恋とは不思議なもの、当時からフェミニストとしての素質を充分にもっていた女性と恋に落ちてしまった。由起子さんは当時から「結婚は共同生活」と言っていた。が、惚れた弱味、「結婚してしまえばどうにでもなる」と、高をくくっていた。
それからだった、私の、
―― 男からすれば、まったく奇妙な人生 ――
が始まったのは。
それは、格好悪くて、恥ずかしくて、惨めで、なおかつ心の底から突き上げてくる不思議な拒否反応。そして、自分自身への不安がとめどとなく溢れてくるものだった。
それらに悩まされつつ、
―― フェミニズムと仲良く生きている男 ――こ、どうにかこうにかたどりついた。
そこには、「自分らしさ」という個性を活かした、他者との共存の世界があった。
あれは1986年のこと。今もはっきり覚えている。
私が作った時のこと。彼女とケンカしてしまい、あろうことか丹念に作ったカレーを流しの台のなかにぶちまけてしまった。そして、数日間はとてもつらくて寂しい思いをした。もつとも、それが一つのきっかけとなり、彼女の生き方の領域に土足で入り込んでいくことをやめることになったのだが‥‥。
とにかく、あの時の思いはとても複雑。なんとも奇妙な、私としては初めて味わうものだった。「フェミニストの気持ち」を感じたのかもしれない。
多分そうだと思っている。
天気の良い日だった‥‥。
今日は日曜日、気候もよく、気分もさわやか。
〈よし、晩飯でも作っといてやろう、愛情のアカシ〉
こう思ったのがそもそもの始まりだった。つらくて、重苦しいことになるとは、このとき想像もしなかった。
私のできる料理といえばカレー。こだわりだすと奥は深く。きりのないものである。かといって他に考えつかないのだから、それしかあるまいと、せっせと励んだ。しかし、思いのほか大変。ジャガイモの皮むきから肉の解凍まで、いってみればまったくの素人。慣れている者なら簡単だが、私にはそうはうまくいかない。下ごしらえがなんと面倒なことか、手順がちぐはぐしてしまう。
やっとのことで煮込むところまでいった。さあ、これからが腕の見せ所。ぐっぐっ煮込むこと約二時間。しかしこれほど疲れるものとは思ってもみなかった。立ちっぱなしで腰はだるいわ、肩は凝るわで、気分は、もうええわ、である。
しかし、ここまで焦げ付かないようにかき混ぜ、かき混ぜしてきたのだから、ここで火を止めるのももったいない。
早く帰ってきて欲しい。
〈今ならうまいぞ、食べごろや〉
ところが、帰ってこないではないか。
〈おいしいのに。もう我慢できない。俺は食べる〉
うまい、やはりおいしい。できたら一緒に食べたかった。そうおもいつつ、あっという間に二杯たいらげた。満足満足。と、思うのもつかのま、やっぱりおいしい状態で食べて欲しい。
まだかまだか、と待つこと三十分。とうとう待ちくたびれて火を止める。待っのに飽きたところ、
♀ ただいま――、いいニオイしてる、カレーつくったん?
ニコニコしながら靴を脱いでいる。
〈待っていました。さあ、これからが俺のカレーを食べるぞ。びっくりするぞ、ごっつううまかってんから〉
♀ うわ――、作ってくれたの。大変やったでしょ、嬉しい―
〈そう、そうなんです。しかし、ここで恩着せがましくしたら値打ちが下がる。さりげなくさりげなく〉
♂ うん、まあちょっと作ってみようかな、って。まあまあの味はできているわ。
♀ ほんとお、すごい。楽しみ―
♂ ちょっと汗かいたから、フロ入ってくるわ。
♀ え―っ― おフロも沸いているの? ありがとう、カ・ン・ゲ・キ。
というわけで、気分良くひとっ風呂あびで、いそいそと出てきた。が、ユキを見て驚いた。そこには信じられない光景があるではないか。なんと、パクパク食べている。
〈冷たい〉
ひと目でわかる食べ方だ。なんと、
〈俺のカレー、冷めたまま食べている― クソォー、なにすんねん。あっ、やめろ、あかん、そんなんおいしいないし〉
♂ なんで、温めへんねん。そんなんうまないで。
♀ わたし、これでいいねん。
〈これでいい? 俺のカレーこれでいい? なんで―、 そんなもん、カレーはアツアツに決まっているやないか〉
あっけにとられ、呆然。それに気づいたのか、こっちを見て「おなかペコペコ」って言うではないか。
〈アホか。俺はアツアツのおいしいのん、食べて欲しいんじゃ。やめろ、食べるな、俺が今すぐ暖める、メッチャうまいんやから〉
♂ ちょっとお待ち、今、暖めるから、すぐやから、おいしかってんもん、これ。
♀ ううん、まだ温かいよ。すごくおいしいし。わたし、これでいい。
〈そうか、なんならそれでいいか。まあ、それでいいんやからな。だけど‥‥カァーッ‥‥〉
見れば、嬉しそうに食べている。こっちも嬉しい。が、
〈アツアツ、アツアツ〉
アタマから離れない。わけのわからないイライラ。
万事休す。
〈くやしい、どうして温めない― 苦労して苦労して作ったのに‥‥〉
気持ちが収まらない。とうとう出てしまった。
♂ なんで、なんでやのん? オレが暖め直すって言ってるやん。ちょっと待っててくれたらいいだけやのに・・・・。
♀ ・・・・・・。
困った顔するユキ。それを見るとこっちまで困るではないか。喜ぶ顔みて、私も楽しくなるはずだった。だが、どうにもこうにも残念でならない。
♂ せっかく一生懸命作ったのに‥‥。そんな食べ方されたら気イ悪いわ。待つぐらい何ともないやろ。
〈しまった、何でこうなる。言いたかなかったのに、文句なんか。あんたが言わすんやで〉
♀ だっておいしいもん。私はこれで充分、ほんとよ。
〈なにがや…・ったく。アツアツやったらもっとうまいんじゃ。ほんまにわからんオンナやなあ…・、クソォ〉
不思議なもので、おいしいという言葉を聞けば、なおさら「もっとうまいのに、アツアツは」と、そうしたくてたまらなくなってしまった。
なのに目の前では、どんどん口に運んでいるではないか。
〈ああ、そんなに食べたら、お腹がふまれてしまう。アツアツ食べる分、なくなってしまう。ストップしろ― なんで食べるんや〉
焦りと悔しさが、あっという間にピークに達した。
♂ 食べるな、そんなもん食べるな― なんでアツアツにせんのや。いややったら食べるな―
楽しい一日で終わるはずだった。またもやハプニング、こんなことを望んでないのに‥‥。肩がこる。このとき、急に肩甲骨のあたりがだるくなった。慣れていないことをしたのがその原因に違いない。身体中がとたんにストレスのかたまりになった。
〈これはいたい誰のせいじゃ、あんたやろうが〉
ユキは私のイライラを見て、唖然としている。「バカ」と思ったに違いない。が、もうカレーを食べてはいない。食べる気さえ起きなかったのだろう。気まずい思いが二人の間に立ち込めた。というのはキレイごと、本当のところ、冷めてしまっていた。
ユキは、《もう、こんなことでいちいち、バカか、ずっとやっとれ。あなたそうしたいんでしょ》と、心を整理しだしている。こういうときが、このオンナはいちばん恐い。心が冷めていくのがだ。カレーより、私より、そして限りなく強くなっていってしまう。
いつもの私なら、ここでこのオンナに負けてしまう。が、この時は違った。私には正しいことをした、という自負がある。なんといっても愛情いっぱいのカレーなのだ。厳然(げんぜん)と立ち向かった。
♂ 一生懸命作ったんや。ユキのこと考えて、喜ぶやろと思て、せやから悔しいんじゃ。
♀ 嬉しかったよ。気持ち、ありがたかった。
♂ それやったら温めるって言ってんやから、ちょっと待ったらええんや。
♀ ・・・・・・。
♂ 感謝の気持ちがあったら、オレの気持ち、わかるはずや。
♀ ・・・・・・。
黙ったまま、ため息をつくユキ。
〈俺がどれだけ苦労したか、ちょっとは理解しろ〉
♂ なんとか言うてほしいな、黙つてられたら気が悪い。
♀ ‥‥・私はこれでよかったの。まだ温かいし。
♂ オレはイヤやねん。アツアツを食べて欲しかった。
♀ 食べるのはわたしでしょ?
♂ ? あたりまえやろ。そんなこと言っているんちゃう。
♀ じゃどういうこと?
♂ 作った者に対する感謝や。
♀ しているよ。
♂ うぬ‥‥。
伝わらない、私の思いがまるで。愛を感じたら待とういう気にはなるはず、愛には愛で返すもの、女房なら当然のことではないか。
〈そうか、あんたはそうやねんな。よし、わかった。そうしたら好きにせえ、俺の気持ちなんか考えたないんやな。…・前からそうやと思っていたけど、思いやりがないんや、あんたには。クソッ二度と作るか、人をパカにするのもええ加減にせえ!!〉
と、とうとう切れてしまった。
もうどうしようもない。目がカレーに行った。こんなとき、気持ちを鎮めるために何らかの行動をとる。それは暴挙になりやすい。危機である。果たして‥‥。気がつけばカレーを流し台のなにぶちまけていた。
危機はそうして始まった。
やってしまったことに自分でも驚いた。なんで苦労して作ったカレーを放らなければならないのか。力が抜けていく。もともとケンカなんかしたくなかったし、喜んでもらいたいだけだった。
〈こんなに怒ることか‥‥。俺はいったいなにをしているんや〉
考えてもいない状況に、なんでや? と、ふと我にかえった。
ユキは、と見ると、黙ったまま、静かである。が、目はすわっている。それにビシッと伸びだ背筋。
〈このオンナ、どうしてこんなに落ち着いていられるんや〉
不気味な光景に、後悔が湧き出た。こんな雰囲気に耐えられる私ではなかった。
♂ すまん、こんなことをする気なんかなかった。悪かった、‥‥ごめん。
♀ ・・・・・・。
どうも私に分が悪い。平静を装った。
♂ 喜んでくれる・・‥、そう思ったんや。
♀ ・‥‥。
♂ 喜ぶ顔が見たかっただけ。こんなことになるなんて・・‥。
♀ 嬉しかったよ。だからそういったでしょ。
♂ ああ、けど…‥。言ってもわかってくれへんし、オレの気持ち、どうしても食べて欲しかってん、熱いのを。
♀ そういうふうに言われたらしんどいよ、わたしは。
♂ …‥。
♀ 食べ方まで押し付けられたら。
♂ オレの気持ちはどうしたらええんや。
♀ さあ、それは私じゃないから、あなたのことでしょう。
♂ ううう・・‥。
〈やっぱりそうや。いっつもそうなんや、あんたは、無視するんや俺の気持ち〉
♂ そんなもんか、夫婦って、オレは違うと思った。ユキのこととかオレのこととか、そんなこと言うてほしくない。二人そろって一つの夫婦やろうが。
♀ どうしょうもないみたいね、わたしたち。
♂ !?
〈どういうこちゃ。もうあかんてか、俺たち。‥‥そう思うんなら、そう思ったらどうでもええわえ、離婚でも何でもしたろうやないか〉
考えるの面倒。どう思ったところで、しょせん私の考えなど理解しよとしない。残された道は開き直り。ところがなんと、そう思った途端、不思議な気持ちがふってわいた。
〈なんやこれ? なんでこんなに楽なん? 体が軽い〉
妙に落ち着く。胸のつかえがス―っとれていくではないか。気持ちまで晴々してくる。ユキがどう思っていようが、気にならない。
こんな気持ちになったのは初めてだった。あれほどまでにユキを惹きつけておきたかったのに、今は「好きにしたらええ」と思っている。そのほうが私も好きにできる。開放感に酔いしれた。
〈こんなもんか、吹っ切れるって・・‥。けつこう、ええもんやなあ。このオンナも俺のことをこういう風に‥‥。うぬ!?〉
脳がパニクった。
〈ひょっとして、このオンナも切れてたのか! 今の俺と同じような気持ちやったんか。ということは・・‥!?ずっと前から、切れていた!〉
背筋がゾッとした。
そんなこと信じたくなかった。
♂ ちょっと聞くけどな、いま、「もうどうでもええ」って思ったんよオレ。ユキもひょっとして、そう思ってたんか?
♀ 思ったよ。
涼しい顔して言うではないか。思わず息を飲み込んだ。
♂ いつごろ?
♀ ずっと前から。
♂ 前って?
♀ 結婚してすぐ。
♂ ?・・・・・?
つづく
2 妻は午前さま ―浮気だけは許さん―