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セックスレス、性生活

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本表紙初めての結婚 秋元 康&柴門 ふみ 著
ピンクバラ 第三章 理想と現実 
 

男が求める結婚生活、女が求める結婚生活の基本はラクチンであること

秋元― 優しい夫、白い食器、整頓された部屋…彼女たちの夢は明るく、果てしない。 結婚したい女性にはどんな結婚生活を描いているのでしょうか。
けれども、ここで忘れていけないのは、結婚は日常生活だということです。

 たとえば結婚したら、日曜日はベッドの上で二人でブランチを食べようと思う。仕事に出かけたり、家事をしなければならない普段の日は無理でも、休みの日ぐらいは二人でのんびりと、おしゃれに過ごしてみるのも悪くない。彼女たちは、そんなふうに考えるのでしょう。

 でも、実際にはベッドでなくて、布団だったりするかもしれない。それでも、強引にブランチを食べることに固執(こしゅう)してしまうと、なんだか病人食みたいになってしまって、おしゃれどころか滑稽(こっけい)でしょう。

 また、整理整頓された部屋で静かに語り合う図、というのも新婚の夫婦としては悪くない。でも現実には、整理された部屋の隅には脱ぎ散らかしたシャツや靴下があり、ソファーにはパンツ一丁の夫が横になっている、というのはよくあることです。

 昔、父親が休みの日にステテコ姿でいるのを見て、「もっとガウンを着るとかなんとか、何でおしゃれにできないんだ」と思ったけれど、自分が大人になった今は、バジャマよりもパンツとTシャツ、それよりもパンツ一丁の方がずっと楽だということがわかってきた。結局、自分も父親と同じことをしているんです。

 それでようやく気付いたことですが、男にとって服というのは、ある種の鎧(よろい)なんです。その鎧から解放してくれるのが妻であり、家庭なんです。

 結婚したら、彼女は「女」という位置づけでなく「家族」になる。女性にとっては、それが不満なのかしれないけれど、男はそれだからこそ、家で安心できるんです。

 彼女にカッコいい自分を見てもらいたいとか、カッコよく見せようとは思わない、男は結婚後は二人の間に「ときめき」より「楽な関係」を求めるんです。
 結婚前には、ブランド物のスーツで身を固め、おしゃれな店をたくさん知っていた、「あんなにカッコよかった彼」であったとしても、です。

 それは男の身勝手な言い分だと言われるかもしれませんが、女性にだって、家に帰ったら一刻も早くストッキングを脱ぎたいと思う気持ちがあるでしょう。
 恋人同士なら週に一度か二度、あるいは一日のうちの数時間を一緒に過ごすだけだから、無理もできるし、カッコもつける。
 でも、結婚したら、日常を共にするわけだから、いちいちカッコなんてつけていられない。そこが夫婦と恋人同士との大きな違いになって来ると思うんです。

 結婚生活をうまくいかせるためには、過剰な理想を描いてはいけないと思うんです。
 理想の結婚生活なんて所詮は自分勝手な思い込みに過ぎないから、それに自分たちの生活を合わせていくのは難しいのではないでしょうか。

 映画やファッション雑誌に描かれる結婚生活はあくまでも理想であって、女性たちの夢を破るようであるけれど、それと現実は違うんです。

結婚したぐらいで人は変わらない…

柴門― 現実の結婚生活は、毎日が驚きの連続です。
 それこそが生活習慣が違う二人が暮らしていくのだから、当然と言えば当然のことかもしれません。
 この人、どうしてこんなテーブルの下に、ソックスを脱いで置いておくのだろう? 
 スリッパを脱ぎ散らかしておいて、「俺のスリッパがない」と叫んでいる? 

 そんな、自分には理解できないこと、今までの生活習慣にないことが次々に起こるんです。家事に負担がかかり、一緒に住んでいて嫌だなと思う部分は直してほしいと思っても、相手にとって、それがすっかり生活習慣になっていることというのは、女性も男性もそう簡単には変えられないんですね。

 人はなかなか変えられない、これは私が結婚生活で学んだことの一つです。
 だいぶ前のことですが、ある夜、夫がいきなり「この羊はどこに行くんだ」と喋りはじめました、「何?」と聞くと、「あ、俺、夢を見ていた。羊がいっぱいる丘に立っている夢を見ていた」と言うんです。

 結婚すると、そういう人と一緒に寝なくてはいけない、ということもあるんです。
 そんな違いが初めは結構楽しかったりするんですけれど、夜中に突然起こされたりするのは、体力的にキツイモノデス。
 結婚生活いうのは超日常的。おしゃれな感じで毎日を送りたいと思っても、決して続けられるものではありません。
 だから、生活パターンが違う部分はどこかで調整して、妥協点を見つけていかなくてはならないのです。

 たとえば寝る前には静かに本を読みたいと妻と、寝るとなったらさっさと灯を消したい夫。こんな違いも案外、結婚するまで気づかないものです。そこで、どうしても自分のやり方にこだわりたければ、別々の部屋で眠ればすむこと。毎日のことですから、お互いに無理しないことが大事なのです。

 それを「いつも一緒に手をつないでいたい」なんて、漫画やドラマで見たようなことを相手に無理強いしたりすると、やがて二人の間に軋轢(あつれき)が生じてきてしまう。せっかく二人でいられる楽しいはずの時間も、窮屈(きゅうくつ)になってしまうと思うんです。

 どちらか一方が我慢してしまうと、結婚生活は持たない、自分が我慢しすぎてもいけないし、相手に我慢を強要してもいけない。二人の生活は、二人で折り合いをつけながら築いていくしかないのではないでしょうか。

 夫婦はジグソーパズルの一片の組み合わせ

秋元― 自分が結婚して改めて思ったのは、生まれ育ちも違うということで、生活習慣がこんなにも違うものだということです。
 たとえば、すき焼きの中身が違う。作り方も違う。とくに東京と関西ではそういうことがことごとく違ってくるでしょう。
 でも、其れは嗜好(しこう)の問題のレベルだから、そのことで二人の生活に支障をきたすようなケンカにはなりません。
 結婚相手は「自分にないところを持っている人を探せ」という言い方をよくしますが、それは当たっていると思います。

 同じ性格の相手と一緒にいるのも楽しいかもしれませんけれども、全然違うタイプの相手というのも、新しい発見があって面白い。
 夫婦はジグソーバズルのように、自分の足りない部分を、もしくは相手の足りない部分を、お互い補う関係がベストです。

 性格がぴったりと会う相手というのは、まずいません。
 どんなに似た者同士でも、違う部分は必ず出てくるんです。
 そこで合う、合わないをあまりに気にしてしまうと、合わないところがだんだん嫌になってくる。
 だったら、合うかどうかはもう問題にしないで、合わないところをどう補えるのか、あるいは我慢できるかのかと考えておいたほうがいいというふうに、思うんです。
 「合わないところがあるのに、なんでこんなに好きなんだろう」という気持ちこそが本物なんですから。

 また、恋人同士と夫婦では、ケンカのプロセスが違ってきます。恋人同士だと、連絡が取れなかったことを怒ってね「この日は何をしていたの?」としっこく聞いたりする。
 お互いの目に見えない部分に対して不安を感じて、それが高じると怒りとなって表れるわけです。

 でもそれが結婚すると、怒りの対象は「見えない部分」から「見える部分」に変わってきます。
 きれい好きだと思っていたのに、食べたものの後片付けをもしてくれない。
 結婚したら、自分にお金を使ってくれなくなった。
 髪を切ったのに気付いてくれない。

 そういう不満がどんどんたまっていって、もうこれ以上は受けきれないぞという限界までに達したとき、ある日突然、ドカーンと爆発してしまう。爆発するきっかけは、部屋の隅に落ちている
一足の靴下だったりします。

 結婚すると、そういう怒りの周期が定期的にやってくるものです。所詮、生まれも育ちも違う人間なのだから、合わないところがあって当然と、楽観的に構える。それが夫婦の関係をより良く長続きさせる秘訣ではないでしょうか。

夫婦だからといって、なんでも許されるわけじゃない…

柴門― 親しき中にも礼儀あり、ではないですが、ある程度の緊張感というのも、夫婦間には、なくてはならないことだと思うんです。
 たとえば言葉遣いにしても、夫婦の間でも許されないことというのがあるように思います。
 他の人に対する接し方に比べれば、その基準は少し甘くなるかもしれませんが、それでもある程度のラインというのはある。
 私の場合だと、つい子どもに言うように、夫に言ってしまうところがあって反省しています。
「ダメでしょう、こんなことしちゃあ」
「ほら言ったじゃないか」

 大人の男性に対してこんな言い方をするのは失礼です。個人個人によって、その受け止め方は違うかもしれませんが、相手にしみればカチんとくることもあるようです。
 夫婦というものは、お互いの関係に安心しきってしまうのか、気をつけないと、無意識のうちに、実は相手がムッとするようなことを言ったり、したりしてしまうことがあるんです。

 夫婦だからといって、言いたい放題の関係ではないんですね。それに気づかないでいると、知らず知らずのうちに目に見えない亀裂(きれつ)が入ってしまうことがある。気がついたときには浮気されていたり、結果として、大切なものを失ったということにもなりかねません。

「彼は私が何をしても怒らないの」と言って、それが愛されていることの証明であるかのように振る舞う女性がいますが、相手からすれば、それは怒っていないのではなく、ただ腹に溜めているだけかも知れない、その方がずっと怖いです。

 夫婦間だけに限らず、人間関係はすべてがそうかもしれませんが、何も言われないから許されているわけじゃないことは知っておいたほうがいいかもしれません。

 恋人のときにはお互いによく見られたいと思いもあって、自然に規制ができているんだけれども、結婚しても恋人安心を手に入れた分、いろんなことにだらしなくなって、つい気が緩んでしまうんです。

 なかには、なんでもヅケヅケ言い合って、それでも仲の良い夫婦がいます。また、すごくやさしい夫が、気の強い妻に文句ばっかり言われながら、それでもうまくいつてる夫婦もいます。要は二人にとって、どうであればいいのか。

 結婚するのも大変だけれども、その関係を維持していくことの方が、実はもっと大変なこと。結婚は、結婚してからが、本当の勝負だと言えるかもしれません。

夫婦のときめきは意外な場所で感じるもの

秋元― 結婚しても心のときめく思いを失いたくない女性たちは言いますが、結婚生活にそれを求めるのは不可能です。
 独身の頃と変わらず刺激のある生活を送りたいということかもしれませんが、結婚によって「安定」を手にする以上、それと相反する「刺激」はあきらめなければならないんです。

 たとえば彼とドライブしていて、大渋滞に巻き込まれたとします。そのとき、一緒にいるだけでドキドキする関係というのは、「トイレに行きたい!」と思っても、恥ずかしくて、それが言えない。
 でも、付き合いが長くなると、平気で「トイレに行きたい。トイレ探して!」と言えるようになる。

「トイレに行きたい!」と言える相手の、横顔を見ているだけでドキドキする、というのはあり得ないでしょう?
 結婚した男が妻の着替えを見て、ドキドキすることはありません。そんなことでドキドキしていたら疲れてしまう。
 そうならないから安心して、家でホッとできるわけです。
 だからといって、もう妻には魅力を感じないのかというと、そんなことはありません。

 それは、たとえば妹を見るような目に変わるということかもしれません。
 ふだん家では何とも思わないけれど、街中で見かけたときに、「うちの妹って、結構美人だなあ」と思う。
 逆に妹の場合なら、「うちの兄ちゃん、スーツキルトカッコいいな」とか、仕事のことで相談したときに、「頼りになるな」と思うことがあるでしょう。

 そうした恋慕のようなものは感じるけれど、「セクシー」とは思わない。夫婦もそれと同じになっていくように思うんです。
 何度も言うように、結婚したら、妻と位置づけば、女というより家族のカテゴリーに入ってしまう。

 ドキドキしたり、相手のことを見直したりする機会が、まったくゼロという可能性になってしまうわけではないけれど、それは非日常的で、特殊なときだけ起こるものなんです。

 例えば二人で海外旅行に行って、航空会社がダブルブッキングをしたときに、つたないながらも英語でクレームを入れている夫の姿を見て、「ああ、やっぱり頼りになるわ」と思うかもしれません。
 でも夜中の二時三時に帰ってきて、酔っぱらって玄関で寝ている姿を見て、イライラすることはあっても、ドキドキすることはなくなってしまう。それが日常生活を共にしていく夫婦の、現実だと思うんです。

夫婦間における異性としての賞味期限は十年…

柴門― 結婚しても、恋人のときのような甘い囁きや刺激も欲しい、このまま馴れ合って生活していくのはつまらない――いつまでもドキドキした関係でいたいと思うのが女心なんです。
 でも女の立場からしても、結局は夫も「家族」というところに収まってしまうんです。

 たしかに突発的にカッコいいなと思うときはあります。
 旅先や家庭内で起きた問題を解決してくれた時などは頼もしく、改めて見直したということはありきす。
 でも、其れはたいてい非日常の出来事で、日常ではほとんどない。
 結婚すると相手がドキドキすることも、自分がドキドキすることも、少しずつなくなっていくというのは否定できません。

 けれども、独身の女性たちに安心してほしいのは、結婚した途端にある日突然、ときめきがゼロになってしまうわけではないんです。
 私的に言わせてもらえれば、夫婦間の異性としての賞味期限は、十年くらいはあると思うんですよ。
 ごく稀に、その賞味期限が一生続くカップルだっています。

 でも賞味期限の長さ、イコール、夫婦の仲がすごくいい、というのとはまた違うんですね。夫と一緒にいてドキドキするというのは、結局、今の関係に安心できないから、ということもあるんです。

 つまり、「この人は、他の女性のところへ行ってしまうかもしれない」という気持ちを消すことができずにいる妻はいつも心配で、ドキドキはしています。
 もちろん、それは女性たちが憧れる「ときめきのある毎日」とは違うでしょう。

 女性にとっての「憧れの結婚生活」というのは、いつまでも少年らしさを失わない旦那様が、外ではとてもよくモテるにもかかわらず、他の女性には一切見向きもしないで、まっすぐに妻(自分)の待つ家に帰ってきて、「愛しているよ」と言ってくれる、いつまでもラブラブな世界…・です。

 残念ながら、まっすぐに家に帰ってきて「愛しているよ」なんていう男性は、ほとんどいない。それにプラス、家事も手伝つてくれる男性となったら、もうゼロに近い数値で、絶対にいないと私は断言できます。

愛していると言わないのは、愛していないからじゃない

秋元― 結婚してからも、毎日のように「愛している」と言われ続けたい女性たち。欧米人の夫婦なんかを見ていると、とくにそう思うかもしれません。
「あいしている」と言ってくれるから、欧米の男性はやさしくて、日本の男はそうじゃないと考えるのは問題です。

 欧米の男たちが、妻に向かって「愛している」と言うのは、朝起きて歯を磨くことみたいに、習慣のひとつに組み込まれているからにすぎません。英語には「いただきます」という言葉はありませんから、欧米人してみれば「日本人は、食事のたびにいただきますというなんて偉いよな」と思っているかもしれません。

 日本の男が愛していると言わないのは、それが習慣にないからです。
 そもそも「愛している」という言葉は、“言われたいもの”ではなくて、相手が“言うもの”ですから、本来、それを相手に求めてはいけないんです。
 期待したいのに、言ってもらえないから、こんなはずじゃなかったと腹も立ってくるわけです。
 日本人の男は欧米人の男性のように「愛しているよ、ハニー」とは言わないけれど、夫婦というのは愛し合っているから夫婦なのだという前提がある。

 だからもう、改めて口にする必要もないだろうというふうに思考回路に組み込まれているわけです。
 だいいち、愛していないなら、婚姻届けを出すわけがありません。前でも言いましたが、婚姻届けの判子が、「愛している」という言葉の一万回分なんです。

 さらに言わせてもらえれば、仮に男が浮気したとしても、帰る場所は妻のもとであるわけです。浮気相手とは、目と目を見つめ合っていても、時間が来れば「じゃあ、帰るよ」と言って、背中を向けなくてはいけない。
 籍まで入れて、「妻」といういちばんの座をあげているんだから、これ以上の愛があるのか、これ以上何が欲しいのかっていうのが、男の本音であり、いい訳かもしれません。

それでも、女は愛していると言ってほしい

柴門― 要するに男性にとっての婚姻届けというのは、愛情の、養老年金一括払いみたいなものだということでしょうか。
 でも結婚生活が愛しているという前提の上に成り立っていると言われても、そこに言葉なりのケアがないと、女は夫の愛がどこにあるのか見えなくなってしまうんです。

 結婚生活も長くなると、「愛している」はともかく、「いただきます」も言わなくなるものだから、はっきりした形になった、わかりやすさが欲しい。
 それは男性よりも女性のほうが、言葉を求めてしまう生き物だからなのでしょう。

 いくら「妻」であることが愛情表現だと言われても、自分以外の女性に目と目を見つめ合うという行為自体が、もう「私を愛していない」のです。
 たとえ遊びのつもりであったとしても、夫が自分以外の女性に目を向けたり、浮気をしてしまった時点で、もう私は愛されていないんだ、という失望感に陥ってしまう。

 男性は複数恋愛できる生き物だけれども、多くの女性はそれができない。女性にとって、愛する男性はいつだってたった一人なんです。
 だから男には女性に対する優先順位があるなんて、あいにく広い心は持ち合わせていないんです。

 愛しているなら、愛していると言ってくれる。
 愛しているから、何かやってもらえる。
 女性はそんなふうに考えます。

 女というものは、男とは人生で出会った最高の女と結婚するものだと思い込んでいます。だから「妻」になった人というのは、結構、自分の座に優越感を持っているんです。

 恋愛中の女性が、すぐに「結婚してほしい」と言うのも、これと同じ原理なんです。要するに自分が一番だという“証”が欲しいんです。
 結婚したことですでに愛情示しているんじゃないかと言われても、結婚したんだからこそ、もっと愛していると言ってほしい、私が一番だったらその証拠を見せてほしいと思うんです。

 それがないと、だんだんと「これなら恋人のときのほうがよかった、なんか損したな」という気分になってくる。結婚生活がむなしくて退屈なものに思えてくるんです。

 最近になって、白人の西洋男性と結婚する女性が増えてきたのは、日本男性と結婚生活では発せられない、「アイラブユー」の言葉を求めてのことなのかもしれません。

夫婦は向き合うより、肩を並べる関係がいい

秋元― 愛していると言わない夫。パンツ一丁でうろつく夫。
 結婚すると男は、ことごとく女性の夢を打ち砕いていきます。「こんなことなら結婚したくなかった」というのは、女性の本音かもしれません。
 でも、「結婚なんかしないほうがいいよ」と言う既婚者の中で、離婚している人はいないんです。それは続けているなりの意味があるからでしょう。

 結婚は永遠の恋の約束ではありえません。
 恋いつかは終わって、やがてゆるやかな家族愛に変わってきます。
 年月を重ねていくうちに、夫婦というのはゆっくりと同化していくんです。ドキドキしない関係が、大きな安心を育てていくんです。
 僕は、夫婦は2人座りがいいと思うんです。

 テレビのワイドシーを見ていても、「凄いよね、おかしいよね」と言って笑い合える人が、手を伸ばせばすぐ側にいるからこそ、結婚生活が楽しいわけでしょう。

 喫茶店のように向かい合うのでなく、オープンカフェでお茶を飲むように、肩を並べて同じ方向を向いている。夫婦はそんな位置関係がいいと思うんです。
 向かい合っていたら、相手の欠点をついて探してしまう。
 欠点を探すよりも、許してしまうほうがいい。

 しょうがないなと思うことを、一つ一つ乗り越えていくのが夫婦なんです。
 カッコいいなと思って結婚した彼が新婚旅行先の海外で、ちょっとしたトランジットをやるのにも大騒ぎしたり、ルームサービスが取れなかったりしたら、がっかりすることはあるでしょう。
 そのときに、カッコいいだけじゃない彼のことを、それでも、愛しいと思えるかどうか。そこから「結婚」は始まるんです。
 つづく 第四章 幸福と退屈