結婚前は遠慮があったらしいが、結婚して一年もたつと、自分のそうした好みをいっさいかくさなくなった。妻の庸子にも、夫の自分の性癖をわかってもらいたいと、少しずつようきゅうするようになってきた。 トップ画像 ピンバラ夜の夫婦生活での性の不一致・不満は話し合ってもなかなか解決することができずにセックスレス・セックスレス夫婦というふうに常態化する。愛しているかけがえのない家族・子どもがいても別れてしまう場合が多い。

同期生である芳夫との結婚

本表紙 藤堂志津子著
大学の同期生である芳夫との結婚を、「滝シェアハウス」の面々は、いかにも庸子らしいと祝福してくれた。まじめで、地道で堅実な庸子らしいと選択だ、と。芳夫とは学生のころからつきあい、何年もかけてじっくりと理解を深めあい、その結果ゴールイン、と庸子が説明したわけではないのに、そう決めつけていて、そこがいかにも庸子らしいとも言うのだ。

 それについて庸子は訂正しなかった。確かに芳夫とは学生時代の仲良しグループのメンバーで、大学一年の自分から、そこそこに気心を知っていた。

 しかし、個人的につきあっていたのではない。
 大学を卒業し、社会人となり、卒業後はじめてグループのメンバーで飲み会をやった六月のその夜、酔った勢いでラブホテルにいってしまった。当時ふたりとも、まだ馴れない勤務先のさまざまなストレスをかかえ、ストレス発散のようにいってしまったラブホテルだった。

 体の関係ができたふたりは、そのときにかかえていたストレスもふくめて、気持ちの波長も似ていこともあり、一挙に結婚を決めた。結婚、という具体的な目標と達成感がほしかったのだ、と、のちのち離婚話がちらつくようになってから庸子と芳夫は語り合ったものである。馴れない職場で上司に叱られ、同僚たちともぎくしゃくしていた社会人一年生の当時のふたりには、そうした自信が何よりも必要だったのだ、だれかに必要とされ、その相手からかけがえのない存在だと思われることが。

 だから、庸子たちが思っているように慎重にじっくり時間をかけて結婚を決めたのではまったくなく、衝動的な二十三歳の結婚だった。かといって庸子たちの思いこみを、あえて正そうとはしなかった。そこが庸子の見栄である。
 衝動的に結婚を決めた、というより、学生のころから温めてきた愛をみのらせた、というストリーのほうが、ずっと聞こえがいい。庸子たちの知っている「庸子像」も裏切らないですむ。
 そうした見栄の張り方は芳夫にもあり、それでふたりして庸子や双方の親たちの前では「長い付き合いの末…・」と口裏をあわせることにした。

 さらに芳夫は、学生時代の仲良しグループのメンバー仲間にも、「じつは秘密にしていたけど学生時代から彼女とこっそりつきあっていた」とうそをつくほどの念の入れようで、「何もそこまでしなくても」と言い返した庸子に、彼は顔をゆがめて言い捨てた。

「衝動的に結婚を決めたなんて、おれはいやなんだ。自分自身が許せない。そういういいかげんなのは」
「でも、実際そうなんだから、親友やみんなにまでごまかすことじゃない」

「うそであっても、ずっと言い続けていれば、どれがうそで、どれが本当なのか、あいまいになってくる。そうやって自分の人生から消したいこと、残しておきたいことを選ぶのもひとつの生き方だ。いわゆる歴史ってやつは、そのときどきの権力者のそうした取捨選択の結果じゃないか」
「権力者だの歴史だのなんて、ずいぶん大きくでたものね、あきれた」

 自分たちの結婚のいきさつを、自分の都合のいいように修正したとおなじく、離婚に関しても、詳細はだれにも語らないでおこうと決めた。
 離婚の理由は「性格の不一致・価値観の違い」とし、あとの余計なことはいっさい他人にもらさないと、ここでもふたりの考えは同じだった。

 実際は、「性の不一致」が、そもそもの破局の原因だったと、いまの庸子は正直に認めることができる。

 けれども、二年半にわたって、夫婦間の修復は可能かどうかをテーマに、ひんぱんに語りあっていた当時、庸子も芳夫もたくみに、そこから目をそらしていた。問題のいちばんのポイントであるそこを正視しようとはせずに、おたがいの人生プランだの、家庭観だの仕事観だのといった抽象的な議論に終始した。かといって、自分たちが本当の問題から目をそらしてごまかしているという認識もなかった。
 それでも五回に一回はセックスのさ中に、業(ごう)を煮やしたどちらかが、いら立つように声を荒げた。
「どうしてきみはああなんだッ」
「どうしてあなたはああなのよッ」
それに対する答えも決まりきっていた。
「おれはああいうふうにしたいんだッ」
「ああいうのは、私、ぜったいにいやッ」
会話はそれ以上すすまなかった。
 どちらも自分の気持ちをことこまかく説明して相手に理解してもらおうという気はあるものの、どうしてもその言葉が見つからなかった。探しあぐねた。

 芳夫が、「おれはあいうふうにしたいんだッ」と言うのが理屈抜きの、まったくの生理的な好みと欲求なら、答える庸子の「ああいうのは、私、ぜったいにいやッ」もまた生理的な反応で、どちらにしても相手に言い聞かせて理詰めで説得するたぐいのものではぜんぜんなかった。

 端整な男前で、どこかとりすました外見を持つ芳夫は、ベッドではすこぶる官能的な、快楽重視の、野生児だった。
 結婚前は遠慮があったらしいが、結婚して一年もたつと、自分のそうした好みをいっさいかくさなくなった。妻の庸子にも、夫の自分の性癖をわかってもらいたいと、少しずつようきゅうするようになってきた。

 手首を縛ってセックスするSMプレイなどは序の口だった。それにしても庸子はいやいやながら応じ、嫌悪感のあまり体はなんの快感もなく浴室で顔面に放尿されたり、アナル・セックスを求められたり、コンドームをかぶせたバナナを入れられたり、大人のおもちゃロターバブル・スイングや類似のものらをヴァギナに入れるも、ここちよさとはなく、ヴァギナはかわいて痛みを覚えるのであった。
といったプレイの、どれもこれもが庸子には苦痛だった。途中で涙がでたり吐き気におそわれたりもした。
 そのたびに芳夫は妻を慰め、励ました。

「ごめんよ。まだ狎(な)れないからね。でも、きっとそのうちよくなるよ。そういうものだから。夫婦なんだから恥ずかしがらなくてもいいんだよ。ほら、もっと力を抜いて」
 恥ずかしがってなどいなかった。
 生理的にいやなだけだった。

 夫とはごく普通の正常位でセックスして、それで十分に満足している庸子なのだ。しかし、いやだ、という庸子を、芳夫はむしろ変わり者呼ばわりした。性的に未熟で、好奇心にとぼしい、つまらない女だと冷たく言い放った。
 つまり、ふたりの性の好みは正反対であり、一方が自分の欲求を素直にあらわすと、相手には不満や嫌悪が生じてしまうという最悪の組あわせだった。

 庸子にあわせた淡々とした平凡なセックスは、芳夫にはつまらなく、事後、これみよがしに寝室からでていく後姿を見るたびに、いったいどこがいけなかったのか、と庸子は悲しかった。
 だれにも相談できなかった。

 だれにも相談しない代わりに、2年半、夫婦で堂々巡りの、問題の核心にふれない、というか、どう核心に触れたらいいか途方にくれた気持ちをかかえつつ、結婚生活の立て直しを討議しつづけたのである。

 性の不一致という致命的な欠陥を、補ってあまりある別の何かが、話しあいのなかでうまれてくるかもしれないと期待しながら、当時は真剣に語り合っていたのだ。少なくとも庸子はそうだつた。

 結婚五年目を迎えたある日、芳夫はまるで、空模様についてしゃべるような何気なさで明るく言った。秋の日曜日、朝昼食をかねた、わりと手の込んだ食事をとっているときだった。
「いろいろ考えてみたんだけど、どうかな、子供をひとりつくって、そのあとは家庭にセックスを持ち込まないってルールをもうけるのは、セックスの方は、自分のあったパートナーをそとで調達して、割り切ったつきあいをする」

 庸子はおもわず夫の顔をまじまじと見つめ返してしまつた。
 ついていけない…・とはっきりとそう感じた。子供はいずれほしかった。もちろん、芳夫の子で、男の子であれ女の子であれ、容貌(よぼう)は彼の家系に似て欲しいとも願っていた。男の子なら芳夫そっくりの男前に、女の子なら芳夫の母そっくりの品のいいきれいな顔立ちであってくれたら、どんなにいいだろう。

「私には無理、そういうのは」
 と庸子は、芳夫の何気なさにあわせて、さらりと答えた。
「そとにセックスパートナーを別々に持って、そこまでして家庭の体裁を守ることじゃない? 子供だって小さいときはだませても、成長するにつれて必ず自分の両親をへんと感じると思う。とにかく、そういうの、私には無理」
「そうかなあ」

「あたりまえでしょ」
「でも、おれはきみと別れたくないんだ。愛しているからね、きみのこと」
 その瞬間、庸子は叫びたくなった。
(愛って、なんなのよッ。愛しているって、どういうこと? ああ、わかんない、愛なんて)
 とはいえ芳夫に恨(うら)みつらみはなく、やはり愛している、としか言えない庸子がいた。しかし、一呼吸のあと、いつもの冷静さを取り戻した庸子は、この二年間、自分なりに考えに考えてきたことを、はじめてきりだした。
「私たちまだ二十代よね。やり直すなら早いうちのほうがいいなって思うの。あなたはどう思う? もちろん離婚のことだけど」

「おれ? 離婚なんて考えたこともないな」
「…・けれど…・ほら、私には、不満よね」
「だから、そこは別々のセックスパートナーを持てばいいだけの話でさ」
「どうしてそんな簡単にそういうことが言えるの? そこがわからないのよね、結局は」

 その日をきっかけに離婚話は具体化し、ほぼ半年後、それは現実になった。これといった諍(いさか)いも、ふたりで買った家具や家電用品のとりあいでもめることもない、円満な別れだった。

そうもっていくように夫婦で努力もした。日常的な美意識の持ちようでは、ふたりは似ていた。
庸子の離婚は「滝シェアハウス」の女たちに、少なからずショックを与えた。

 それまで庸子が結婚生活の愚痴や泣き言は、まったくといってよいほど言っていなかったため、寝耳に水いった驚きであったらしい。庸子のまじめで堅実で地道な考え方や生活態度からして、まさか彼女にかぎって離婚はありえないと買いかぶっていたようだ。そもそも庸子の結婚が、もののはずみとしかいいようのない衝動的なものだったことは知らない。

 いかに端整で品のよい男前の芳夫が、ことセックスにおいては、信じられないくらいみだらな冒険家である事実も、庸子が口をつぐんでいたため、想像もしたことがないに違いなかった…・。

 五回目の芳夫と居酒屋での別れてからしばくたったころに、親友の関本から携帯電話があり、「山崎から聞いたんだけど、正社員のくち探しているんだって? 力になってもいいぜ。ヨーコ」と、突然に携帯から連絡があって、関本の指名したカフェで待ち合わせする約束をした。
「ヨーコ、ようひさしぶり、元気していたか・・・・正社員のくち探しているだって」

関本は待ち合わせたカフェのテーブル席につくなり、そうきりだした。関本とは山崎芳夫と離婚して以来、会っていなかったから、かれこれ五年ぶりの再会だった。相変わらずの体形で、しかし学生のころから柔道で鍛えられている太めだから、肥満についてまわりがちな不健康の印象はない。顔の色つやもよく、肌もうらやましいほどにピンと張っていた。

「しかしな、ヨーコみたいな優秀な子が、正社員になれずに派遣OLに甘んじていなければならないなんて、むずかしい世の中になった」
「でも、ほら、年齢制限があるし」
「おれ、力になってもいいぜ。ヨーコさえその気があるなら、うちの社長に話をつけてもいい、いや、外勤なんてやらせないさ。うちの会社の本部のほうに入ってもらう。おかげさまでうちも警備会社のほうは安定した業績をあげてて、次の業務展開を考えなくてはいけない時期にきてるんだ」
「ありがとう、そんなふうに言ってくれるだけでありがたいわ」

「昔から言ってたろう? おれはヨーコのファンだって、芳夫と別れたって聞いたとき、ヨーコに何回も連絡しょうとしたけどな、できなかった」
「へえ、ほんとに?」

「いや、ほら、山崎を裏切るようで、おれ、体育会系でずっときているから、そういう男社会のけじめってものを、いやっていうほどたたきこまれている。だからスケベなわりに、けじめはあるんだ。こうみえても」

 ファンだったというのをふくめて、関本の冗談交じりの言いぐさのどこまでが本当で、どこからが庸子へのサービスなのか、判断はつかなかった。昔からこういう男だった。
座持ちはすこぶるいい。おしゃべりだけど、うそをついたり、ごまかしたり、自己保身だけまわったりすることのない快男子だった。就職先の警備会社の社長に可愛がられ、信頼されているのも、庸子は当然だという気がした。とにかく憎めない男なのだ。

「関本は三十すぎるとだめだよ。性欲も、ひところほどの勢いがなくなってくるし。それに比例して、女のご機嫌をとるのも、なんか、みじめで、むなしいっていうか…・こういうこと言っているから、おれ、結婚できないんだろうな」

 ワインがテーブルにとどき、ほどなく注文した料理も間を置かずに次々と運ばれてきた、関本が、いっぺんにテーブルに並べてくれとウェイターに頼んだのだ。

 とりわけその夜の庸子の味覚にあっていたのは生ハムのサラダだった。刺身のつま状にうんと細切りしたダイコンにレモン汁を多めにかけたのを、生ハムにくるんで食べるそれは、別に料理というほどの一品でないないものの、さっぱりとした爽(そう)味が、いたく気に入った。このところコンビニ弁当の食事がつづいていて、体が新鮮な生野菜を欲しがっていたのかもしれない。サラダをひたすらに食べている庸子と違い、パスタにもローストチキンにもまんべんなくフォークをすすませていた関本が口いっぱいに頬張りつつ言った。

「山崎もおれと似てると思うよ、ヨーコがどう思っているかはともかく、基本的にはそれほど女好きじゃない」
「・・・・・」
「なあ、ヨーコ、山崎との復縁、考えてみたらどうかな。あいつはまだまだヨーコに惚れてる。つきあっている彼女もいないし」
「・・・・・・」
「それともヨーコはいまだにあいつと由美子のこと怒っているのか?」
(ユミコ ?)と庸子はダイコンをくるんだ生ハムをフォークで
口もとまで運びかけ、一瞬、動きを止めた、視線は生ハムの一点に止まったまま凍りつく。が、何も聞き返さず、関本に不審のまなざしをむけもしなかった。彼はユミコの存在を知っているという前提のもとで話をつづけた。

「あいつとユミコとのことなんか、浮気でも不倫でもなんでもない。要は火遊びさ、火遊び。まあ、おれから見ると、山崎がユミコに遊ばれたっていうことだろうな。だつて、ほら、学生の頃のユミコ、知っているだろう? 派手で、目立ちたがりの、男にモテモテだっていうふりをしたがるあのユミコ」

 ふいに思い出されてきた。庸子や関本たちのグループに積極的に近づいてきて、ほんのちょっとのあいだグループ内をかきまわし、しかし、だれもちやほやしてくれないのがおもしろくなかったらしく、ふたたびグループから遠のいていったのがユミコだった。

ウェーブのかかった豊かな長い髪を金髪にカラーリングし、一年中、ミニスカートを愛用し、マスカラをこってりと塗り付けていたユミコ。妙に迫力があったのは、あのライオンのたてがみみたいな髪のせいだったろうか。
 関本は、庸子が何も言い返さずに食べながら聞いているのをいいことに、さらにつづけた。

「おれが、ユミコのことを、なぜこんなふうに言うかというとな、おれ、いっときユミコと関係あったんだ。学生の頃に、つきあってた、というほどしゃなくて、むこうから誘ってきて、まあ早い話、ベッドのお相手さ、いや、誘われたのはおれだけじゃなく、あの当時のおれたちグループとその周辺の男たちは、次々とお持ち帰りされ、お試しされたらしい。山崎以外は、当時のあいつは、ユミコなんかがつけこむすきがないくらいに、まじめ一辺倒だったからな」
「…・当時は何もなくても、でも、結局はユミコさんに落とされたわけだよね。それとも私と結婚したあとに」
 庸子は自分でびっくりするぐらい淡々とそう言っていた。
「いや、だからさ、仕方がないこともあるのよ。会社でいやなことがあって、むしゃくしゃしてるところに、ユミコみたいなのが電話してきて、この男を落としてやるみたいな気がまえで酒なんか一緒に飲んじゃったら、男はいちころよ。ユミコって、ほんとにすごいんだぜ、そういうテクニックは、山崎にしたら、庸子を裏切ったという感覚は、ほとんどなかったと思うな、男って、下半身に左右される困った生きものでね」

「ユミコさんのこと、関本くんには打ち明けたんだ、芳夫さん」
「打ち明けるっていうんじゃなくて、あいつなりに気持ちを整理したかったんだろうな」
「・・・・・」
「っていうことはさ」
 と、関本はそこでにわかに声をひそめた。
「ユミコのセックスは少し特殊で、ディーブっていやディーブで、ふつうのと違うから、山崎はそのアブノーマルさにたまげて、それでおれに言わずにはいられなかったのだろう。学生のころ、はじめてユミコと寝たとき、おれもたまげたからね」
「・・・・・どんなふうに?」
「いや、ここで口にだすのもはばかるような。SMプレイあり、大人のおもちゃあり、スカトロありの、しかし、今思うと、あの若さでユミコは、どうあんなにセックスができたのか、むしろ、首をひねるよ、ユミコにそれを教えたのはどんな男だったのか、それともユミコ自身がやりたくてやったことなのか…・どっちにしても、あれにはたまげるよ。おれはそういうセックスについていけなくて、で、ユミコからの誘いも断るようになった」
「スカトロって?」

「スカトロジー。うんち、おしっこのプレィと。知らないか?」
「ウワーアー・・・マジキタナ!どこがいいの…」

芳夫が背中を流してやると言いつつお風呂へ一緒に入ってきて、背中を洗ってくれ、そして、前に回って「股を開いて」と、妖しく目をギラリ光らせ庸子の性器をマジ見し、あらおうとするので、「チョチ…ョツト待って」と、止めることもあった。そして、さらに、バスタブから出ようとすると、顔を下半身におしつけ、「おしっこをかけて」と、「私にかしっこかけようとか…」芳夫が言ったことを思い出した。庸子は思い出すだけでも嫌やでつい声を発してしまった。

しかし芳夫は、ユミコについていけなかった関本とは反対に、ユミコから伝授された性技によってはじめて気づかされ、目覚めた嗜好(しこう)があったのだろう。もしくは、以前から興味はあったけれどふみこめずにいた領域に、ユミコが案内役となって手ほどきをしてくれたかもしれない。あるいはリードしたのはユミコでなく芳夫だったのだろうか。どんなことをやっても、要求してもユミコはいやがらなかった、そういうことなのか。

庸子は結婚していたころの、ほとんど心理的な拷問に近かった芳夫とのセックスライフを、にがにがしい思いでよみがえらせた。

自分のぶんのチーズ風味のパスタとハーブ味のローストチキンをきれいにたいらげた関本が、次に海の幸のバルサミコ酢風と生ハムのサラダを同時にとりかかった。
「離婚の原因はユミコさんもからんでるようなこと、芳夫さんは関本くんに言ったの?」

 庸子は、やはり、つとめて冷静さを装いつつたずねた。離婚の原因については他人にいっさい口外しないというのが芳夫との約束だったのだ。

「いや、あいつは何も言ってない。おれの勝手な想像、前にユミコとの火遊びのことを聞いていたもんで、もしかしたらと思ったまでのこと。それに庸子もあいつと別れてもう五年たったんだから、こういう話をしてもいいかな、と」
「復縁したらどうかってすすめるのと同じ口で、わざわざユミコさんのことを言いだすのって、悪趣味じゃない? 私の昔の傷口をえぐるみたいな」

 口先ではユミコと芳夫の火遊びの件はとっくに知っているふりをしつつ、庸子の食欲はさっきにもまして失(な)くなっていった。
「ごめん」
 と、関本はすみやかに詫びた。

「おれ、相当に余計なこと言っちゃったみたいだな。いや、山崎の今の気持は知っているけど、庸子はあいつに対してどうなのか、と、つい揺さぶりをかけすぎた…・笑ってくれ、男のジェラシーだ、やっぱり、おれ、庸子に惚れているもんだから気になって」

「芳夫さんとの復縁はありえない、ぜったいに」
「ほんとか?」
 関本の声の勢いと目の輝きに、庸子はたじろいだ。自分に気があるふりをしているのは、あながちサービス精神からだけではなく、半分くらいの本気がまじっているのかもしれない。とそのときはじめて感じた。
「私たちの結婚は衝動的なものだったけど」
「だよな。山崎は、学生時代のグループのメンバーにも内緒でこっそり庸子とつきあっていたとか言ってたけど」
「かれは衝動的な自分を許せないというか、そういう一面があるのを認めたくないひとなのよ」

「けど、それだって自分の一部だろうに、あいつ、けっこう面倒くさい生き方しているんだな」
「でも離婚はふたりでじっくりと時間をかけて話しあった結果だから、復縁なんて、まず、ない」
「なるほど」
「今年になって芳夫さんとは何回か会ってごはんを食べているけど、それだけのことで、あとは何もない…・多分、私たち、過去を懐かしんでいるだけだと思う。離婚はしたけれど、自分たちの選択はまちがっていなかった、その証拠にこうして元夫、元妻と友だちづきあいができて、なごやかにごはんを食べているんじゃないかって、自分自身に言い聞かせるためにもね」

「そうしないと前に進めないものな…・いや、さっきの話にもどるけど、庸子、ほんとうにうちの会社に正社員としてこないか? おれ、いくらでもちからになるぞ」
 
 翌週いっぱい、庸子はあいている時間はユミコの消息探しにあてた。じかに会う必要はなく、電話で話ができさえすればいい。
関本の話を頭から疑うわけではないものの、庸子の性分としては自分の目や耳で確かめなくては、どうにも落ち着かないのだ。芳夫とユミコの関係が実際にあったか否(いな)かである。
 まず、学生時代の仲良しグループのメンバーの、特に男子たちにメールや電話をしてみた、関本によると、ユミコにお持ち帰りされ、お試しされた過去を持つかれらである。
 関本もそうだけれども、現在のユミコの消息を知る者はひとりもいなく、また庸子がそれとなくカマをかけてみても、ユミコと体のつきあいがあったことは、だれも認めようとはしなかった。しらばくれた。
 それでも庸子は根気よく可能性の細い糸をたぐり、グループの男子たちの、その元彼女の、さらに知り合いといつたつながりをたどりつづけた。
 週のなかばすぎに、ついに道は開けた。ユミコが学生のころから親しくしていた女友達のひとりにいきついた。

 結婚し、いまは二児の母である、キクミという友達に電話し、ユミコさんの連絡先を教えていただきたい、とていねいに謙虚に頼み込むと、相手は拍子抜けするほどの警戒心のなさでOKした。こんな調子だから、電話の振り込め詐欺にも簡単にひっかかってしまうんじゃないか、と忠告したい気持ちをぐっと抑え込み、庸子はさらにていねいにたずねてみた。
「あのう、それでユミコさんは、現在どのようなお暮しをなさっているのか、少々予備知識をいただけますと、こちらとしましても、ユミコさんに連絡しやすいのですが。申し訳ありません、勝手ばっかり言いまして…・」
「いや、いいよ、ちょうど子供たちを寝かしつけたところだから」
「おそれいります」
「ユミコはさ、いま三人目のダンナといる。アメリカ人で、こっちで英会話教室に勤めてる三つ年下のとね、前の二人のダンナは日本人だったけど、三人目のこんどのダンナがいちばんユミコとしっくりいっているみたいだね、子供三人、前の二人のダンナのタネでひとりずつと、いまのとで三人。ハーフの子って可愛いね、すっごく器量よし。ユミコもダンナもそれほどじゃないのに、ハーフの子となると、なんであんなに可愛いんだろう。住んでるとこ? この街にいるよ。最初の結婚でT市に引っ越して、次のダンナとはB市で暮らし、別れてこっちにもどってきて、で、いまのダンナと知り合った。

 末の子がまだ小さくて手がかかるから、しばらくは専業主婦やるしかないって、ぼやいていたな。ダンナの稼ぎがあんまりないんで、ほんとは働きに出たいんらしいんだけど、このダンナがまたものすごい焼きもちやきで、ユミコをほかの男の目にさらしたくないって暴れるんだって。あ、家庭内暴力とは違うよ。痴話喧嘩ってやつさ。あのダンナ、アメリカ人にしては貧祖なくらいに小柄。目はブルーで、金髪だって、こういうとこなんだかハンサムにきこえるけど、実物はぜんぜん違ってね…・」

 相手のノンストップの一方的なおしゃべりは四十五分つづいた。そのあいだ庸子は「はあ」「そうですか」「あら」の三通りのあいづちを返しただけである。

 きっと子育てに追われ、夫の帰りも毎晩遅く、話し相手に飢えていたのだろうと好意的に解釈した。ユミコについての情報をタダで入れようというのが、そもそも虫がよすぎるのだ、と思うことにもした。

 しかし、さすがに聴覚をはじめとした神経系が疲れはて、当のユミコに電話をしたのは、あいだ一日置いた翌々日の夜九時すぎだった。
「私を探してたんだって?」
 と庸子が名乗るなり、ユミコは愛想のない、しゃがれ声でそう言った。「キクミから連絡あったよ。けど、悪いけど、おたくの名前、知らないな。大学で一緒だって、ほんとなの?」
 ユミコの背後で幼い子供たちがキーキーとさわいでいる様子が伝わってくる。
「末永庸子の旧姓に戻っていますが、山崎庸子と名乗ってた四年半もありました」
「・・・・ヤマサキ?」
「はい。ご記憶にありませんか」
「きのうキクミに言われてたときも、ぜんぜん思い出せなくてさ」
「では、関本さんとかは…・」
「セキモト? あのがっしりした体格のいい関本くん? 知っている、知っている。彼、私のタイプだったからね、よくおぼえている。でも、むこうは私がタイプじゃなかったんだね。すぐに逃げられちゃった」
 アハハと電話の向こうでユミコは豪快な笑い声をあげた。
「あの、その関本くんと親しかった山崎芳夫なんです、私がお尋ねしたいのは。関本くんとは反対の、ちょっと線の細い、繊細で、まじめそうな外見の。ユミコさんとおつきあいがあったとしたら、学生でなく社会人になってからかと思います」
「・・・・ちょっと待った。うーん、なんか思い出してきたな…・その彼って、女房持ちだったっけ」
「はい、当時は。それが私です」
「あ、そうか…って、ことは、おたく、自分の亭主の女関係を調べあげてるわけなの?」
「いえ、調べあげるなんて、それに私たち五年前に離婚しています。ただ最近なって元夫が、結婚当時にほかの女性と関係があったと他人から聞かされ、本当のところはどうだったか、それだけ知りたくて」
「知ってどうすんの?」
「どうもしません。ただ私の性格的に、きちんと事実を知っておきたいわけです」
「元夫に、じゃあ、きちんと聞けば?…あ、ごまかすか、男は、しかし、おたくもたいへんだね。そういう性格は男に逃げられる」
「わかっています」
「あれ? 私、なんか思い出してきたよ。おたくといま話しているうちに、よく似たしゃべり方をするのがいたなって…そうそう、思い出した、芳夫だ、芳夫」
「ええ、山崎芳夫です」
「そっかあ、あいつかあ。うん、知っているよ。ときどき寝てた」
「……」
「ただ社会人になってからでなく、学生のころから関係はあったよ。いやいや、恋愛とか、そういうのじゃなくて、セックスの趣味がぴったんこだったもんで、ついずるずると。でも、これだけははっきり言えるけど、彼、結婚してからは奥さんだけ愛してた。私にもそう断言してたもの」
「……」
「ちょつと、ちょっと、そういうふうに黙りこまれると、なんか、こっちがおたくを傷つけるみたいでしょうが。きいてきたのはそっちからだよ。聞きづらいこと言われるのは覚悟で電話してきたんでしょうが」
「はい、すみません…・で、あの、セックスの趣味がぴったしとは?」
「奥さんはそういうのをいやがるって、彼、言ってた。だから、私との関係が切れないって。一種のボランティアやってるみたいだったよ、最後のころは」
「すいません、お世話になって」

「セックスの趣味はぴったんこでも、彼は私を嫁にする気はまったくなかったね。そう口にだして言ってたもの。一度だけ、うっかり口をすべらせたこともあったな。男とこういうことまで平気でやれる女なんかとは結婚できるか、みたいな言い方で、こういうことって、それ一緒にやっているのは彼だよ。すげえ、差別発言で、私、頭にきて、それから誘われても断るようになったんだ」

「元夫にかわって、謝ります…・ほんとうにかさねがさね失礼なことを申し訳ありませんでした」
「いや、おたくが謝る必要はないって、それにあれは、要は遊びのつきあいだったし、おたくからこうして電話がこなければ、きれいさっぱり忘れていた相手だもの」
「そう言っていただけると…・」
「ところで、なんで離婚したの? 子供は?」
「子供はいません。離婚は一応、世間向けは性格の不一致と言っていますが」
「けど、本当のところは性の不一致だろう? 私にはわかる。ふつうの女は、あそこまでついていけないだろうって思うもの」
「ですよね」
「そうだよ。ああいう趣味はその手の風俗店で処理してもらって、家庭には持ち込まないもんだよ。私にはできるけどね。好きだから」
「はあ…・」
 遠くで玄関のチャイムの鳴る音がした。
「あ、ダンナが帰ってきた。もういいね。電話きるよ」
「ありがとうございました」
 カレンダーは四月に移り、あわただしくすごすうちにあっというまに日々はたち、五月になっていた。
 五月も下旬にさしかかった日の午後、庸子の携帯電話に芳夫がかけてきた。職場を離れて、遅い昼食をとっていたバーガーショップの片すみだつた。
「どじょうすくいの土田課長がN市の病院で亡くなった」
「そう…・お気の毒に」
「あすN市でお通夜がある。おれは、もちろん出席するけど、きみはどうする? 知らせるだけは知らせておこうと思って」
「ありがとう。でも、ごめんなさい、あすは仕事の予定が入っていていけないの」
「そうか、いや、それならいいんだ」
 そう言ったあと、芳夫は庸子からの言葉を待つように、しばらく無言となったものの、ほどなく、「それじゃあ」と言って電話はきれた。

 三月半ばすぎに会って以来。お互いの連絡はたえていた、仕事の忙しさや他のつきあいでスケジュールがうまりといった理由もあるのだろうけれど、正月明けから、ほぼ半月に一回の割りあいで五回会いつづけ、たがいの気がすんだということなのだろう。

 それにユミコの存在を知ったのは、庸子にとって大きな出来事だった。元夫への芳夫への、いくらかの未練や、後悔や、漠然とした期待といったものが、ここにきて見事に一掃された感じだった。

 それもあとくされない、ある意味では理想的な決着のつき方である。あれは火遊びだったという関本の説明や、あれは恋愛なんかじゃないというユミコの言葉を信じるにしても、自分たち夫婦の破局には他の女性がからんでいた事実を知らされ、庸子はようやくリアリティをもって離婚の現実を消化できた。ユミコの存在を知らなかったこれまでは、心のどこかで、離婚したのはまちがいではなかったのか、とひそかに自問自答を繰り返していたのだ。

二年半かけて、じっくりと夫婦で話し合ってきたにもかかわらず、なおも、とりこぼしがあるような気がしてならなかったのである。
 ユミコのことを芳夫に問うてただしてみようという気持も、ユミコと電話で話した直後はあったのだけれど、日がたつにつれて、それはもうどうでもいいようなことに思われてきた。
 チーズバーガーをあと数口で食べ終えるころ、ふたたび携帯電話の着信音がバッグのなかで小さく鳴った。
「はい」
 と出てみると関本のである。
「庸子、四時からの本部会議を三時に早めてもらえないかと社長が言ってるけど」
「わかりました、すぐに社にもどります」

 この四月から庸子は関本が勤める警備会社の事務職の正社員に採用されていた。だからいまは新しい仕事をおぼえると、新しい職場の人間関係になれることに、全エネルギーをそそいでいた。それと関本を、だれかよさそうな女性をみつけて、早く結婚させるのも、目標のひとつだった。冗談口にせよ、ひまさえあれば庸子を口説きつづける関本がうるさくて仕方がなかった。心ゆくまで仕事に集中するためにも、関本の関心を自分からそらしたい。

「よさそうな女性がいたら紹介してね」
 と、「滝シェアハウス」の女性たちにも頼んである。そして、その一回のお見合いが今度の日曜日にレストランの個室をかりておこなわれる。紹介者は彩音の母典子である。お見合いをひかえ、関本はなんだかんだ言いつつ、ここ数日うきうきと上機嫌だった。
 
チーズバーガーの残りをそそくさとたいらげ、フライドポテトをいっぺんに口におしこむと、庸子ははずみをつけて椅子からはなれ、出入り口へとむかつた。
 ガラスの自動ドアーから一歩ふみだすと、五月も下旬のキラキラとした陽ざしがまぶしく、しかも、わけもなくうれしかつた。
 胸に希望を宿らせいるうれしさだった。
 =夫の火遊び=藤堂志津
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