単に快感の絶頂は事実です。そして、オーガズムが自我からの解放という現象であるがゆえに、セックスレスを考える上で、極めて重要な手がかりとなるわけでもあるのです。

 要するに、人間が遠い昔から性行為というものにこだわり続け、これからもこだわり続けていくであろう理由は、性行為のオーガズムの瞬間以外では絶対に体験できない”自我からの解放に伴う、たとえようのない快さ”を体験したからに他ならないのです。

 ところが、人間の自我なるものは、人間すべての心に同じように作られているわけではありません。すでに申しましたように、自我とは、主として親の子どもに対する躾によって、子どもの心に作られていくものでありますから。自我の作られ方は、子どもによってみんな違うわけで、ひ弱に作られた自我もあれば、頑丈に作られた自我もあるでしょう。厚くて弾力性豊かな自我もあります。千差万別です。ただ、ひ弱に作られた自我の持ち主ほど、自分の自我が壊されることを極端に恐れまして、自我が壊されまいと必死に自我を守ろうとするものだ。ということが、研究ではっきりと知られております。これを、自我防衛と申します。

 覚えておいででしょ。人間は、自我が壊されるときの、たとえようのない快さに酔いたい一心から性行為を求めるのであることを。ところが、自我がひ弱の人間は、自我が壊されることが何よりも嫌いなのです。いや、嫌いというより自我が壊されることが怖いのです。怖いから、壊されまいと、必死という感じで自我を守ろうとします。それが”過剰自我防衛”という心の働きで、セックスレスという性行動も、つまりは過剰なる自我防衛の一つの姿ということになります。
でも、本人が”自我が壊されるのがコワイヨ”などと、思っているわけじゃありません。この恐怖感も、無意識のうちに働く恐怖ですから、いつの間にか、という感じで、彼あるいは彼女は、性行為に結びついていきそうな行為を避けようとします。新婚旅行にいっても、腕も組まない、肩も抱かない、キスなんてとんでもない、ということになるのも、万一、肩を抱いたのがきっかけになって、自我の崩壊を招くようなことになったらどうしよう、という不安からなのです。

 いずれにして、私の扱う相談のケースのほぼ三人に一人はセックスレスなのだ、ということですから、サワラナ族、だなんて洒落ている場合ではありません。

「誇りを捨ててまで」行なうもの

「なんでそんなところで、誇りなんてことが出てこなければならないのか、私にはまるで分からないので」
 と、困った様子で私の前に机を挟んで掛けているのは、今朝新幹線で関西から着いたばかり、というミセスAさん。
「結婚して一年半、一度も性行為がないのですね?」
「そうです」
「結婚はお見合いですか?」
「はい。父親同士が大学の同級生でして」
「なるほど。ご主人のお仕事は?」
「母校の農芸化学の研究室の助手をしております」
「真面目な旦那さまね」
「真面目過ぎる、というんでしょうか」
「結婚以来、本当に何もないんですか?」
「はい、何も。それで、我慢できなくなって、どうして私を抱いてくれないのかと、尋ねたわけです」
「当然でしょうね」
「そうしたら、いきなり、キミは誇りを捨ててまで、ボクにそういうことをしろと言うのか、と、すごい声で怒鳴られまして」
「誇りを捨ててまで、ですか」
「私は、なんでそんな怒鳴られ方をされなければならいのか、さっぱり分かりませんで、ポカンとしておりましたら、彼の告げ口を聞いたらしい父が怖い顔でやって参りまして、”せがれのいう事が正しい。たかが一年半くらい夫婦の交わりがないからと言って、夫に催促がましいことを言うとは何事だ”と、今度は義父に怒鳴られました。私の言ったことって、そんなにいけない事なのでしょうか。分からないので、ご相談に参りました」

 科学学者の卵Aさんが、「そういうことをしろと言うのか」と怒鳴ったという「そういうこと」というのが夫婦の間の性行為であることは、言うまでもありません。ですから、ダブル怒鳴られたミセスAさんには、
「結婚したという事は、性を含めてすべてを分かち合って生活形態に二人が入ったということですからね。だから、あなた方ご夫婦の間にも、若い人が使う言葉で言えば。リーズナブル(もっとも)と言える程度の性行為がなければおかしいのです。では、どのくらいの回数の性行為があればリーズナブルと言えるのか、ということは、個人差もありまして、一概に言うのは難しいのですが、日本の性科学学会では、目下のところ、結婚していながら、納得のいく理由も無しに満一ヶ月以上にわたって性行為がない場合は、これをセックスレス・カップルとみなす、ということに決められています。ですから、あなたにとっては、まことに心ならずしもなのですが、あなた方ご夫婦は、セックスレスという病的ご夫婦であるわけです。あなたが、なぜ私を抱いてくれないのか、と彼に尋ねたことは、無礼でもないし、嫁の道に外れた行為でもありません。当然のことです。

 本当を言いますと、誇りだの、社会的地位だの、学歴だの、見栄だの、信条だのといった総てのものを、かなぐり捨てて、本能的欲望の固まりに立ち帰った二人が心と体のすべてを動員して、カップルとして生きていることを無心に喜び合う行為を性行為というのです。だから、誇りなどというものを捨てたくない、と彼がいうことは、彼は、性行為みたいなことはしたくない、と言っている、ということになるわけです。

 ただ、不思議に思われるかもしれませんが、彼は、自分が性行為をしたくないと思っている人間だとは思っていないのです。せいぜい、誇りを捨てたくないと思っている男、としか捉えていないのです。セックスレスというケースは意外に難しいというのは、こういうところにも現れていると思います。私としては、彼に精神分析を受けさせ、妻が結婚して一年半にもなるのに、なぜ、抱いてもらえないのか、と尋ねたのに対して、誇りなどというものを持ち出す自分というものを、しっかり見つめてもらいたいとは思っています。なんとか、次回に、ご主人ご一緒においで頂けませんか?」

 と話し、ミセスAさんは、北関東の実家に帰って親と相談してみたい、と帰っていきました。
 それにしても、「誇りを捨ててまで」とは、科学者の卵先生、言ってくれるものですな。私も、東京は花の千代田区、かの上智大学が目と鼻の距離という主婦会館なる建物の中なるクリニックで、かれこれ四十年近くもカウンセリングなる仕事を続けてきております関係で、クライアントの口からかなりの名セリフや迷セリフを聞かされておりまして、滅多なことでは驚かないつもりでいますが、さすがに、「誇り」にはびっくり。けだし明言と言いますか、いわゆるセックスレス亭主と言われるような男性が、性行為をいきなり求められた時の心情をこれほど見事に代弁してくれている言葉は無いのではないかと言いたくなるほど傑作なセリフです。

 Aさんは、もし親にとって子どもを育てるということの目的が、お受験の勝利、ということであるとするならば、まずは、文句なしの子育ての金賞の一例という事になるのだと思います。現役で一流大学の受験勝利ですからね。おまけに、すこぶる真面目人間で、学者の卵。おそらく、ご両親ご自慢の息子さんなのだと思います。これで結婚なんてことさえさせなければ、ポロが出ることもなく、立派な化学者で光成り名を遂げて、めでたしめでたしで済んだかもしれません。でも、ご両親が、結婚させたばかりに、”受験勝利用に育てたかも知れないけど、結婚して性行為を行われるようには育てなかった”というご両親の子育て上のミスが露呈してしまったのではないでしょうか。

 姉との二人きょうだいで育ったというミスターAさんは、跡取り息子ということで、両親の過干渉を一身に浴びる形で成長したに違いありません。となれば、すでに述べたように、ひ弱な自我の持ち主に育ったとしても、不思議ではありません。ですから、Aさんは過度な自我防衛の持ち主であったはずで、それが、彼を結婚後一年半もセックスレス亭主にしてしまったのでありましょうし、挙句の果てに、性行為を求めることになってしまった妻なる女性の一言に向かって、「誇りを捨ててまで、性行為をしろというのか」という、恐怖の余りの叫びを挙げてしまったのでありましょう。

 察するに、Aさんのご両親は、結婚なんて人間誰でもやれて、性行為なんてものは、どうせ本能なんだから、うちの坊やにだってやれて当たり前、くらいに高をくくっておいでになったのではないでしょうか。Aさんのご両親が過ごした子ども時代と、今の子どもの環境とは、まるで違うのであることを、いえ、ご自分方の子ども時代の育てられ方とまるで違う子供の育て方をしてしまっていることに気づかなかったという事なのでしょうか。セックスレス亭主なる者がいるところ、必ず誇り高き母上(時には誇り高きご両親)あり、と(失礼ながら)私は見ております。

 例えば、結婚して三年も夫が”サワラナ族”である、という悩みごとが妻なる女性から寄せられ、私が”ご主人の話を聞かせて頂きたい”と電話すると、かんじんの亭主はこないで、代わりに亭主の母上出現、ということが結構あるのです。自分の結婚の自分の失態が問題になっているというのに、たかが忙しいくらいを理由に面接にも現れないなんて、カウンセラーの立場からすれば、それだけで(本当は、ナメナサンナヨと怖い顔をしたいところですが)こりゃ駄目だの×イチ、という気分にさせられるところなのです。しかし、一流大学出身のエリート息子をお育てになった誇り高き母上は、たじろぎなど微塵もみせず、息子は何ですか、勤め先でエリートなどと言われておりますので、とても忙しく働いておりまして、大変疲れているようなのでございます。
ですから、夫婦の営みのほうも、当然行えないということになります。疲れておりますのですから、仕方ございません。それを、何ですか、妻が不服だとかで、先生の所に相談に参ったそうで。ホント、恥ずかしいことで、と息子が三年もサワラナ族を決め込む「セックスレス亭主」という病的人間であることなど、どこ吹く風、といった態度なのです。
ほとんど例外なしにです。たかが三年ほど触れないくらいのことで、うちの坊やをまるで悪者か何かのように考える女と分かっていたら、嫁になんかもらうんじゃなかった、と言いたげの母親さんを前にしていますと、この母親にして息子ありか、といつも憮然たる思いにさせられるのです。もちろん、セックスレス亭主のお母さんの全部がそうだと申しているのではありませんけれど。
でもね、セックスレスであれなんであれ、年の頃なら三〇代半ばという結構な年齢になっていながら、自分の結婚にまつわる問題に母親を登場させて、よくもまあ、一流大学出よ、エリートよ、なんて言えたもんだ、と、あの戦争で死んでいった頼もしかった友だちのことなど思い出して、私は悔しがるのです。

 自我のひ弱な子どもの時代

 ところで、「人間は半熟で生まれてしまうから人間なのだ」ということをご存知じですか。「半塾ってなんだ?」と、きょとんとなされる方もおいでかもしれませんが、まず、牛や馬の誕生のことを考えてみてください。牛の子も馬の子も、生まれて二十分もすれば、自力で立ち上がり、ヨタヨタしながらでもお母さん牛やお母さん馬の傍まで歩いて行って、自分でオッパイを飲みますでしょ。とりあえず、自分で歩けて、自分で食べられて、自分で意思を伝えることのできる状態で生まれてくるわけでしょ。歩けて、食べられて、ものをいえれば、生きものとしては、最低限にして生きていけます。
お腹がすいたらどこかに食べ物がないかと歩いてみる。仲間に会ったらどこに食べ物があるか聞いてみる。教えられたところまで歩いていって、食べ物を食べれば、なんとか、命だけは繋いで行ける理屈です。ところが、生まれたばかりの人間の赤ちゃんを見てください。歩けなくて、食べられなくて、喋る事だってできはしない。
つまり、生きものとして生きていくための、最低の条件すら身につけずに、人間の赤ちゃんは生まれ出てしまうのです。無茶と言えば無茶な生まれ方だから、”人間は半熟で誕生する”という言われ方をされてしまうのです。

 あと二百八十日お母さんの子宮の中で頑張って生まれてくれば、生まれてすぐから歩けて、食べられて、ものも言えちゃう子として生まれてこれたかもしれません。でもです。半熟で生まれてきてしまうからこそ、後の半分を、母の体内という安全この上ない環境でヌクヌクと育っていたのでは絶対体験できなかった、激しい刺激に脳細胞が揺さぶられるような体験にさらされることもあり得るわけです。それに、夫婦喧嘩でのきつい罵り合いなどというのは、子宮の中で安穏に成長していたのでは、到底味わえない刺激でしょ。そういう浮世の風に吹かれて一年近く過ごすうちに、脳細胞は、子宮内にいるのとは比較にならないほどの刺激を受け、大いに成長し、生後十四か月を過ぎる頃ともなれば、もはやチンパンジーの知能を追い越すくらいまでになります。これは、半熟誕生のおかげです。

 という事からも分かりますように、本来、人間という生き物は家庭を含む社会環境に教えられ、影響されながら育ちあがっていくものなのであります。人間を構成している要素の一つである性というものが、乳幼児期と言われる頃の親子関係や、家庭内の雰囲気に、かなり影響される可能性があるとされるのも、もっともなことと、お気づきいただけたと思います。

 一・四三人。ご存知のことと思いますが、これは、一九九六年の、ニッポンの一組の夫婦が生涯に産む子どもの数です。つまり、この国の夫婦は、子どもを一人半も産まない、ということです。史上最低の数字だといいます。子どもにかかる教育費のことを考えたら、産もうにも産めない、という声もあるでしょう。働きながらの育児には限度がありますからね、という人もいるでしょう。
単純明快に、子どもを持っちゃうと、やりたいこともやれなくなっちゃうから、という理由で子どもを持たない、という夫婦も今の時代にはおります。いずれにしろ、この数字をみても、これからの日本には、ますます「チョッピリ産んでタップリいじりましょう」式の子育てスタイルが定着していくであろうことは、想像に難くないでしょう。そうなれば、これまで述べてきましたような、親の、子どもに対する過保護、過干渉は、当然のごとく増えるでしょうし、それが自我のひ弱な子供を作り上げ、挙句の果てが、過剰自我防衛のセックスレス夫婦の発生の温床になってくれるであろうことも、疑う余地はなさそうです。私が、セックスレスという性の病的現象を「時代の病」とよぶのは、このような理由からです。
つづく 第二章サワラナ族のBさん