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夫とはできない、人を好きになるのは罪ですか?

本表紙 亀山早苗著、2010年四月

結婚生活は、いわば失恋状態といっても過言ではないのかもしれない。 そんな妻たちは、誰もが「婚外恋愛予備軍」


プロローグ
 最初に『不倫の恋で苦しむ男たち』を出版してから、すでに二年半以上がたつ。その出版に先立つこと一年ほど前から取材を始めたから、いわゆる不倫、婚外恋愛をしている人たちに関わって三年半以上。

 既婚・独身を問わず、たくさんの「不倫をしている、したことのある男女」に出会ってきた。その後の経緯を知らせてくれる人も数多い。どんなに多くの人に出会っても、「夫婦とは?」「男女をつなぐものとは?」という疑問は解けないままだが、もちろんそれは明快な答えの出るものではないだろう。

 前作『「妻とはできない」こと』では、男性が妻ではなく、恋愛相手の女性にどんなセックスを求めるか、そしてそこからどんな精神的なつながりを感じているかを中心に書いた。それは多くの男性たちに話を聞いた結果、彼らが外で刺激と新鮮さを求めていると分かったから。そうなると次に気になるのは、「では妻が恋愛する場合、相手の男性に求めているのだろう」ということだ。

男性と同じように刺激的なセックスと、その中にある精神的なつながりなのか。あるいはセックスは二の次で「恋愛をしている」という気持ちなのか、はたまた夫には感じられない「絆」なのか。それ以前に、果たして既婚女性たちはそれほど恋愛しているものなのか。

 不倫、というとやはりいちばん多いのは、既婚男性と独身女性の組み合わせであることには変わりない。ただ、この三年半という短い期間だけを考えても、既婚女性の恋愛情報は、取材始めた当初より多く入ってくるようになった。情報というのは、求めていると入ってくるものではあるが、既婚女性の恋愛については、それだけではないという実感がある。

 明らかに実数として増えているような気がするのだ。もちろん、彼女たちは少数の親友以外には口外していない。だが同時に、「めぐりめぐって夫の耳に入ることさえなければ、誰かに自分の恋を話してみたい」という気持ちも抱えている。だから紹介が紹介を呼んで、数多くの既婚女性たちの恋愛を聞くことができた。

「結婚している女性だって恋に落ちる」
 これは容易に想像がつく。だが、その「恋に落ちる」背景には何があるのか、恋に落ちたとき、彼女たちは何を思うのか、恋愛相手に何を求めているのか。そして夫との関係は変わるのか、恋の結末はどうなるのか。さらには結婚と恋愛を、彼女たちはどう分けているのか。

 一般的に考えれば、「結婚生活、夫に不満があるから恋をするのだろう」と思われがちだろう。果たして本当にそうなのか。まったく家庭に不満のない人がいるのだろうか。自分に家庭があるという制約の中で、果たして、恋はどうやって進展していくのか。いくら男女平等の世の中とはいえ、女性に対してまだまだ世間の目も厳しいだろうし、女性自身の心の中にも従来の倫理観が根強いだろう。そんな中で恋に飛び込んでしまう心理とは、いったいどんなものなのだろうか。

 ほんの二年前、既婚女性で恋愛している人を見つけるのは大変だった。だが、今回は当時よりも容易に、恋愛している既婚女性を見つけることができた。これもまた時代の変化なのだろうか。そのこと自体に驚きつつ、北から南まで、今回も日本のあちこちへ赴き、「妻たちの恋」の物語をたずねて歩いた。

第一章 妻たちが恋に落ちるとき

 心の隙間に恋が忍び込む?
 妻たちはいったい、どんなときに恋に落ちるのだろう。
 携帯電話やパソコンの出会系サイトに妻たちが登録、そこから恋愛が始まったり、ときには援助交際があったり、という話は、もはや聞き飽きた感がある。週刊誌には、人妻の不倫があたかも「流行」で、「誰でも平然としている」かのようにも書かれている。

 そして、その背景として必ず指摘されるのが、「心の隙間」という言葉。家庭生活に不満がある、夫との関係がうまくいっていない。恋に落ちる妻たち、と聞いたとき、誰もがイメージしがちな、そんな背景は、果たして本当なのだろうか。

 妻たちは、「心の隙間」を埋めるために、夫以外の男と恋愛するのだろうか。そうであるなら、婚外恋愛をしない女性たちは、心に隙間がないほどに完全に満たされているのだろうか。そもそも心が完全に満たされている生活など、存在するのだろうか。

 もし、「心の隙間」が原因で恋に落ちるとしても、女性たち本人が感じる「心の隙間」と、一般的に言われる「心の隙間」との意味合いにはギャップがないだろうか。

 そうやって様々なことを考えながらインタビューを進めた結果、気づいたことがある。

 もちろん、恋に落ちる背景には人それぞれだが、女性の場合、大きく分けると三つのパターンに分かれる。
 ひとつは夫との関係が明らかにうまくいっていない場合。
「三人目の子供が生まれてから、なんとなく主人との間がぎくしゃくしてきて。私が子どもにかかりっきりになっていたのが原因かもしれないけど、あまり家庭に協力的でない主人に対して、私も信頼感をなくしてしまったんです。不幸そうな女っていうのは、周りから見てもわかるんでしょうか。私自身は明るく振る舞っていたつもりだけど、あるとき、職場の男性から誘われて、食事に行くようになり、その後、深い関係になったんです。そのとき、彼は、『なんとなく幸せそうにみえなくて、自分が何とかしてあげたいと思った』と言っていました」(四十歳)

 という女性の意見もある。これは、妻たちの恋愛が、自分から仕掛けたものではなく、男性からのアプローチによって始まりやすいためでもあるのだろう。そこはかとなく醸し出される薄幸そうな雰囲気が、男の父性本能、守ってあげたいという意識を刺激するのかもしれない。

 ふたつ目は、気の置けない友達から発展するケース。この場合、夫との関係は特に可もなく不可もないことが多い。結婚しているからこそ、女性は男性と気軽に話ができる。自分自身では、恋愛からすでに降りているという意識があるわけだ。だが、相手の男性からすると、気さくな中にも、自分の妻にはない色香を感じてしまう。女性側も、夫とは違って、彼には「言いたいことが言える」心地よさを覚える。そして、友達から恋人へと関係が変わっていく。

 最後は、夫ととても仲がいいのに、恋に落ちしまうケース。この場合、相手の男性は「夫ととは反対のタイプ」であることが多い。「夫に似ているから」という理由を挙げた女性もいるにはいるが、例外的だ。

 今回、数十人の妻たちに会って話を聞いたが、彼女たちがなぜ恋をしてしまったのかについて、共通する背景はどうしても見いだせなかった。彼女たちの背景は、最終的にはこの三パターンに分かれてしまうのだ。ということは、夫との仲が良くても悪くても、そこそこであっても、どんな妻たちも恋に落ちる可能性はあるということだ。

「でも、もし夫との関係に家族プラス恋人同士の雰囲気があったとしたら、恋には落ちなかったかもしれない。夫を愛してはいても、恋せなくなったから、恋愛が忍び込んで来たとも言えるような気がします。ただ、長年、夫婦をやっているふたりで、まだ恋人同士の感じを残している人たちがどのくらいいるか分からないけど」
 そう言った四十代の女性もいる。

「妻」という立場のプレッシャー

 個人的には、心の隙間のない人間など存在しないと思う。だが、「妻」という立場の女性たちに特有の心の隙間があるとしたら、それは「自分自身の存在意義に対する心の揺れ」かもしれない。家庭的にはなんの不満もない、夫は優しくて家庭にも協力的、子どももかわいい、はたから見れば、絵に描いたような幸せな家庭を営みながら、心の内部に何か燻っているような状態。それは言葉で説明することのできない、「妻」「母」特有の危機感のようだ、彼女たちに欠如しているのは、「女としての実感」なのではないだろうか。それは働いている妻たちより、専業主婦のほうが顕著かもしれない。

 東京近郊に住む、西野理津子(三十八歳)は、結婚して十二年、現在は専業主婦三歳年上の夫は、大手企業に勤めるサラリーマンで、十歳と七歳の息子がいる。家族は健康、四年前に一戸建てのマイホームも手に入れた。理津子さん自身は、家事が大好き。子どもたちのためにクッキーやケーキを作ったり、パン好きの夫とのためにパンを焼いたりする。

 子どもたちが中学生になったら、以前やっていた看護師の仕事を再開することは考えているが、今は今で、毎日の生活はとても充実しているという。「それなのに」彼女は恋に落ちたしまった。

「夫のことは嫌いじゃありません。家庭にも不満はない。子どもたちは、やんちゃだけれど元気に育っている。学生時代の友達からはいつも、『理津子のところはいいわね、なんの問題もなくて』って言われるんです。どこの家庭も何かしら問題をかかえているものでしょう? 例えば家の中はうまくいっていても、そろそろ親の介護の問題も出てくる時期だし。でも、うちは夫婦とも両親がとても元気で、そういう問題もないんです。それなのに私、あるとき、街で知り合った男性と、この二年ほど、関係をもっています」

 家庭生活は、はたから見れば羨ましい状態。だが、理津子さん自身は、恋愛するまでは、「私は幸せなんだから、この状態を満足しなくちゃいけない」と自分に言い聞かせながら暮らしていたという。

「でも、今は心から『私は幸せ』と言える。それは恋愛しているからなんです。変な言い方だけど、これですべて完成した、というか。贅沢な話だというのはわかっている。だけど、恋愛がないときの私は、どこか満たされていなかった。どう言ったらいいのかな、幸せなんだけど、どこかいつも『本当に私の人生、これでいいの?』という気持ちがあったのです。でも今は違う。もちろん、相手にも家庭がありますから、どちらかの配偶者にばれたら大変なことになる。子どもたちを傷つけることにもなりかねない。危険なことをしているんですよね。それでも『好きな人がいる』という充実感があって、ようやく自分が生きているという実感をつかめたような気がするんです」

 理津子さんは話しながら、何度も言葉を探すように考え込んだり、「どう言ったらいいのかな」というセリフを繰り返した。この不況の世の中で、一般的に見たら、人もうらやむような生活を送りながら、それでも恋愛をしてしまう自分の心情を、何とか正確な言葉で説明したい、という真摯な気持ちが伝わってくる。

 何もかも手に入れたい女の欲張りな言い分、と言われてしまえばそれまでだ。ということを彼女は分かっているのだろう。では、彼女が、家庭だけでは完全に満たされていなかったのはなぜだろう。

「妻として、とか、母として、という生き方には、正直言って、ときどき疲れちゃうんですよね。だからといって、すべてを投げ出してしまいたいというわけじゃない。もちろん、子どもと接しているときはとても楽しいんですよ。言うことを利かないからイライラすることもあるけど、家族は何より大事です。でもね、それだけだと、たまに『私って何だろう』と思うことがあって‥‥。子どもたちが小さいころはそうでもなかったけど、下の子が少しずつ手が離れるようになってから、心に穴が開いたような気分を覚える事がありました」

 子どもというのは、全面的に母親を頼りにする。母親が少しでも気を抜いたら、乳のみ子は命を継続できなくなってしまう。その状態がすぎ、離乳食から普通食になり、食事の回数も大人と同じようになっていき、幼稚園に行って友だちができるようになり、という過程を経る中で、母親は少しずつ手がかからなくなる安堵と、その半面の一抹の寂しさを味わうものかもしれません。

 「私ってなんだろう」と考えるとき

 だから子どもにかけていた時間や手間が少なくなったときも母親はふと心に穴が開いたような気持ちに襲われるのだろう。今まで自分の全てを子どもに向けていた分、今度は自分自身が夫との関係に目がいく余裕ができる。そのとき、心の底から誰かが問いかけてくるのだ。「私って何だろう」と。

 働いているにしろないにしろ、女性は結婚すると夢中で「妻」になろうと努力する。そして、子どもができれば今度は「母」としての時間を懸命に生きる。その役割に全力投球すればするほど、あとの反動も大きいのではないだろうか。

 そんなとき、誰かと知り合う。夫とは「家族」であっても、もはや、ときめきあう相手ではないとわかっている。だが、知り合った男性は、自分をまるごと「女」として扱ってくれる。心の底で疼(うず)いていた、女としての意識が目を覚ます。理津子さんの場合もそうだった。

「二年くらい前から、本格的にお菓子やケーキ作りを習ったんです。私、結婚して上の子が生まれてもずっと働いていたんですけど、下の子は病弱で働き続けることができなかったから、泣く泣く退職したという経緯があって。下が三歳くらいまでは、本当にこの子が無事に大きくなるのかしら、というくらい虚弱だったんです。でも幼稚園に入ってから、だんだん丈夫になってきたので、私も外に出られるようになりました。

相手は、そのお菓子作りの学校に通う道で知り合った人です。学校の前にある会社に勤めている普通のサラリーマンで、時間的な関係で、なぜかよく会っていたみたい。あるとき、声をかけられたんです。『よく会いますね』って。でも正直言って、私は気づいていなかった。一瞬、警戒したんですが、相手を見るとなんとなく清潔感のある人だった。しかも、『この学校に通っているんですか。いいなあ、どんなお菓子を作っているんですか』と言ったときの顔が、とても無邪気でいい感じだったんです。それで心を許しちゃったんですよね」

“出会い”の瞬間は、案外あっけないものかもしれない。ただ、「清潔感のある人」で「無邪気な笑顔」は彼女の心に柔らかく入り込んできたようだ。

 理津子さんは、その男性がお菓子をほほばっている姿を想像してくすっと笑ってしまった。彼はいかついタイプで、甘いものを食べるようには見えなかったから。ところが実は、彼はお酒が飲めない、いわゆる下戸で、甘いものが大好きなのにだという。

 何度か顔を合わせて、立ち話をしているうちに、

「じゃあ、今度、学校で習ったものを復習して作ってあげましょうか」
 と理津子さんは言った。彼はうれしそうに頷いたという。

 あるとき、学校の帰りに、彼とお茶を飲んだ。彼は営業職だから多少時間の自由が効くらしい。家で作ってきたクッキーを渡し、よもやま話をする。彼は理津子さんより五歳年上、学生時代はラグビーをやっていた。結婚していて中学生の息子がいるという。

 何度かお茶を飲み、ごくたまに、学校以外の日にもランチをともにする関係が続いた。彼は理津子さんの作るお菓子を、本気でほめてくれた。夫はパンは好きだが、甘いものはほとんど食べない。理津子さんの心の中に、彼の褒め言葉が、甘いお菓子のように心地よくしみこんでいった。

 出会って三ヶ月ほどたったとき、夫が早く帰れそうな日に子どもを頼み、彼と初めて夜、食事を共にした。夫には「お菓子学校の友だちや先生との食事会」と?をついた。結婚してから初めての嘘だった。そこに葛藤はなかったのだろうか。

「その時点では、食事に行くだけ、と思っていたから」
 だが、理津子さんも、そのときはすでに、彼に心ときめいていた。ひょっとしたら、その食事が男女としての関係を決定づけるものになるという可能性は感じていなはずはない。そう突っ込んでみると、理津子さんは苦笑しながらも、当時の気持ちを丹念に振り返ってくれた。

「彼が私に好意を抱いてくれた、というのは分かっていたし、それはとても嬉しかったんです。だけど、正直言って、恋愛というものから十年くらい遠ざかっているわけです。だから、女としての自信もないし、恋愛に必要なカンもまったく働かない。『ひょっとしたら』という気持ちがないわけではなかったと思う。ただ、自分に女として自信がないのと、『お互い結婚しているから、恋愛なんて起こらない』という思い込みがあって、デートという感覚より、『ただの友だちとしてのお付き合い』というふうに思っていましたね」

 確かに「恋愛のカン」というものはあるのかもしれない。遠ざかっているカンは鈍る、という彼女の言葉には説得力がある。

 彼との食事はとても楽しかったと、理津子さんは言う。まるで独身時代に戻ったように、彼女は夢中で自分のことを話した。相手も熱心に耳を傾けてくれ、自分の趣味についてもいろいろ話してくれた。

「そのとき思ったのです。男の人とこんなに夢中に個人的な話をしたのは何年ぶりだろうって。夫とも話はするけれど、子どものことやその日の予定、といったような話ばかり。お互い何を考えているか、何かについてどう思っているか、なんていうことは何年も話したことがない。食事が終わって店を出るとき、充実感が胸にあふれてきました。同時に、もっと話したい、もっと一緒にいたいという気持ちになったんです」

 相手ともっと一緒に居たい、とつぶやいた。それでも理津子さんは、自分を押しとどめるようにして、その日はそのまま帰宅した。だが、数日後、お菓子学校の近くでまた彼の顔を見たとき、心臓のありかがしっかりわかるほど、ときめいた。まるで心臓が口から飛び出しそうだと感じた。

「私はこの人が好きかもしれない」

 「じゃあ、今度、学校で習ったものを復習して作ってあげましょうか」
 と理津子さんは言った。彼はうれしそうに頷いたという。

 あるとき、学校の帰りに、彼とお茶を飲んだ。彼は営業職だから多少時間の自由が効くらしい。家で作ってきたクッキーを渡し、よもやま話をする。彼は理津子さんより五歳年上、学生時代はラグビーをやっていた。結婚していて中学生の息子がいるという。

 何度かお茶を飲み、ごくたまに、学校以外の日にもランチをともにする関係が続いた。彼は理津子さんの作るお菓子を、本気でほめてくれた。夫はパンは好きだが、甘いものはほとんど食べない。理津子さんの心の中に、彼の褒め言葉が、甘いお菓子のように心地よくしみこんでいった。

 出会って三ヶ月ほどたったとき、夫が早く帰れそうな日に子どもを頼み、彼と初めて夜、食事を共にした。夫には「お菓子学校の友だちや先生との食事会」と?をついた。結婚してから初めての嘘だった。そこに葛藤はなかったのだろうか。

「その時点では、食事に行くだけ、と思っていたから」
 だが、理津子さんも、そのときはすでに、彼に心ときめいていた。ひょっとしたら、その食事が男女としての関係を決定づけるものになるという可能性は感じていなはずはない。そう突っ込んでみると、理津子さんは苦笑しながらも、当時の気持ちを丹念に振り返ってくれた。

「彼が私に好意を抱いてくれた、というのは分かっていたし、それはとても嬉しかったんです。だけど、正直言って、恋愛というものから十年くらい遠ざかっているわけです。だから、女としての自信もないし、恋愛に必要なカンもまったく働かない。『ひょっとしたら』という気持ちがないわけではなかったと思う。ただ、自分に女として自信がないのと、『お互い結婚しているから、恋愛なんて起こらない』という思い込みがあって、デートという感覚より、『ただの友だちとしてのお付き合い』というふうに思っていましたね」

 確かに「恋愛のカン」というものはあるのかもしれない。遠ざかっているカンは鈍る、という彼女の言葉には説得力がある。

 彼との食事はとても楽しかったと、理津子さんは言う。まるで独身時代に戻ったように、彼女は夢中で自分のことを話した。相手も熱心に耳を傾けてくれ、自分の趣味についてもいろいろ話してくれた。

「そのとき思ったのです。男の人とこんなに夢中に個人的な話をしたのは何年ぶりだろうって。夫とも話はするけれど、子どものことやその日の予定、といったような話ばかり。お互い何を考えているか、何かについてどう思っているか、なんていうことは何年も話したことがない。食事が終わって店を出るとき、充実感が胸にあふれてきました。同時に、もっと話したい、もっと一緒にいたいという気持ちになったんです」

 相手ともっと一緒に居たい、とつぶやいた。それでも理津子さんは、自分を押しとどめるようにして、その日はそのまま帰宅した。だが、数日後、お菓子学校の近くでまた彼の顔を見たとき、心臓のありかがしっかりわかるほど、ときめいた。まるで心臓が口から飛び出しそうだと感じた。

「私はこの人が好きかもしれない」

という思いが胸をよぎった。同時に、その気持ちを認めてしまったら、後戻りはできないという危機感も頭をもたげてくる。

「独身じゃないから、簡単に『好きになった』ではすまされない。でも自分の気持ちを見るまいとすればするほど、かえって『好き』という気持ちは強くなる。いっそのこと認めてしまえば、案外、思い違いだったというふうになるかな、とも思ったり。かなり葛藤がありました」

 彼からはさりげなくまた食事の誘いがくる。だが、彼女は簡単には誘いにのれなかった。自分が深みにはまりそうで怖かったのだ。

 最初の食事から一カ月半、彼女はようやく彼の誘いを受けた。

「好きだ、という思いはあったけど、それでもまだ、『彼とならいい友だちになれそう』という気持ちなんだと自分に言い聞かせていました。あくまでも、自分自身の恋愛感情は否定し続けていたんです。でも二度目の食事で、もう観念しましたけど」

 帰りに彼にホテルに誘われたとき、断ることはできなかった。憎からず思っている相手に熱烈に口説かれれば、女は文字通りすべてを脱ぎ捨てて、ただの女になってしまうものなのかもしれない。

「夫とのセックスとは全く違っていました。私は夫がふたり目の人なんです。最初の男性とは数回しか経験がないから、ほとんど夫しか知らないような状態。夫は淡泊な人で、セックスもあっさりしている。だから私自身、あまりセックスが好きではなかったんです。でも彼はといも丹念に体中を愛撫してくれて。それだけで幸せでした。身も心も溶けていく感じというのを初めて味わったような気がします」

 それから二年間、理津子さんは密かに月に一度ほど彼との逢瀬を続けている。「今の状態がなるべく長く続くように」と願いながら。

 夫との仲もなんの変化もない。家族は家族として大事にしていこうと考えている。
 家庭と趣味と恋愛。さらに、いつかは再開することを決めている仕事、その四つがあって初めて「自分自身が完成されるような気がする」という彼女の言葉に、現代を生きる女性すべてに共通する、ある種の強迫観念に近いような女性の理想像があるような気がしてならない。

「私の場合、おそらく仕事を再開することは可能だと思うので、周りの専業主婦の友だちに比べて、仕事に対する焦りはないんです。今は、子どもとの時間を減らしたくないから、まだ仕事を始めたくないという私自身の気持ちもある。だから、今の状態でできることの中では、私は最高の毎日を過ごしていると思います。もちろん、辛いんですよ。彼にもっと会いたい、もっと話をしたい、と駆け出してしまいそうな自分もいる。でも、今の状態を続けていくのも、すべてを壊すのも私次第だと、いつも自分に言っています」

 ときには「ただの女でいたい」という欲求。それを満たすには恋愛がいちばんだ。いや、むしろ逆で、恋愛が忍び込んできたとき、女性は、「私も女だったんだ」と、自分の中の「女」に目覚めてしまうのかもしれない。

 雑誌では、結婚していても「素敵な女性でいること」が理想として語られている。かたや、今の四十代、五十代は若い。「いつまでもきれいでいること」に、強い執着を抱いている女性も多い。さらには、独身時代、「恋愛しなくちゃ女じゃない」という気持ちを擦り込まれている。それらすべてが複雑に入り込んで、「結婚しても恋愛すること」に、それほどの抵抗感はないのではないだろうか。たとえ多くの葛藤があったとしても。

 出会いから深い関係へ

 既婚女性が恋愛相手に出会うのは、どこが多いのか。統計があるわけではないから、断定はできないものの、印象としては携帯電話やパソコンのネットワークによる、いわゆる出会い系サイトや趣味を通じてのサイト、もしくは身近な場所でというのが目につく。

 身近な場所というのは、職場、子どもがらみ、あるいは習い事の場など。
「子どもが地元の野球チームに入っていて、応援にいっているうちに、コーチと親しなり、関係を持ってしまった」(三十九歳)

「仕事で知り合った取引先の男性と恋愛していました。お互い家庭があったけど、彼が転勤になるまで二年ほどのつきあった。今でもいい思い出です」(四十三歳)

「タップダンスの個人レッスンを受けるようになったんですが、その先生と恋に落ちました。いけないとわかっているけど、好きだという気持ちは止められないんです」(三十九歳)

 子どもがある程度成長すると、妻たちには多少なりとも時間ができる。時間ができれば再び仕事に出るなり、趣味の習い事をするなり、とにかく外に出る機会が増える。そうなれば出会いのチャンスも多くなっていく。今は優れた電化製品のおかげで家事にかかる時間も大幅に短縮できるから、専業主婦であっても、かつての女性たちとは、時間の使い方も価値観も違う。

 少なくとも結婚前には働いてる女性が大半だというせいもあって、「外に出る」ことは当たり前になっている。

 結婚したら家庭にこもって家族のためだけに一生を終えるような女性は、もはや存在しない。女も自分の人生を確立するのが当然の時代なのだ。出会いの機会も、数十年前の主婦とは雲泥の差があるのだろう。

ネットでの出会い

 中でも、現代ならではというのが、やはり出会い系を初めとするネットでの出会いだ。別に恋を求めているわけではない。最初は、好奇心から書き込む人が大多数だ。
「一年ほど前、主人と大ゲンカしたんですよ。なんだか虚しくなってしまって、友だちにグチったんです。そうしたら、友だちにが『ここにアクセスしてみたら?けっこう男友達が見つかるわよ』と、ある出会い系サイトを教えてくれました。

興味半分でアクセスし、『夫と大ゲンカしました。グチりたい気分です』って書いたら、『いくらでも聞きますよ』というメールが一日で五十通くらいきました。その中で、気の合いそうな人を選んでメールのやりとりが始まり、最終的にある一人の人とウマが合って‥‥。彼とはメールのやりとりが三ヶ月、電話のやりとりが一ヶ月くらいあって、それから会おうといことになったんです」

 そう話してくれたのは、東北地方に住む西村かずえさん(四十二歳)。お互いにメールで写真を交換もしていたので、会ってイメージが崩れることもないとわかっていたというが、そうやって異性と会うことに抵抗はなかったのだろうか。

「その時点では、私の中では彼はあくまでも友だち。私たちの世代では、異性の友だちのひとりやふたり、いてもどうってことはないという感覚があるのでしょう? 私も働いているから、職場の同僚などで男友達はいますけど、なかなか新しい出会いはないんですよね。だから、その彼にも、会う自体にはそう抵抗はありませんでした」

 恋愛したい、という潜在的な願望はなかったのだろうか。そう問うと、かずえさんはしばし考え込んでからようやく口を開いた。

「結婚して十七年、上の息子は東京の高校に進学したんです。親戚の家に下宿しながら。下の息子は一緒に暮らしていますが、この子はサッカーに夢中で、話し相手にもならない。夫とは可もなく不可もなくって感じ。大ゲンカしたのは、下の子が東京に進学させるかどうかというのが原因だったんです。結局、主人とは子どものことぐらいしか共通の話題がない。恋愛願望があったかと言われれば、あったような気がするし、なかったような気もするし。ただ、日常生活に変化を求めているのかもしれない。それが恋愛である必要はなかったと思うけど‥‥」

 かずえさんはそう言うが、本当に「ただの男友達」という存在だけで、満足できるのだろうか。

 身も蓋もない言い方をしてしまえば、私は「それが恋愛である必要があった」のだと思う。女性たちはみんな、なかなか認めようとしないが、そして認めたくない気持ちはわかるが、「恋愛」が女性にもたらす効用はとても大きいものだと、もっと素直に認めてもいいのではないだろうか。

 誰もが認めてもらいたい
 誤解を恐れずに言えば、「好きな相手に身も心も認めてもらう」ことは、ある意味で、生き直すような気持ちになれるものだ。

 誰もが自分の心の深い部分で考えていることや、過去のトラブルなどを、誰かに知ってもらいたい。いいところも悪いところも含めて、誰かに全面的に認めてもらいたいと思っている。それは人間としての根源的な欲求だろう。男性たちはどこかでその欲求をあきらめていくが、女性たちはいつまでもその欲求を持ち続けているような気がする。

「私って何だろう」という問いには、「僕の大事な人」と言ってもらうのが、いちばんの答えなのではないだろうか。夫にそれを問えない、そして夫の言動からも「家族として大事な人」ではなく、「女として大事な存在」なのだ。女性たちが無意識うちにも「出会い」を求めてしまうのは、そのあたりにも多少なりとも原因があるのではないだろうか。

 ともあれ、かずえさんはそうやって出会い系で「男友だち」を求め、メールと電話のやりとりを経て会うことになった。そして、まずお茶を、次のデートでは食事をと段階を踏み、三度目のデートで、ついに関係を結んでしまう。

「最初に会ったときに関係を迫られたら、たぶん、もう彼とは会っていなかったと思うんです。でも、会うようになってからも、彼とは毎日のようにメールのやりとりを続け、お互いの状況もだんだん深く把握しあっていった。だからこそ、三回目に会ったときにごく自然に深い関係になったんだと思います」

 出会い系で会ったことについても、彼女はなんら抵抗感がないという。
 今の日本では、五十代以上と四十代以下との間に大きな世代間ギャップがあると聞いたことがある。おそらく、五十代以上だと出会い系で出会うこと自体に大きな抵抗感があるのだろう。だが、四十代以下の大半の人たちは、「出会いがどこであれ、それはその後のつきあいにたいした影響を及ぼさない」と感じているのではないだろうか。むしろ、出会いの場は増えた方がいい、と。

 ネットでの出会いから事件になるケースも多いが、既婚女性たちの多くは、かずえさんのように、まずはメールのやりとりをするそれから電話で話すところに発展、それを経てようやく実際に会うことになる。時間をかけて、相手をじっくり観察する人が多いのだ。その過程で妙に焦って会うことを要求してくるような男性とは、あっさりと縁を切る。それだけ慎重を期しているといえるだろう。

「ネットで出会ってひょいと会うような軽はずみなことはしません。相手がどんな人か、それを見定めないと大変なことになるから」
 と話してくれた女性もいる。

 だが、もちろん、出会い系で出会った人と嫌な思いをした、という女性もいる。
「十歳年下の二十五歳の男性と知り合ったのです。私は年齢も正直に伝えたけど、彼は、『年齢なんて関係ない。あなたが素敵な女性だ』って‥‥。メールでも電話でも、とっても感じのいい人だったから、会うっても大丈夫と判断したんですよね。それなのに、あって食事をしたら、帰り際に、『あ、財布を忘れてきた』って。

 しかたないから払いましたよ。挙句に、『これから仕事でちょっと遠くに行かなくちゃいけないんです。次に会ったとき、必ず返すから』と言われて、一万円を貸したんです。でも翌日電話、電話したら、『この電話は使われておりません』って。携帯電話の番号とメールアドレスしか知らなかったから、どうしようもなくて。まあ、たいした損害じゃなかったけど、すごく傷つきましたね、精神的に」(三十六歳)

 その程度ですんでよかった、と結果的には言えるだろうが、やはり彼女にとっては大きな屈辱だろう。出会い系に限らず、知らない人と出会うということは、大なり小なり危険が付きまとうものだ。しかも、こういう物騒な時代だからこそ、細心の注意を払う必要がある。

つづく 女性たちの意識の変化

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