新しい言葉ですが、今に始まったことでなく、また特に増えてきたものでもありません。昔から一杯あったものだと思います。それまで、陰湿に家庭内で繰り返されていた暴力を、被害者である女性たちが「もう許せない」と語り始めたのです。  

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1●「男の暴力」をどう考える

本表紙

ドメスティック・バイオレンス――私の経験

ピンクバラ最近、話題になっているドメスティックバイオレンス(略してDV)、これは「夫、恋人からの暴力」という意味で、親密な関係のある人からの暴力の事です。

新しい言葉ですが、今に始まったことでなく、また特に増えてきたものでもありません。昔から一杯あったものだと思います。それまで、陰湿に家庭内で繰り返されていた暴力を、被害者である女性たちが「もう許せない」と語り始めたのです。それは、暴力に苦しんでいる女性たちの「苦しみ、恐怖、そして怒りの入り混じった悲痛な叫び」です。

 第一部で書いているように、私もかってはDVの加害者です。それは決して許されるものではなく、彼女はそのことに関する限り私を許していないだろうと思います。

彼女によってもたらされたフェミニズムの生き方を、少しずつにしろ学んでいったことが私を「DVのでるような感情」から救ってくれました。

 今のジェンダー社会には「男がDVの加害者になる要素」が多く含まれています。ジェンダーから解放されれば、男に「DVの感情そのもの」が生じないと思います。
「暴力」というのは、使う本人の想像を越えた「相手の人格そのものへの破壊行為」であり、それだけではなく使う本人の人格も破壊しているのではと考えます。

 かつての私が「妻への暴力」というものをどう捉えていたかというと、表面的には今と同じょうに「暴力はいけない、相手を屈服させる道具にしてはいけない」と思っていました。
しかし、同じなのはここまでで、フェミニズムを学ぶ以前は「使う側の自分の正義感」ばかりを見つめていました。相手のことは「痛いだろう、辛い、苦しいだろう」ということは思えても、そこから先は「相手に嫌われたくない」という自分の気持ちを大切にし、相手の心と体の傷は「言葉と思いやり」で癒せるぐらいに考えていました。
 
 今はここのところがまったく違っています。「暴力というのは、相手からすべてを奪い取ってしまうものだ」という思いに変化してきました。「暴力を使った側の気持ちが云々ではないんだ、使われた側の人格がどうなるかということが一番の問題なのだ」と思えるようになりました。
 
これはものすごく大きな変化です。「暴力は相手の人格を形成する深い部分にまで直接に、有無を言わさず力で強制介入していることだ」と思えるようになったのです。

そしてそれには単に暴力そのものを否定するのではなく、「その行為をさせる感情が出てくる土壌にこそ問題がある」と考えられるようになりました。

 フェミニズムはそのことを私にはっきりと認識させてくれました。そして、フェミニズムによって「“その土壌”ではない“違う土壌”で生きるチャンス」を貰ったのだと思います。――。その“土壌”というのは男社会の基礎、従来型の基盤図1のことであり、“違う土壌”とは男女が対等な基盤、
図1
対等型の基盤 図2です。
 図2
かっての私のDVは、自分としてはさほど悪意はなく、しかも愛情の成せるわざ、とも思える認識で行っていました。実はこれが最も恐ろしいことだったのです。

私の場合はたまたま暴力を繰り返すという行動には移らなかったのですが、一つ間違っていれば、繰り返し行った可能性があったように思います。なぜなら、それ以後、三年ほど間に二回、使ってしまったからです。絶対に使わないと堅く心に誓ったはずなのに、そして妻に約束したにもかかわらず――。

 ただ、辛いにしてもそれから後、二十数年、DVからは解放されています。といっても、私が自ら自分を制御できたという思いはありません。

 結果から見ると、確かに「彼女の生き方」が私から暴力(身体的のみならず、言葉や行動による脅しや無視といったものも含みます)を消滅させています、ただ、それは「彼女による私への働きかけ」で私が暴力から解放されたということはありません。

 むしろ彼女は「私をどうこうしようということをしなかった」のです。「夫の生き方、考え方」は夫の人生だから。と私の領域には決して介入してこなかったのです。彼女のしていたこというのは、私が彼女の領域に介入したときに、「それはわたしの領域よ、あなたは入らないでね」と私を促しただけなのです。

 それに対して私は「それは私の領域でもある」と抗議していた、ということです。その領域の認識の違い、そのせめぎあいのなかで私が感じたことが、「この女は、私とは全く違う次元で生きているのかもしれない」ということでした。
 
そういう生活のなかから前項の領域図が浮かび上がってきたのですが、それは同時に、「怒りの正体」を見つめるヒントを与えてくれたのです。

 自分の中から出てくる不思議な怒り、それは従来型の夫意識が、妻の対等型の生き方を嫌がっていたのです。従来型の基盤に立っている限り、そこから来る感情から逃れることなどできなかったのです。
 いかに妻に理解を示そうが、怒りは心の奥深くに巣くっていたのです。そういうものは、いつか必ず姿を現すものなんです。
 
こんなことがありました。あれは1985、6年頃だったと思いますが‥‥。
 彼女とフェミニズム談議に花が咲いていたときです。そういうときは、私の場合、自分の納得できる言葉を求めているときが多いのです。

 ところが男の理論で考える私には決まって怒りが噴出します。いつもならこんなとき、感情的になってしまうことが多かったのですか、それをすれば二人の関係が冷えてしまう、とそれまでの彼女とのことが頭に浮かび、困った私は、とっさにこんな言葉を発していたのです。

「俺、こんなに腹立つのん、何でやろ、わからんわ、自分でも。知っているんやったら教えてほしい」
 今から考えればこんな言葉が私に、それまでとは違った方向を示してくれたのだと思います。このとき、つまりこの言葉を発したときです。彼女は、なんと、私に共感してくれたのです。

「わたしも、もし、男だったら、わたしみたいな妻には腹が立ってたと思うよ。男としてのジェンダーに染まっているんだろうから」
 なんてこの言葉を聞いたとき、わたしはぶっ飛びました。
「分かっているやないか。だったら何でやのん?」
 と、思わず聞いていました。

「あなたの気持ちに添ってあげたいという気はあるよ。でも、もしそれをすれば、わたしがわたしでいられなくなるの」
「それはあかわ、自分が自分でいられなくなるって、一番恐いことや、何のために一緒に暮らしているかわからへん。もし俺がそんなこと、要求してたんやったら、それは俺の考えがまちがっている」

 思わずそんな言葉が飛び出していました。しかし、それは私の真実の声です。このとき見事に「わけのわからない怒り」は消えていました。私の怒りに、たとえどんなに正当性がろうとも、彼女を苦しめていることは紛れもない事実、そう思えたのです。

 彼女の「わたしがわたしでいられない」という言葉は、それほどの重みがありました。それでそのあと、「怒りが何なのか、ジェンダーって何なのか」かなり長時間、話し合えることができました。
 
どうして怒りが消えたのでしょう、実はこの会話はコミュニケーションだったのです。最初に発した私の言葉「俺がこんなに腹立つのん、何やろ」というのは、感情を伝えていたのです。言い換えれば、感情的に相手を責めていなかたんです。そこに相手への否定は存在しません。

 自分の感情に困り果てた私が彼女に「どうしてなの? いったい何?」と怒りについて聞いているのです。つまり、ケンカでなく、会話です。私は私の怒りを「自分の問題」として捉えられたのです。「妻なら、俺の怒りを何とかしろ」という「妻への要求」とは大変な違いです。

 もちろんそいうことを意識していたのではありません。当時の私はそのような感情の表現方法は知らなかったのですから、このあとの彼女とのことが会話で知ったのです。

「そういうふうに聞いてくれれば、とても楽に話し合えるよ、こちらは否定されてないってわかるから」
 そう聞いて、とても満たされたのを覚えています。このようにコミュニケーションをはかれたのは、おそらく、普段からフェミニストたちの生きざまを彼女から聞かされ、コミュニケーションに接していた、その効果だと思います。このときが、結婚後の彼彼女とのほんとの意味でのコミュニケーションだったのではと思います。

 DVをなくしていくためには、法整備は不可欠ですが、ジェンダーの存在を知り、その意識から解放されることがとても大切です。その第一歩が「妻」「夫」というイメージのついた関係じゃなく、個人と個人の関係のなかでのコミュニケーションを見つめることのような気がします。
てください。

 つづく ドメスティック・バイオレンス私の経験