遠藤周作">

      社表

 愛しあっている夫婦が肉体を結び合うことは言うまでもなく清らかなことです。そして、それは悦びや幸福感をもたらす場合が往々にしてあります。なぜなら――その肉欲はたんなる肉欲ではなく、愛の証明であると同時に、妻を母性に促す路だからです。

赤バラ煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。

純白の夜のために

本表紙

純白の夜のために

ピンクバラけれども、こう書いたからといって、肉欲は何時、いかなる時にも充たされてよいものとは、ぼくは思いません。と申したからといってぼくは別に頭のカチカチな古めかしい道徳に捉われている男ではありませんし、この際肉欲を自由に濫用(らんよう)することを道徳的にわるいと言っているのではありません。

 ぼくが恋人たちが肉欲の愛情を自由に濫用することを皆さまにお奨めしないのは、「恋愛とは難しい綱渡りのようなもの」という考えに基づくためです。多くの恋愛至上主義たちは「愛している以上は心も体もおたがいに与え合って良いではないか」と述べるでしょう。

肉欲は悲しみや疲労・孤独感や後悔などを必ず伴うもの

 また、貴方たちの恋人の中には「ぼくたちはどうせ結婚するのだから、そして愛あっているのだから。ね、いいだろう」と言う青年がいるかもしれない。

 けれども、こうした一見、都合の良い言葉に貴方はやっぱり、抵抗なさる方が良いと存じます。近頃の太陽族の恋愛論には「肉体を通じての感覚以外は信じない」という理屈もあるかも知れません。

 けれどもそうした理論は一部の芸術家にでも委せておきなさい。
 なぜなら、肉欲というものは決してキタないもの、不潔なものではありませんが、それが間違って使われるならば、悲しみや疲労・孤独感や後悔などを必ず伴うものなのです。

肉欲はたんなる肉欲ではなく、愛の証明

 愛しあっている夫婦が肉体を結び合うことは言うまでもなく清らかなことです。そして、それは悦びや幸福感をもたらす場合が往々にしてあります。なぜなら――その肉欲はたんなる肉欲ではなく、愛の証明であると同時に、妻を母性に促す路だからです。
 けれども、まだ結婚していない恋人たちが、いかに愛し合っいても、肉体まで与えることは多少とも危険なことです。
 なぜ、危険なのか。
ぼくは何も妊娠とか、道徳的な悪とかについて言っているのではありません。

結婚までは彼に全てを与えぬ

 ぼくの言う危険とは、二人の恋愛をおびやかす危険のことです。貴方の恋がもし一時的なものでなく、何時までも彼から愛され、彼の愛をつなぎとめたいならば、出来るだけ、結婚までは彼に全てを与えぬようにしなさい。
 彼がいかに理屈をこね。いかに淋し気な表情をし、いかに信頼を要求しても、あなたは恋愛中、彼に体を許さない方がよいのです。

烈しい征服感

 なぜなら、言うまでもないことですが、男の恋愛感情の中には、女性と違って烈しい征服感がふくまれています。
 誤解のないように申しあげておきますが、征服感そのものが男性の恋愛本能の全てではありません。
 けれども、いかに謹厳(きんげん)な青年の中にも、愛するものの全てを自分のものにしたい、自分の支配下におきたいという本能があるわけです。

男性の恋愛感情はそそられる

 逆に言えば、愛する女性がまだ全てを与えないとき、まだ、すっかり征服されない時こそ、男性の恋愛感情はそそられるのです。
 だから、貴方のすべてが、彼にとって、もう未知ではなくなった時、謎でなくなった時、神秘的なものでなくなった時、彼の愛情はたしかに、多少の幻滅の影をおび、新鮮味を失うことは事実です。
 どんな真面目な男性にとっても、このことは本能である限り、言えるのではないかと思います。

肉欲とは感覚の陶酔

 第二に肉欲とは感覚の陶酔です。感覚の陶酔である以上、それは刹那的(せつなてき)にはハッキリしたものでしょう。
 必ず、冷めるもの、消えるものです。これを持続させることが、結婚なのですが、その持続は恋愛至上主義者の考えるほど容易しいものではありません。

 男性のなかには、うつろい易い気分やエゴィズムなどがあります。
 肉体を与えられて全てを知らされてしまった時、彼女に対して幻滅を感じない。
 そして愛情の新鮮味を失わない男性はほとんどありません、そのことを恋愛至上主義者たちは考えていないのです

肉体的愛情

 彼等は恋する女性は勿論、恋する男性を天使のように考えています。しかし恋人も人間である限り、天使ではありません。

 だから肉体的愛情は正当に使われる必要があるのです。
 それは別に汚いもので不潔でもない。徒らに嫌悪だけを感じるのも間違いです。けれども肉体の愛情は、できるだけ延ばしておくべきもの、つまり貴女と貴方の彼氏が意志や勇気とで、これを抑えるにふさわしい、そして親や友達たちから祝福されて婚姻の夜をむかえるまで、我慢するに充分、価値のある悦びなのです。

 その時、貴方の真白な婚礼の衣装は、貴方のみずみずしい肉体を純潔に飾り、そして彼は結婚という秩序のなかで貴方を彼の子供の母親とするために、その純白の夜、幸福と悦びとに包まれるでしょう。

男の欲望

 ここに課せられた題目は男性の欲望のうち「女性征服欲」「出世欲」「名声欲」――この三つを分析してくれということでする
 けれどもまずお断りしておきたいことがある。もし読者の皆さんがこの三つだけを男性の欲望の全部と思いにならぬように。

出世欲、名声欲、女性征服

とこう書き並べますと、いかにも男性は俗っぽい世間的な、あるいは卑しい欲望しか持ちあわせぬ存在のように誤解されてしまいます。
 だが、今、「出世欲」を「運命と闘う意志」、「名声欲」を「名誉に憧れる気持ち」とでも言いかえてごらんなさい。
 貴方たち女性にとっても――男性とはそんなに卑しい種族どころか、なかなか頼もしい存在のようにうつるでしょう。

 しかし、それはそれとして男性とはこうした三つの欲望以外にも、案外ナカナカ、高尚な欲望を持った人間達でもあるのです。

 たとえば「心理研究欲」「創造欲」「女性保護欲」その他いくらでも書き並べられますが、そういうことはどうでもよい。

 ぼくがまず申しあげたいことは、男性とはたんに「出世欲」や「名声欲」「女性征服」だけを捉われた怪物的な動物ではないということで、その点、皆さまも安心して頂きい。

女性征服欲

 今も書きましたが、女性征服欲と書きますと、女性の皆さんの眉をひそめられるような何か卑しいものを感じさせます。
 こういう文字からは、次々と女性を漁っては捨てていく好色的な青年や、あるいは女性を肉体の対象としてしか見ない脂ぎった中年の男を連想させるものです。

 けれども、男性の女性征服欲はそんなに単純なものではない。同じ征服欲といっても色々な形、複雑な陰影があるので必ずしも好色な肉体欲だけに動かされるものではないのです。

 ぼくは先ほど、男性の女性征服欲には色々な形と陰影とがあると申しましたが、大きく言って、それはカザノバ型とドン・ファン型とに別れるのです。

 男性の心の中には、カザノバ的な低い要素があります。
 けれども同時にドン・ファン的な、理想的女性を見いだせぬ寂しさと焦燥感から漁色家の形をとる者もいるのです。
 と申しても、ぼくは決してドン・ファン的な心を全面的に肯定しているわけではありません。

 いかに理想的女性を追求するためとは言え、その犠牲となった女たちはやはり被害者にちがいありませんけれども、ドン・ファンの弱さはもっと別な所にあるのです。

 それは彼が情熱と愛とを混同し理想的な女性像を数多い女たちの中に次から次へと「探し求める」ことだと考えていた点です。

 だが、そのような女性像は青い鳥の幸福と同じように探すものでなく、自分の力によって創ることなのであります。

 つまり一人の女性を愛し、その愛によって彼女を自分の理想的女性に育て、創りあげること――この点をドン・ファンは不幸にも忘れていたのでした。

 しかし、このドン・ファンの弱さはあながち、彼だけに帰せられるものではありません。それはもっと男性一般の弱さに根ざしたているのであります。

 なぜなら、男性とは女性に比べて、一つのものに腰を据えそれを守りつづけるという能力が劣っているのです。

 たとえば、女性は、自分の家庭、自分の夫や子供をまもり、それを愛しながら生きることに大きな幸福を感じます。その点、彼女は静かな、動かない存在なのです。
 
 これに対して男性はそうした一箇所、一地点らジッと留まることよりも、眼の前にひろがる未知の世界と闘い、それを征服していくことに悦びを感じるものなのであります。

ドン・ファンがこのように女性から女性へと「動きまわった」ことも、結局は彼の男性としての弱さ(それは同時に強さともなりえますが)に根ざしているのでありましょう。

出世欲と名声欲

 皆さんはスタンダールの『赤と黒』という小説をお読みになったことがありますか。
 これは男性の「動かずにはいられぬ」本能をハッキリ掘り下げた小説ですからぜひ、読んで頂きたい。

なぜ『赤と黒』という題名がこの小説につけられたのかと申しますと、フランスの十九世紀初頭頃は、まずしい農家の息子にはキリスト教の僧侶になるかあるいは軍人になるか以外には出世のみちはなかったのです。

 この小説の主人公、ジュリアン・ソレルも、僧侶か軍人かになることによって自分の野心を充たさねばならなかったのですが、キリスト教の僧侶は御存知のように黒い服を着ていますし、当時の軍人は赤い制服を着ていました。

つまり、ジュリアン・ソレルの出世欲はこの赤と黒との色に象徴されたわけです。

 けれどもこの小説の主人公ジュリアンにとって大事だったのは、そうした出世よりも、自分の運命と闘って一歩、一歩、世間的にも偉くなっていく過程の生命感が大切だったのであります。

 このイキイキとした生命感のため、彼の出世欲が女性征服欲と結びついている点を皆さまは注意して下さい。

 つまり、このことは男性の出世欲と女性征服欲とが同じものから生まれることを示しているわけです。

 それが動かれずにいられない衝動と未知なるものに自分の痕跡を残そうとする男性の本能なのであります。

 これに比べると名声欲はやや事情を異にします。名声とは他人が作ってくれるものであり、彼自身が騒ぎ立てても、世間が問題にしてくれなければ、どうしょうもないものです。

言いかえると出世欲や権勢欲、女性征服欲が非常に動的なのに対して、これは幾分は静的だとも言えましょう。
 つまり、権勢欲や出世欲が男性的というならば、名声欲とはむしろ女性的な感情です。

 ここから、こういうことが言えます。男性のうちでも名声欲の強いのは、女性的な感情の強い者(たとえば芸術家)なのであります。

 一般に男性にとっては、まず出世欲があり、その出世に附帯して名声欲が生じるのであり、最初から名声だけを欲するのは、むしろ女性の方だと言えましょう。

 なぜなら、名声とは今も申したように、男性の運命と闘う本能、一つの秩序から逃れでようとする衝動とは直接に関係がないからです。

 したがって名声欲を男性の欲望の本質的な要素と考えるのは、ぼくは余り賛成しないのであり、むしろ権勢欲、出世欲よりは乏しい感情とさえ言いたいのです。

 男性よりも女性の方が本質的にこの名声欲が強いようにぼくには思われます。

 最後にこうした男性の欲望が女性に被害を及ぼす場合を考えてみましょう。
 それはたとえば出世欲の場合、男性がこの欲望をみたすために、女性をどのように扱うかの問題です。これは二つの型があります。

出世とは「富と女」

 第一の型は、彼が出世ということをどのように思っているかであります。
 日本では長い間、出世とは「富と女」とを自由に所有できる地位をえることだと考えられていました。

 富をつくり、多くの愛妾をおける状態になること、これを出世というならはせ、この場合、女性は男性にとっては、一種の物にしかすぎません。

 こうした出世観は明治までのものでしょうが、しかし今までも形を変えて残っているのです。

出世のために女性を利用する

 第二の型は、男性が出世のために女性を利用する場合です。
 現在のように生存競争が烈しい世界では男性の中に全てのものを出世の手段としようとする者がいます。

 バルザックの小説に『谷間の百合』という作品がありますが、その中で女性が男性の出世にいかに役立つかという言葉があります。

 たしかに女性は男性を幸福にするため、自分の地位、富、交友関係そして愛情の全てを捧げます。
 ある種の軽蔑すべき男性にとって、これほど利用価値のあるものはありません。

 このような男性は自分自身の力に自信がない。いわゆる女性型の男に多く、彼等はそのために女性の多くがもっている女性本能に支えを求めている者なのです。
 つづく 不幸と快楽