フェミニストというのは、生きている基盤そのものが違う、とおぼろげながら感じていました。
それは私の住んでいる社会では理解できない何かのような、不思議な感覚のもの。当時は何なのか、はっきりしなかったのですが、やがて私の意識の中に形となって具現化しました。 

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2●男とフェミニズム――夫婦関係、その従来型と対等型

本表紙

男とフェミニズム――夫婦関係、その従来型と対等型

その頃には、フェミニストというのは、生きている基盤そのものが違う、とおぼろげながら感じていました。
それは私の住んでいる社会では理解できない何かのような、不思議な感覚のもの。当時は何なのか、はっきりしなかったのですが、やがて私の意識の中に形となって具現化しました。
それからは彼女のことも、彼女との関係性も非常によく理解できるようになりました。
 形となったのが、次のような夫婦関係の領域図です。

☆図は、日々。二人がどういう意識で生活し、生きているかのイメージとして捉えたものです。あくまでも、「妻とは」「夫とは」と言う意識(妻とはどういうもの、夫とはどういうもの、という認識)上のことです。実際のこまごました暮らしではありません。
☆かつての私は「従来型」を基盤とし、妻の基盤は「対等型」です。
☆この対等型がフェミニズムの生き方の基盤じゃないかと認識しています。
 夫婦関係の領域図(イメージとして)
図1
〇内側の妻の領域内に家事、子育て等が組み込まれ、外側の夫の領域に仕事が組み込まれている。
〇妻の自由とは、夫の許せる範囲内での自由であり、それ以外の自由はない。なぜなら、妻の領域は夫の領域に内に全て含まれており、自由と表裏一体にある義務と責任は全て夫にかかっているから。
〇夫は経済的には自立しているが、精神的には自立できていない。なぜなら、妻を自分の領域内に置き続けるということは人格、人権への侵害を意味するから。
〇従来型の関係で得られるもの
・あくまでも夫婦関係は一心同体で、
 主役が夫、準主役が妻。
図2
(図)2
〇斜線部分が家事、子育て等の責任と義務。
〇共有している部分が二人で負う責任と義務であり、別々の部分が責任と義務と自由の部分。
〇自立とは対等な関係の上に成り立つものであり、自由を獲得するが、責任と義務も個々に引き受ける。
〇対等型の関係で得られるもの
・個々がそれぞれ自分の人生の主役として生きられる。

〇私のたどった足跡(思考を重ねていく時の基礎・基礎の変革)
・幼少から三十歳頃まで〈唯一無二の基盤〉⇒ 三十三歳頃〈気づき〉 ⇒三十七歳頃〈別の基盤がある〉 ⇒ 四十歳頃〈選択〉
〇立っ位置・基盤が違うと、出てくる自分の感情まで変化していくことの驚き。

 妻との生活を振り返ってみると、彼女は既にわたしの領域内にはいなかった。二人の関係は早くから対等型になっていたのです。いや、もしかすると初めから対等型だったのかもしれません。なぜなら出会った頃から結婚は共同生活と言っていたのですから。そこのところは、お互い曖昧でした。お互いが好きになり、ずっと一緒に居たくて、それが結婚と言う形になったというところが本当だと思います。
 ですが、一緒に暮らすということは、そんな単純なことではなかったのです。私が変化したのです。相手が「女」から「妻」という立場に変化したと、私は認識を変えたのです。
 ヤキモチはその変化の第一段階でした。そして、次々に私の領域の中に彼女を閉じ込めようという行動を取っていったのです。
 そこにはむしろ自然な流れを感じています。私は自分の感情に素直に従っていたのですから。彼女が感じた息苦しさは、それを敏感に感じ取ったことと、彼女のそれまでの生き方からきたものでしょう。

 私はというと、結婚したからには世の中の基盤は一つ、つまり従来型しかないものと思っていました。実際にはそんなことすらも考えていなかった。基盤とはそういうもので、それが当たり前のこと、正しいかどうか、二人にとっていいものかどうかなんて、改めて見直すことにはならないのです。
私の考え方、生き方はその上に築かれてきたものですから、それがおかしいことになると、自己否定につながってしまいます。それは何があっても許しがたいことで、猛烈な拒否反応を引き起こします。いわば従来型は私の思考、生き方の定義になっていたのです。
 
当然のごとく、別の基盤で生きようとし始めた妻に、私は私の生き方を強要し始めました。彼女が認識上だけじゃなく、実際の行動をとりだすと、彼女を私の領域内に留めようと、それはもう必死になったのです。私にとって被害を伴うことだったからです。
被害とは、期待している心身のケアがしてもらえなくなることです。

 従来型で生きていると、ケアしてもらえないことを被害と感じます。対等型では自分のケアは自分ですることが基本です。その基本を踏まえた上でお互いがどう協力できるかを話し合っていきます。私の信じて疑わなかった従来型の基盤というのは、二人の関係性においてすでに存在していなかった。私は二人の関係を間違って認識していたのです。

前項の図1を見て下さい。
 従来型の図から妻が飛び出した図2が対等型です。つまり、現実には私の家庭は対等型になっていたのです。その違和感に私が苦しんでいる。それが第一部のなかの私の姿です。

 従来型か飛び出す、飛び出さないは、それは男が決めることじゃなく、女の当人が決めることだったのです。また、男がいくらそう思うなと叫んでみても、思うのは相手であり、相手の思うことまで管理することは人の力でできるのではありません。それを妻にしていたのがかつての私でした。
 
女性が自立を考え、自分の人生を自分の手に取り戻そうとしているとき、すでに対等型になっています。夫が従来型で、妻が対等型なら、二人の間に家庭、家族観や子育てに食い違いができるのは当然です。二人の軋轢(あつれき)を子どもは敏感に感じ取っていくでしょう。私の子どもたちも激しく感じ取っていました。

 しかし、子どものために妻は自分を見失うことはしませんでした。私と妻とは、子どもにそれぞれ別々のメッセージを送り続けていましたが、それは仕方ないことだと、それもお互いに引き受けました。引き受けるということは、その責任をお互いがとるということでした。

 ただ、妻はよく言っていました。
「子供たちにとってみれば、自分たちが知らないところで何が起きている、それってとても不安でしょ? だから私たちが何をやっているのか、正直に伝えようと思うの、どんなことでも」
 それには私も賛成でした。
 子どもたちが二人の軋轢の犠牲になるんじゃなく、その中からなにかをつかみ取ってくれれば熱い願いがわき起こったのを覚えています。
「いくら小さくても、そのときなりの考えは必ずあるはず、誠実に子供に拘わろう」と、妻と何度も話し合いました。

 男も女も、どちらの基盤で生きようが、それは他者がどうこう言えるものではありません。また、全く違った別な基盤もあるかもしれません。ただ、妻との生活を通して感じているのは、自分の領域の中に入れようと強要することは相手の人権を奪うことになる、ということです。

 私が本当の「フェミニズムの生き方をしょう」と葛藤しながらも、そう生きたくない感情に追い詰められた時、妻は言いました。「私の生き方はそう生きたいからそう生きるだけ、あなたにはそう生きてとは思わないよ」と。この言葉は今も心に残っていて、私をとても楽にしてくれています。また、それだけにますますフェミニズムの素晴らしいさに魅せられ、その方向へと私を導いて行ってくれるのです。今の私の原動力になっています。

 ちょうど並べたグラスが音をたてて反響音していくように、フェミニストたちのたてた音が彼女に伝わり、やがて私まで伝わっていたのだ…・そう思います。「生き方」というのは、ひょっとして、伝わるものかもしれませんね。

3●ほんとうの「対等型」って
 私がユキに前項図(対等型)を示し、見てもらったところ、
「わたしはちょっと違うな」
 という返事が返ってきました。
「えっ、違う? じゃあどんなん?」
 少し考え、クスッと笑ってペンを取って、スーッと円を二つ描きました。
 ええっと、驚いてユキを見た私。
「ふん、こうやね――」としきりに頷いている。
 図3
「こんなん? ――点やんか、そんなんいやや、せめて線にしてえや」
「???・・・・」
「丸やったら不安定や、四角のほうがええで、これやったら」
「・・‥ふん?」
一瞬何かを考えている様子のユキ、突然ケラケラ笑い出しました。
「そんなに頼りないの、点、いうたらほんまにちょっとだけやで、それもどんだけちっちやい点かわからんやんか」
「でも。ひっついているでしょ」
「あかん――いや、それやったら瞬間ボンドでつけとかんとあかんやろ」
「ボンド― そんなん迷惑――」
「点はあかん、点は・・・・」
「でも、ほんとはひっついていなかったんよ――でもそうだったらちょっとかわいそうかなって。それでせめて点にしたのに――」
「離れていた― 接点なしか?」
「そう――」
 思わず顔を見つめました。涼しい顔してなんの屈託もありません。

 このあと、その話題で一時間ほど語り合ったでしょうか。といも興味深い言葉が彼女の口から飛び出しました。ほとほと飛び出すことの好きな女です。私が彼女にとって特別な男でも何でもないと言います。みんな別々の領域であって重なる所などないのだと言うのです。
「それじゃ、他人と同じやないか」
 と聞くと。
「そう、同じ」
 と言います。
「じゃあ子育ては」
 と聞いたら、
「それぞれ個々にそれぞれの責任をもっているよ」
「なぬ!?」
 要するに彼女は「個人の領域というのは、もともと他者と重なるものじゃない」と思っているらしいのです。

 私は思わず唸ってしまいました――。
そして考えること三十分、ハッとしました。未だに未だ、ときどき以前の「男としてカッコ良かった(?)自分」に未練があるのはこのせいか、とそんな気がしたのです。完全に分離されずに重なる部分を残そうとしている。そんな自分がいたのだと。――だからあの図なったのか。

 しかし、今の私は、自分が描いた図がやはり安定します。ここがたぶんフェミニストと違うところでしょう。そして開き直っているところでもあります。その開き直りとは、「男らしさ」をすべて拒否しないし、「女らしさ」の全てを拒否しないということです。もちろんフェミニズムも「女らしさ」や「男らしさ」の全てを拒否していません。それぞれの良さを認めています。フェミニズムが拒否しているのは、そこから抑圧につながる男の論理にほかなりません。

 私は一時、フェミニズムの理論の素晴らしさに取りつかれとき、私の怒らしさを捨て去らねばと、必要以上にこだわり過ぎました。その結果、自分の中で消化不良を起こしてしまったのです。

つまり、残しておいてプラスになる「男らしさ」も沢山あったにもかかわらず、全てを取り去った方がいいと早飲み込みしてしまったのでした。それは「自分への自己否定」と「自分らしさをなくす行為」であったと今では思っています。
 ――男でいいじゃないか。妻が「女である自分が好き」と言うように、私も「男である自分が好き」と言うのは。何もジェンダーに捕らわれていることと同義語ではないじゃないか、と。

差し込み文書
「夫婦間での些細な棘となるような男の性の欲望を一夫一妻法制の元では妻が男の性の欲望を満たすとなればそれは多分難しいことです。
 何故かというと大多数の男性がオーガズムの定義に示されているようなパートナーを淫蕩させ大満足させるほどの大オーガズムを女体に与えられる男性器の持ち主は然程いないということから、子どもが生まれた。

 或いは、倦怠期を迎えたなどいう場合、タンポン似程度の男性器ではセックスは面倒だから嫌という妻が多い。そのように心から思っているから、性の不一致、セックスレス、セックスレス夫婦となって性拒否というものが起こる理由ではと思っております。

その大オーガズム得られ悦びをふたりで感じ合えられたときに夫婦は一体なれた思いになり、強く夫婦の絆は結ばれる。その心地よいセックスを疑似的にも得られる『ソフトノーブル』を用いることで、今までなかった大オーガズム得られ悦びをふたりで感じ合っときにセックスレス夫婦撲滅につながると思います」
 つづく 第三部 ドメスティック・バイオレンス――私の経験
 1●「男の暴力」をどう考える