かつて80年代伝統的に男性が中心の職場では、ロッカールームや工場の壁などに女性のヌード写真が当たり前のように貼られていた。

第4章 90年代のハラスメント(セクハラ)訴訟

ピンクバラ最高裁は1986年、ピンソン裁判で、セクハラに関して初めての判決を出した

しかし、これでセクハラ問題に関して、すべての法律上の議論が解決したわけではない。雇用平等委員会(EEOC)は、ピンソン裁判を含めた80年代のセクハラに関する裁判所の判断に基づき、90年3月、ガイダンスをアップデート化する意味合いをもっている。
 また、裁判所も、さまざまなセクハラの問題に対して、法律上の解釈を提示していった。ここでは90年代にセクハラに関して争われた主要な裁判の判決について検討したい。

ヌード写真を敵対的環境と認定

 かつて伝統的に男性が中心の職場では、ロッカールームや工場の壁などに女性のヌード写真が当たり前のように貼られていた。
 セクハラの問題が一般の関心を集めるようになっても、こうした「慣習」が直ちになくなったわけではない。
 フロリダ州ジャクソンビルにあるジャクソン造船所も、その例外でなかった。

 1970年代から、ブルカラーへの職場に、女性の進出が目立ち始めた。そのペースはゆっくりしたものであったが、職場で軋轢が生じた。ジャクソンビル造船所では、1986年、約850人の技術工のうち女性はわずか6人に過ぎず、管理職に登用された女性は一人もいなかった。
 絵に描いたような伝統的な男性中心の職場だ。

 ジャクソンビル造船所の女性たちは、職場のあちこちに女性のヌード写真が貼られていることが環境型のセクハラであるとして訴えた。
 女性たちの弁護を担当したのは、ニューヨークにある非営利の法律団体、全米女性機構法律養護教育基金(NOW法律基金)だ。
 アメリカには各地に法律をテコに社会改革を目指す団体が設立されているが、NOW法律基金はその一つである。

 フロリダ州にある連邦巡回控訴裁は、1991年3月、ヌード写真を貼っていること自体がセクハラだとしたうえで、写真を貼った従業員二人とジャクソンビル造船所の責任を認める判決を出した。
 このロビンソン判決以前にも、ヌード写真の問題を指摘した判決が出されていた。
 しかし、写真自体がセクハラとみなされるという判断ではなかった。
 ロビンソン判決は、あちこちにヌード写真を貼ることで性的に不快な職場環境が生まれ、女性従業員を造船所から排斥する作用をもつとした。

 この裁判を通じて、ジャクソンビル造船所とそこで働く男性によるヌード写真を貼るなどのセクハラの問題に対処するように求めたという。
  しかし、なんら対処を行わず、ミーティングの席では、写真に対する社内規定はなく、男性が写真を貼る「憲法上の権利がある」としたうえで、写真をはがすように指導することを拒否したのである。
 提訴が行われてから一年後、ジャクソンビル造船所は、EEOCのガイドラインに従った形で、敵対的環境を含めたセクハラを禁止する社内規定を制定。
 規則は会社の掲示板に貼り出されるものの、従業員に対するセクハラ防止のトレーニングなどは行われなかった。
 裁判所は、この規則がほとんどもしくは全く効果を持っていないと批判した。
 
 分別のある「人」から「女性」
 性的な行為といっても、受け取り方は人によって異なる。また、行為の相手によっても受ける感情は違ってくる。
 人間にとって、性的な行為が不可欠である以上、法律の枠組みで処理することが困難なのは、当然かもしれない。しかし、セクハラという概念を法律で対処するには、性的な行為をどのように受け取るかべきかについて規定する必要がある。

 環境型のセクハラが問題になっているから、「分別のある人」という概念が注目くされた。
 神経過敏な人でなく、普通の人が不快に感じる性的な行為は禁止すべきだ。という考え方である。
 しかし、分別のある人という概念が事実上、男性の意識に根差したものであり、セクハラの被害者の多数を占める女性の意識を反映したものではない、という批判が存在した。

 この問題に決着をつけたのは、エリソン判決である。
 原告のエリソンは、カリフォルニア州サンマテオにある財務省内国歳入局(IRS)の職員だった。同僚の男性から食事に誘われて、一度は応じたものの、以降、これを拒否。
 しかし、男性からたびたび、食事の誘いや手紙を受け取った。このためエリソンは、IRSに善処を要請した。

 IRSは、エリソンに近づかないように、男性に指導。さらに、男性を配転させたうえ、カウンセリングするなどの処置をとった。
 しかし三カ月後、男性は、エリソンの職場に復帰。ただしIRSは、エリソンに近づかないことと、さらに一か月ハラスメントに関するトレーニングに関するトレーニングを受けることを、復帰の条件とした。
 これに対して、エリソンは、男性が復帰したことに不安を感じて、IRSに配置転換を要求。配置が受け入れられた後、IRSを訴えた。

 下級審は、IRSの措置を適切として、エリソンの訴えを退けた。しかし、サンフランシスコの連邦巡回控訴裁判所は、「分別のある女性」という概念を用いて、エリソンの主張を認める判決を出した。
 この判決は、きわめて重要である。なぜなら、当時は、EEOCも、「分別のある人」の基準に基づき、エリソン裁判においても、IRSは十分な措置をとったと認定しているからである。
 巡回控訴裁は、エリソンを配転させるという形で、被害者の職場での条件を変更したことを批判。
 さらに、加害者の男性を復帰させるにあたり、被害者に相談しなかったことを批判。被害者と同じ職場に復帰させるなら、被害者の意見を聞くべきだと指摘した。

 控訴審判決の最も重要な点は、セクハラの問題において、被害者の立場から対応することを求めたことだろう。
 判決は、神経過敏な人の見方に立つ必要はないとしながらも、「分別のある人」ではなく「分別のある女性」の見方を取り入れるべきだとした。

 すなわち、「分別のある人」が事実上、男性の意識に基づいたものとしたうえで、IRSの措置は、男性にとっては十分でも、女性にとっては不安を抱かせるものだという、男女の意識差に踏み込み、セクハラを受けた女性の立場を擁護したのである。

敵対的環境を一歩進めた最高裁判決

 連邦最高裁は、1986年にピンソン判決を出して以来、しばらくセクハラの問題を扱わなかった。しかし。93年11月、いわゆるハリス裁判においた、敵対的環境のセクハラについての新たな判断を示した。
 この判決は、セクハラの被害者が精神的な衰弱状態に陥らなくとも、タイトル・セブンに基づき、救済を求めることができるとしたもので、被害者の救済を大きく広げたものだ。
 この裁判と判決について、検討していこう。

 ハリス裁判は、85年から87年まで、フォークリフト。システムで働いていたテレサ・ハリスが起こしていたものだ。ハリスによると、フォークリフトのチャールズ。ハーディー社長は、ハリスをはじめ女性従業員に、女性を蔑視した言動を行っていた。
 たえば、「お前たち女に何がわかる。(会社のフォークリフトの)貸出係には男が必要だ」などと話した。
 また、自分のポケットの中に入れたコインを取り出すように、女性従業員に求めたという。
 こうしたセクハラに対して、ハリスは抗議した。ハーディー社長は、冗談のつもりだったとして謝罪。問題にされた行為は。繰り返さないと約束した。
ハリスは、この言葉を信じ、仕事をつづけた。
しかし、ふたたび女性を軽視する言葉が投げつけられたため、退職を決意。
その後、ハーディー社長が敵対的な職場環境をつくったとして、裁判に訴えた。
訴えを審理したテネシー州の連邦地裁は、敵対的環境型のセクハラとして訴えることができないとして、ハリスの訴えを却下した。

地裁の論理は、次のようなものだった。まず、ハーディー社長の行為は、ハリスや分別のある女性にとって不快なものであることは認めた。
しかし、この行為によって、ハリスが精神的に消耗感を抱くほどではないとして、法的な救済を行うにあたらないと判断したのである。
これに対して、最高裁は、ピンソン判決に立ち戻ることから始めた。すなわち、ピンソン判決では、タイトル・セブンが規定する雇用差別が救済的または有形の被害に対するものだけではないことを認定したことを再確認。
なお、セクハラも、タイトル・セブンに基づく違法行為とみなされている。
したがって、差別的、敵対的な環境で仕事を行うように強いられることを含め、セクハラに対してタイトル・セブンが救済する道を定めているとした。

最高裁は、地裁がいうような被害者の精神的なダメージの深刻さが救済を求める基準という判断を否定。職場環境が敵対的であれば、精神的な消耗感などが証明されなくとも、タイトル・セブンに違反するとしたのである。そのうえで、何が「敵対的」であるのかの基準について、最高裁は、セクハラの深刻さ、肉体的な危険性を感じる程度、従業員の職務遂行能力に影響が及ぼす程度をあげた

同性間のハラスメント(以下セクハラ)を違法と判断

 セクハラは、男性から女性に対する行為という考えが強い。
 だが、少なからぬ人数の男性が被害を受けている。加害者は、女性とは限らない。男性の場合もある。
 では、こうした同性間のセクハラは、タイトル・セブンが禁止している違法行為なのだろうか。
 同性愛者へのセクハラを含めた同性間の問題は、司法の場でも議論されてきた。しかし、連邦地裁や巡回控訴裁の判断は、さまざまなものに分かれた。
 
 このため、連邦高裁は、同性間のセクハラに関する判断を示すことを決定した。
 最高裁が取り上げたのは、オンケール裁判と呼ばれるものでたる。原告は、ジョセフ・オンケール。
 被告は、原油の採掘事業を行っているサンドオーナー・オフィショー・サービス社と、ジョン・ライオンズ・ダニー・ピッペン、という同社の男性従業員三人である。
 オンケールは、1991年10月、メキシコ湾上にあるサンドオーナーの海底油田の採掘現場で、8人のクルーの一員として働いていた。
 このとき、オンケールは、ライオンズらから他の従業員の前で、セクハラを受けたという。
セクハラの内容は、同性愛者を意味する侮辱的な言葉をなげかけられたりすることから、レイプするという脅迫にいたるものまであった。
オンケールは、会社側に苦情を申し立てものの、なんら改善策はとられず、退職に追い込まれた。
 
 ルイジアナ州の連邦地裁は、オンケールが男性の同僚ら受けた行為に関して、タイトル・セブンに基づき訴えることはできないという判決を出した。
 第五巡回控訴裁も、この判決を支持。これに対して、オンケールは、上告していた。最高裁は、一転して、同性間で生じたセクハラも、タイトル・セブンのいう性に基づく差別として訴えることを除外しないという判断を示したのである。
98年3月に出されたこの判決は、次のような論拠によっている。

第一に、タイトル・セブンにおける性差別の禁止規定が、女性だけでなく男性も保護の対象としていること。

第二に、被害者と加害者が同性であるからという理由で、タイトル・セブンが適用できないという判例はないということ。

第三に、ハリス判決を援用し、職場に性的にみて敵対的な環境がつくられると、タイトル・セブン違反と判断されるということ。一方の性の人々のみに雇用上の不利益がもたらせられることが最も重要な点だとして、被害者と加害者が同性であるかどうかは問題がないとした。

こうした認識を示した後、最高裁は、環境型のセクハラとして訴えることができるかどうかの深刻さを判断する基準として、あらゆる状況を検討しなければならないと指摘。
また、常識や適切なセンシティビティ(感性)も必要とした。
具体的には、フットボールのコーチがフィールドに選手を送り出すときにお尻を叩いても問題ではないが、同じことをロッカールームで行えば、相手が男性か女性かを問わずセクハラになりうる、と述べている。

敵対的環境への経営者の責任範囲を提示

 連邦高裁は、ハリス判決において、敵対的な職場環境がつくられた場合、経営者の責任を負わされる可能性を示した。しかし、どのような場合でも、経営者の責任を負わなければならないわけではない。では、経営者の責任範囲はどこまであるのか。言い換えれば、どのような措置をとれば、経営者の責任を回避できるのか。この問いに対して回答したのが、ファラガー判決である。

 ファラガー判決の原告であるベス・アン・ファラガーは、フロリダ州ボラ・レイトン市で、海岸の救助隊員として働いていた。
 しかし、上司の男性からたびたび、体に触る、卑猥な言葉を投げかけられるなどのセクハラを受け、退職に追い込まれた。
 退職後、ファラガーは、ボラ・レイトンとセクハラをした男性職員を相手取って裁判を起こした。

 連邦地裁は、ファラガーの訴えを認めた。ファラガーの上司の行為を差別的なセクハラで、彼女の雇用状態を変えたうえ、敵対的な職場環境をつくりだしたと認定。
 さらに、セクハラが蔓延したことから、ボラ・レイトン市は上司の行為を知っていたか、知りうる立場にあったとして、市は責任を問われると判断した。
 しかし、連邦第十一巡回控訴裁は、一審判決を覆した。
 すなわち、控訴裁は、二人の上司によるセクハラは、職務の範囲ではないと判断。また、二人が市の職員であったことがセクハラを助長したわけではないとしたうえで、セクハラが蔓延していたからといって市の責任を問うことはできないと結論付けた。

 1998年6月に出された連邦最高裁判決は、二つの部分から成り立っている。
 第一は、上司が行った差別的なセクハラに対して、市は責任を負うべきだということ。
 第二は、上司の雇用者にあたる詩が適切な措置を講じていれば、その合理性に基づき、責任を回避することが認められる可能性がある、ということだ。
 この判決は、当然のことながら、雇用者または経営者の責任を回避するうえでの基準を示すことにつながる。

 この点について、最高裁は、二つの基準を提示した。
 第一は、セクハラを防止するために、経営者が適切な措置を講じており、問題が生じたとき、迅速に対処したことが証明されること。
 第二に、被害者が合理的な理由なしに、経営者が設けたセクハラの防止策や救済措置を利用しなかったことが明らかになった場合である。ただし、上司の行為が配転や解雇など、被害者の雇用上の不利益につながった場合には、経営者の責任は免れないとした。

 ファラガー判決により、経営者は、上司が行ったセクハラに対する責任をより厳しい基準で適用されることになった。しかし、これまで漠然としていた基準が明確にされたことで、経営者が一定の措置を取っておれば、責任を無制限に問われるという懸念も無くなったと言える。
 このため、判決には、企業サイドからも歓迎の声が出ている。

第3のセクハラの形態に判断

 1986年の連邦最高裁によるハリス判決は、セクハラの形態をクイド・ブロ・クォ(報復型)敵対的環境型の二つに分類した。
 そのうえで、報復型のセクハラに対して経営者は、自動的に責任を負うべきとされた。一方、環境型について経営者は、セクハラが蔓延していたことが立証された場合にかぎり、責任を負わされることになった。

 このため、セクハラの被害者は、当然、報復型として訴えた方が有利になり、そうして訴えるケースが増加した。
 しかし、報復型のセクハラは、上司たちの性的要求を拒否した場合、報復としてネガティブな勤務評価、減給、配転、解雇などの雇用上の不利益を被るという前提がある。

 では、性的要求があり、これを拒否したにもかかわらず、報復されなかった場合は、どうなるのか。
 報復型、環境型のいずれにも属さないセクハラなのか。あるいは、いずれかに属するのか。それとも、セクハラとはみなされないのか。また、セクハラとみなされるならば、経営者の責任はどうなるのか。最高裁は、エラース裁判で、この問いに回答を迫られることになる。

 裁判の原告、キンバリー・エラースは、バーリングトン産業で15か月間にわたり営業部員として働いていた。しかし、上司の一人、テッド・スロオイックから執拗にセクハラを受けた。
 スロオイックは、上司の承認を受ける必要はあるものの、採用や昇進に関して決定する権限を持っていた。エラースに性的な要求を飲まなければ、仕事上不利益になると脅迫。だがこの脅迫は、現実のものとはならず、エラースは、昇進することもあった。

 連邦地裁は、エラースの主張を却下。しかし、連邦第七巡回控訴裁は、地裁の判決を誤りとしたものの、8人の判事は、一致した見解や多数意見をまとめることが出来ず、八通りの意見を述べるという異例の判決となった。巡回控訴裁の判事の間で、焦点となったことの一つは、エラースのケースが環境型として認定できるか否かであった。

 1998年6月に出された最高裁判決は、報復型、環境型のいずれにも属さない第三のセクハラをの形態を認定した画期的なものといわれた。
 最高裁の主張は、次の三点に整理できる。
 第一に、従業員が望んでいない性的な言い寄りや脅迫は、雇用上の不利益をもたらされなくともタイトル・セブンに違反する行為である。
 第二に、こうしたセクハラに対して経営者の責任を問うことは、経営者の怠慢などを立証しなくとも可能である。
 最後に、経営者は、こうした訴えに反論することが出来る。
 セクハラの第三の形態とはいうものの、実際には、最高裁は、エラース裁判を環境型の一部として認定したようにみえる。この事の意味は、経営者にとっては、セクハラが自動的に責任を負うものでないとされたことにある。ただし、経営者の責任を問うにあたり、雇用上の不利益が証明されなくてもよいという判決でもあった。
 また、経営者が責任を回避するには、ファラガー判決と同じ二つの基準が適用されることになった。

 すなわち、第一は、セクハラを防止するために、経営者が適切な措置を講じており、問題が生じたとき、迅速に対処したことが証明されること。第二に、被害者が合理的な理由なしに、経営者が設けたセクハラ防止策や救済措置を利用しなかったことが明らかになった場合である。
  続く 第5章 セクハラの防止

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