私たちは快楽に走る人を頭ごなしに軽蔑することはできない。なぜなら世の中には現実の苦痛や不快に鈍感であり無神経であるが故に、快楽を求めないですむ人も多いからです。現実と自我との戦いも、その苦痛も味わわないですむ人、あるいは現実の底にかくれている悲劇をみないですむ人は、快楽を求める必要もありません。

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快楽のもつ悲しさ

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快楽のもつ悲しさ

ピンクバラ 快楽が求道の路に通ずるのはその時です。もちろん、現実の苦痛や不快から逃れる手段として快楽にたよることは確かに私たち人間の弱さを示しているでしょう。
 けれども、それだからといって、私たちは快楽に走る人を頭ごなしに軽蔑することはできない。

 なぜなら世の中には現実の苦痛や不快に鈍感であり無神経であるが故に、快楽を求めないですむ人も多いからです。
 現実と自我との戦いも、その苦痛も味わわないですむ人、あるいは現実の底にかくれている悲劇をみないですむ人は、快楽を求める必要もありません。

 それは彼がえらいからではなく、むしろ人生の悲しみに対して鈍いためであり、人生の矛盾に妥協的である場合が多いのです。
 このような人がもし快楽を頭から軽蔑するとしたら、それは偽善にほかなりますまい。

 快楽は幸福のように創造の行為ではありませんが、しかしそれに徹する時、私たちはやがて人生の本当の生き方を悟る場合が多いのです。

 ですから快楽に耽(ふけ)った人がやがて人生の本当の生き方に目覚めるということはよくあることなのです。

 聖アウグスチンの『告白録』を見ますとこの聖者が青年時代、快楽の日夜をすごしたことが書いてあります。

 古い芸術家や宗教家たちの中にも放蕩の後、次第に生の本質をつかんでいった人も多いのです。

 私たちはこうした快楽から人生のモラルへの複雑な路すじを一概に覗く能力も自信もありませんが、今まで述べてきたことからも二つの点が考えられるような気がします。

本当の人生の虚無

 第一は快楽を知った人はきっと本当の人生の虚無にぶっかったでしょう。
 先ほど私はサドの例を持ち出しましたが、ありとあらゆる快楽に耽ったのち、結局、あの深い人生のむなしさ、繰り返し、そしておそろしい虚無の絶壁にぶっかった人間を想像して下さい。
 彼はもはや逃れる路はないのです。

 今、彼に出来ることはふたたび現実を直視し、自分の孤独をにないながら何かを築き上げていくこと以外にほかなりません。

 彼が先ほども申しました快楽と幸福、不快や苦痛と不幸との大きな違いを認識するのはこの時なのでしょう。

 幸福とはなおも人生に絶望しないことにあり、不幸とはもはや人生を放棄してしまうことです。

 自殺が人間にとって本質的な絶望であり、キリスト教がこれを強く禁じているのはこれが最大の不幸だからです。

 もし彼が絶望しないならば、彼は快楽から今度は幸福へ人生を生き変え始めるでしょう。

欲望が無限である

 第二に快楽はまた私たちに宗教を教えてくれるものです。快楽の世界をくぐり抜けた人たちはおそらく、自分たちの欲望が無限であることを知ったはずです。

 第一の快楽から次の烈しい快楽を、更にもっと強い快楽を求めねばならぬということを彼等にさまざまなことを悟らせたにちがいありません。

 まず、快楽の限界を、そして我々の欲望の無際限な拡がりを――にもかかわらず、この世界ではこの無限な欲望を充たすことが出来ぬとしたならば、彼が採る方法は二つあるわけです。

 一つはエピキュロス派のように欲望にブレーキをかけることです。
 東洋の快楽者が多く、現世を空(くう)なりと見たのも同じことでしょう。
 快楽への欲望を制御する知恵を持つこと、これがギリシアや東洋の哲人たちが多くの場合、採った方法でした。

 だが、この方法は誰にでもできるのですが、快楽欲求を征服したということではありますまい。
 むしろこの欲望に受け身な態度なのです。
 そこには積極的な人生への姿勢は感ぜられません。
 どうにもならぬものを出来るだけ控えめにしておこうという弱々しささえ見受けられるのです。

 第二の方法はこの無限の快楽欲望を素直に肯定し、そこからもっと積極的な何かを発見する方法です。

 狎(な)れてしまえば色あせねばならぬ束の間の快楽の代わりに、永遠に滅びぬ幸福への欲求に応じるもの――たとえば神がそれです。
 無限の快楽欲求は無限と絶対へのなにものかへの憧れが私たちの心にかくれていることを秘かに示しているのではないでしょうか。

 ふたたび恋愛という快楽の場合を考えてごらんなさい。ある異性に恋した者は自分の心の中にこの無限と絶対への願いが隠れていることにすぐ気づくはずです。

 恋人が自分を絶対的に充たしてくれること、中途半端ではなく、完全に愛してくれることはどんな恋人だって本能的に持っている感情なのです。

 だがどんな恋人でも相手のこの期待や願いに応じることはできますまい。

 人間である以上、それは不可能なのです。けれども情熱のすみずみまで味わいつくし、かつその悲哀にふれた人はこの無限と絶対との欲望を自分の恋愛の中から発見するでしょう。
 「何が、これに応えくれるか」という飢えと渇きとをたえず求めつづけるでしょう。

 この時、彼は既に恋愛や情熱の世界から宗教の世界に移行したのです。快楽の探究から真の幸福の探究にとびこんだのです。

 ドン・ファンの悲劇を知っていられる方は、この探究の変化がよく理解されることと思います。
 周知のようにドン・ファン女性から女性へと渡り歩いた快楽主義者でした。

 だが、彼はたんなる好色家ではなかったのです。彼がある女性から次の女性へと快楽を追い求めながら探していたものは実は、人間には決して与えられない充足的な幸福だったのです。

 彼はそれを充たしてくれるのは神だけであることを知らなかったのでした。
 このドン・ファンの悲劇ほど人間の快楽のもつ悲しさを教えてくれるものはないでしょう。
 そして私たちはそこから幸福というものを再び考え直してみねばならぬと思われるのです。
 つづく 愛の矛盾、あいのふしぎさ