1937(昭和12)年の日中戦争勃発後、東宝映画文化映画部が制作した記録映画で、旧日本軍が南京に入城した翌日の同年12月14日から38年1月4日にかけて撮影された。中国が主張する「大虐殺が最も激しかった時期」と重なるが、虐殺のシーンはまったく登場しない。

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ユネスコ記憶遺産 中国の嘘で相手を告発する悪習

 虐殺なき「証拠映画」

「日本軍が武功を誇示するために現地で撮影した屠城電影(虐殺映画)」 中国の申請で国連教育科学文化機関(ユネスコ)記憶遺産に登録されたという「(元陸軍中将)谷寿夫に対する南京軍事法廷の判決」にある記述だ。
「南京大虐殺の証拠」と位置づけられているこの映画は、タイトルこそ書かれていないが、立命館大名誉教授の北村稔は、裁判記録や当時の中国の新聞記事から「『戦線後方記録映画―南京』だとしか考えられない」と語る。

 映画「南京」は、1937(昭和12)年の日中戦争勃発後、東宝映画文化映画部が制作した記録映画で、旧日本軍が南京に入城した翌日の同年12月14日から38年1月4日にかけて撮影された。
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中国が主張する「大虐殺が最も激しかった時期」と重なるが、虐殺のシーンはまったく登場しない。
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陸軍第6師団(熊本)を率いた谷は1937年12月の南京攻略戦で中国側に恐れられていたが「世界を震撼させる大虐殺を引き起こした」として死刑判決を受け、47年4月、南京の刑場で公開の銃殺刑に処された。
 裁判は中国人の裁判官、検察官、弁護士らで構成され、谷の反論や元部下らを証人として求めた訴えは一顧だにされなかった。一方で中国人の「被害」証言は無批判に受け入れられた。

 5万7418人の「虐殺被害者」を見たとする魯甦という人物の「証言」証拠採用され、それらに基づき「虐殺の総数は30万人以上に達する」と認定した。
「南京陥落時の混乱はあったにせよ、映画『南京』の記録映像は、中国が主張する『6週間にわたる30万人の虐殺』などなかったことを物語っている。
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 嘘で相手を告発する悪習
 こう指摘する北村は、中国特有のある「文化的伝統」の存在に注目する。
 「中国にはウソで相手を告発する誣告(ぶこく)の伝統があり、文化大革命期にも誣告(ぶこく)による冤罪(えんざい)で、多くの人が殺された。『30万人』という数も、誣告の集積として形成された『虚構』とみるべきだ」
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 谷の裁判では、「南京大虐殺資料」の一つ「南京市民の羅瑾が、死の危険を冒して保存した16枚の写真」も「第一級の証拠」として採用された。
 見物人が取り巻く中、ひざまずく男性の首を兵士が刀で切り落とそうとする数カットが確認できる。だがいずれも撮影日時や場所、撮影者は不明。南京戦は12月だったのに、写っている人物が半袖姿であるなど、不自然な点も多い。
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 16枚の多くと同じ場所で撮影されたとみられる写真は、中国国民党のプロバガンダにも使用されていた。米国公文書館が保管する米陸軍省参謀本部の通信記録の中で、在北京米国大使館軍武官のジョセフ・スティルウェイルが報告書に添付した写真だ。20枚の中に、兵士がひざまずく男性の隣で刀を持つ写真がある。
 20枚はオーストラリア人ジャーナリストのファーマーのもう一つの「顔」は、中国国民党の対外宣伝機関、国際宣伝処に雇われたエージェント。米国に日本軍の「残虐性」をアピールする狙いがあったとみられる。
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 国民政府のトップ、蒋介石(下左)の肝いりでできた国際宣伝処は、国際社会の中国支持を獲得するため、各地で反日プロバガンダを展開した。その一つがやらせ写真などを使った宣伝だった。

 20枚も、撮影の日時や地点、撮影者はすべて不明。ファーマーは、写真に添えた手紙で「同封した写真はすべて日本人のところから来たものだ」と記した。

「いつ、どこで、誰が撮影した不明な写真は『南京虐殺』の証拠とはいえない。だが、『日本軍人が撮影した写真を入手した』とする説明は、出所不明の写真の信頼性を高める」
 国際宣伝処の活動実態を研究し、記録を見つけた日本大人文科学研究所の研究員、中田崇は写真の“威力”をこう分析し。
「16枚の写真もプロバガンダ用だったとみてよい」と指摘する。
 国民党と共産党の違いこそあれ、信憑性を欠く「虐殺」写真の記憶遺産登録は「戦時プロバガンダを史実として固定化する試み」(中田)に他ならない。
 記憶遺産にまで登録された「南京大虐殺」を認定した東京裁判は来年、開廷から70年を迎える。記憶遺産の資料とともに、裁判を改めて検証する必要がある。
 この連載は太田明広、河崎真澄、田中一世、原川貴郎、矢板明夫が担当しました。2015/12/17日

 「南京大虐殺」記憶遺産へ

 中国の一方的主張「お墨付き」と誤解
 国連教育科学機関(ユネスコ)の記憶遺産に9日、中国が申請した日中戦争時の「南京大虐殺文書」が登録される見通しとなった。学校関係者は「ユネスコのお墨付きを得たとして、中国側の一方的な主張が一部教師によって広められる可能性がある」と懸念する。一方、登録審査のあり方を巡っては、ユネスコ側にプロセスの透明性を高めるよう求める声も上がっている。
 南京大虐殺の大嘘は私の当欄へ下部に詳細に資料の数々を列記してあり参照してその大嘘が真か否かどうかを「あなたが」判断してくだい。

 日本、ユネスコ拠出金凍結も
 中国が申請していた「南京大虐殺文書」が記憶遺産に登録される見通しになったことについて、日本政府筋は「断固たる措置を取る」と述べ、ユネスコの分担金拠出などの一時凍結を検討する構えを見せている。
 平成26(2014)年度のユネスコ予算の日本の分担金は米国の22%に次ぐ10.83%で、金額は約37億1800万円。米国が支払いを停止しているため、事実上のトップだ。分担金以外でも、さまざまな事業への任意拠出金があり、同年度のユネスコ関係予算は計約54億3270万円に上がる。

 外務省首脳は「日本の分担金はトップクラス。(ユネスコ側が)日本からの申し入れに真剣に耳を傾けることに期待したい」として、中国の申請案件の登録が認められた場合は拠出金の凍結もあり得るとのシグナルを送り、慎重な審査を求めていた。

 一方、中国の分担率は6位の5.14%で日本のほぼ半分。任意拠出金も日本より少ない。しかし、関係者によると、中国は、記憶遺産の周知を図る名目で関係者を中国に招待するなどしているという。記憶遺産事業だけでなく、アフリカでの女子教育などにも中国は積極的に支援を行っており、「さまざまな形でボコバ事務局長の思いに応えている」との指摘もある。

 中国の登録申請を受け、“防戦”に回った日本も傍観していたわけじゃない。「審査を行う国際諮問委員会メンバーに対し、ユネスコ加盟国は働きかけられない」(日本外務省筋)ことから政府はその動きをつまびらかにしていない。しかし、「政府は委員会に日本の主張を伝えてきた」(与党議員)という。民間団体もパリのユネスコ事務局を訪問し、英文の反論文を提出している。

 記憶遺産は、人類にとって歴史的価値ある貴重な文書の保護などを目的とする。中国が日本を貶(おとし)めるために利用する「南京大虐殺文書」の登録が本来の目的にそぐわないことは明らかだ。政府関係者は「今回の申請も受理も理解できない」と述べ、記憶遺産事業の見直しもユネスコに働くべきだと強調した。
 015年10月10日 産経新聞

中国歴史戦                    

「南京事件」権力闘争に利用」中露「蜜月」戦術に迷わされるな。
1937年にあったとされる「南京事件」の発生から77年目あたった2014年。節目の年でもなければ、日本政府要人が「南京事件」を否定するような発言をしたわけでもない。にもかかわらず中国当局は突然、「南京事件」をアピールし始めた。

この年の3月、国家主席・習近平が訪問先のドイツで「南京大虐殺の死者は30万人」と発言した。6月には中国政府が南京事件に関する資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産に登録申請した。そして12月、国を挙げての国家追悼式典を行われた。「これまで一度もやらなかったことをなぜ今やるのか」追悼式典を疑問視する中国人も少なくなかった。

独立系シンクタンクに所属する日本問題の研究者は次のように説明する。「中国当局が歴史問題をアピールし、日本批判を強めるときは、ほとんど国内の政治状況が不安定な時だ。日本に対する態度は共産党内の『保守派』と『改革派』を見分ける重要な指針だ。日本批判は両派の主導権争い使われることが多い」
「友好」と「批判」
1972年の日中国交正常化以降、中国当局の対日政策は共産党内の勢力変化に伴って「友好」と「批判」で揺れ動くとされる。
それに合わせて、南京問題を研究する学者らも「メディアに引っ張りだこ」になったり、冷や飯を食わされたりしている。

2014年は共産党内で権力闘争が激しい一年だった。大物政治家の前中央軍事委員会副主席・徐才厚と、前政治局常務委員・周永康が相次いで失脚した。国家追悼日の記念式典が行われた約1週間後には前国家主席・胡錦濤の側近、党中央統一戦線部長の令計画の失脚が発表された。

日本との関係を重視していた胡錦濤と比べて、保守派と軍を支持基盤とする習派は、日本に対する態度が厳しいといわれる。習派は南京問題をアピールすることで、国民の反日感情を煽り、胡派との権力闘争を有利に進めようとしている可能性がある。中国では年々、「南京事件」の犠牲者を追悼する行事の規模が大きくなっている。全国の小中学生に対し愛国主義教育の一環として「南京大虐殺」を教えることも義務付けている。しかし、発生から40年以上もの間、「南京事件」は中国ではほとんど話題にならなかった。

1980年代半まで、江蘇省の小中学生たちは日本の「お盆」にあたる春の清明節に、国民党との内戦で死亡した共産党員らを祭る「烈士霊園」を訪れていたという。「南京大虐殺記念館」が建設されるきっかけとなったのは82年に共産党中央が全国各省市に出した「日本の中国侵略の記念館を建設せよ」との通達だった。

最高権力者・鄧小平による指示だったという。表向きには日本国内で満州国に関する記念碑が建てられたことへの対抗措置といわれるが、上海で建設されていた宝山製鉄所の建設をめぐって生じたトラブルが大きな原因だと指摘されている。宝山製鉄所は中国の国家プロジェクトとして、新日本製鉄の協力の下。78年に着工した。このプロジェクトは山崎豊子の長編小説『大地の子』の舞台になるなど日中協力の象徴的存在だった。

トラブルの背景には、共産党内の権力構造の変化があったとされる。共産党の内部事情に詳しい中国人学者によると、70年代末に当時の最高指導者・華国鋒主導による重工業を中心とした近代化路線が進められ、新日鉄や三菱重工などの日本企業に対し高額なプラントが多数発注された。だが、中国の外貨準備不足もあって度々代金の支払いに問題が生じた。その後、鄧小平が権力中枢に返り咲くと、華国鋒の経済路線を「洋躍進」(外国崇拝の盲進主義)と否定し、農業と軽工業を重視する経済政策に切り替えた。それに伴い、建設中だった宝山製鉄所プロジェクトの延期をきめ、日本企業に対して契約中止を一方的に通告した。

日本企業が中国側に多額な損害賠償を求めていることを知った鄧小平は「日本人は経済動物だ」と激怒したという。「鄧にしてみれば、中国が対日戦争賠償を放棄したのに、このぐらいのことで日本から賠償を求められたのは心外だったようだ」と中国人学者は分析する。

ちょうどその頃、鄧がこれまでほとんど口にしなかった「歴史問題」を言い出すようになった。日本メディアが「教科書検定問題」を大きく報じたことを受け、鄧は「全国で抗日記念館をつくれ」との指示を出した。中国国内で日本批判キャンペーンを展開することで華国鋒路線を否定し、契約を一方的にキャンセルした自身の行為を正当化する狙いがあったとみられる。

「国内の都合で批判」
日本との歴史問題が中国共産党内で政争の具として利用された例はほかにもある。昭和60(1985)年、首相・中曽根康弘が靖国神社を参拝したことに中国が反発し、日中関係が悪化したが、日本批判を主導したのは共産党内の保守派で、日本との関係を重視する総書記・胡耀邦を追い落とすことが本当の狙いだったといわれる。「(胡の)失脚を避けるために翌年の参拝を控えた」と中曽根がのち回願したが、その配慮は奏功することなく、胡は1987年に失脚した。

2005年春には、「日本の国連安保理事会入り反対する」との理由で、中国で全国規模の反日デモが発生した。共産党関係者によれば、そのときは江沢民が軍事委員会首席のポストを胡錦濤に渡した直後で、政局は不安定だった。

中国国内の政権が安定したときは、日本国内の動きに対して比較的冷静に対応する。平成8(1996)年、首相・橋本龍太郎が靖国神社を参拝したときや、平成14(2002)年に日本政府が尖閣諸島(沖縄県石垣市)の民有地を借り上げたときなど、中国は厳しい反応を見せなかった。

中国が歴史問題を振りかざして日本を批判するときはほとんどの場合、中国の国内の都合によるものだ。習政権による反腐敗キャンペーンに伴い党内抗争が熾烈さを増す中で、今年は前後70周年にあたるため、日本への「歴史戦」は沈静化するどころかさらに激化しそうだ。         産経新聞

歴史戦第10部 南京事件・世界に広めた豪記者
中国国民党の党史館に所蔵されている「秘密」史料で、国際宣伝処英国支部による工作の「責任者」としての活動の詳細が判明したハロルド・ティンパリー。史料によると、国民党側は英国人を「保守的」と分析したうえで、「個人の接触を重視」する方針を打ち出し、ティンパリーに英国政府要人らと面会するように指示した。ティンパリーいつの時点で国民党のエージェントになったのか。米コーネル大図書館の史料からは、ティンパリーが日中戦争初期の段階から、宣伝工作に関与していた実態が浮かぶ。

史料は1930~40年代にかけて、米情報将校や武官として上海や重慶に駐在したジェームズ・M・マクヒューがまとめた。  国民政府が37年11月に漢口(胡北省)に移転する前、ティンパリーは、中国・国民政府のトップである蒋介石夫妻の私的顧問だった同じオーストラリア人ジャーナリストのウィリアム・ヘンリー・ドナルドから宣伝工作に参加するように勧誘された。

いったんは断ったが、国民政府側の元財政部長、宋子文から月額千ドルを受け取ることで合意した。国際宣伝処長だった曽虚白は、自伝で次のように記している。
「われわれは漢口で秘密裏にティンパリーと長時間協議し国際宣伝処の初期の海外宣伝計画を決定下」「目下の国際宣伝では中国人は絶対顔を出すべきでなく、国際友人を探して代弁者になってもらわなければならないと決めた」

信憑性疑問視
ティンパリーは38年6月、『戦争とは何か』を英国で出版した。
他に確認された史料は「中央宣伝部半年中心工作計画」39年3~8月の党中央宣伝部の活動方針に記したもので、「秘密」の押し印がある。宣伝部の下部組織、国際宣伝処英国支部(ロンドン)の責任者のトップのティンパリーを含む欧米人3人、中国人2人の計5人で工作者は「四十余人」。
工作目的は、英政府と議会に対中借款の継続や抗日戦争の支援を働きかけることや、英植民地に日本製品不買運動を広げるとしている。史料はティンパリーの工作内容に関して①英国政府要人と国会議員に面会し、「わが抗戦、建国の真意を伝える」②5月に英国各地で講演③6月に訪米し講演④専門書一冊を執筆…などと具体的に記している。

これに先立つ37年、ティンパリーが国民党側から月額千ドルの活動費を得ていたことも、産経新聞が入手した米コーネル大図書館所蔵の史料から分かった。オーストラリア人のティンパリーは「南京事件」の当時、英紙マンチェスター・ガーディアンの上海
特派員で、南京にいた欧米人の手記などをもとに、旧日本軍による南京占領を“告発”した。国際宣伝処の「顧問」を務めていたことがすでに明らかになっている。

同書の執筆の経緯はどうだったのか。曽は自伝で次のように記した。「手始めに、金を使ってティンパリーに依頼し、南京大虐殺の目撃記録として本を書いてもらい発行することを決めた」曽の述懐の通りであれば同書は第三者の外国人ジャーナリストとしての客観的立場からでなく、国際宣伝処の意向を受けて執筆されたことになる。これに対して、一部の中国人学者らは約50年経過した段階での、曽の回想の信憑性を疑問視する。学者らは南京の公文書館にあるとされる史料などを根拠に、「ティンパリーが書き上げた原稿を国際宣伝処が買い取って発行した」と主張する。

もっとも、米コーネル大所蔵のマクヒュー報告書が示したように、ティンパリーは同書執筆前の段階で、すでに中立的でなかったことは明白だ。台北にある国民党の党史館が所蔵する「極秘密」の印が押された史料、「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」には、「本処(国際宣伝処)が編集印刷した対敵宣伝書籍」として、オーストラリア人記者、ハロルド・ティンパリー著の「戦争とは何か(WHAT WAR MEANS)」1938年出版の中国語版名が記載されている。

中国語版の序文を書いた文化人の郭沫若は、日中戦争勃発にあわせ、中国共産党や国際共産主義運動組織コミンテルンの支援で亡命先の日本から極秘帰国し宣伝を行っている。
国際宣伝処は同書を反日世論工作のための「宣伝本」として位置付づけ、中国語版『外人目睹中之日軍暴行』を出した。他にもニューヨーク、日本、コペンハーゲン、パリでもそれぞれの言語で出版された。英米版は12万冊出版されたという。

同書では「南京大虐殺をいち早く世界に広めた本」(南京大虐殺記念館館長の朱成山)だといわれ、連合国による戦犯裁判にも影響を与えたと指摘されている。
伝聞も含まれ国民政府が開いた南京軍事法廷の複数の判決書には『戦争とは何か』が登場する。
特に「百人斬り」を実行したとして訴追された向井敏明、野田毅の両少尉に対する裁判では、ティンパリーによる脚色や中国語訳版における事実の書き換えが影響し、死刑判決が下ったことが立命館大特任教授、北村稔の研究で明らかになっている。

同書は旧日本兵による放火、強姦、殺人といった数々の暴虐行為を記すが、伝聞も多く含まれる。「4万近くの非武装の人間が南京城内や城門付近で殺され、うち約30パーセントは兵隊になったことのない人々だ」「少なくとも中国中央部の戦闘だけで中国軍の死傷者は30万人上り、ほぼ同数の民間人の死傷者が発生した」これらはティンパリーが南京で自ら見聞きした内容でなく、自身は当時上海にいた。執筆材料としたのは、南京にとどまっていた匿名の欧米人や南京安全区国際委員会の報告で、それらをまとめ、「編著」の形をとった。後に分担執筆者の一人と判明した米国人、マイナー・ベイツは国民政府の「顧問」でもあった。

日本孤立を狙う
日中戦争の発端となった盧溝橋事件(1937年7月)勃発後、中国・国民政府のトップ蒋介石は国際宣伝の強化を図った。同年11月設置された国際宣伝処は翌年2月国民党中央宣伝部に移管されたが、実態は蒋介石の直属組織だった。宣伝の狙いは国際世論を味方につけ日本を孤立させること。対外宣伝工作を取り仕切ったのは、米ミズーリ大でジャーナリストを専攻後、米国の新聞社で記者として経験を積み、上海で英字紙の編集長を務めた経歴を持つ薫顕光。蒋の英語教師を務めたこともあり、蒋の信頼の厚い人物だった。

「一切の宣伝の痕跡を消し去り、外国人を利用して各国での宣伝工作を推進する」
中央宣伝部副部長に起用された薫はこの方針に基づき、それまでのキャリアの中で培った人脈を駆使して、中国に同情的、あるいは中国を支持する外国人記者を国際宣伝処で雇った。
国際宣伝処は外国特班員が中国に不利な情報の流失を防ぐ一方、ロンドン、ニューヨーク、パリをはじめ各国の主要都市に支部を設け、中国に有利なニュースを現地に発信した。

ティンパリーが大きな信頼を寄せた外国人記者の一人だった。薫は自著の中で、ティンパリーをこう紹介した。「彼は中国の勝利が民主主義世界にとって重要だとの信念を持って、私のスタッフになった」
ティンパリーは国際宣伝処の英米支部の開設に大きく貢献し、1938年7月には国際宣伝処の顧問に就任、9月にはマンチェスター・ガーディアンを辞職した。その後の活動は党史館にある秘密文書「中央宣伝部半年中心工作計画」に示されたとおり、国際宣伝処の対外宣伝工作のキーパーソンとなった。

台北の資料館、国史館に所蔵されている蒋介石の日記などをまとめた『事略稿本』によると、ティンパリーは41年5月13日、蒋介石に面会し、夫人の姉である宋慶齢が「(対日)抗戦に役立っていない」と、蒋に苦言を呈した。それほどティンパリーが重用されていたことがうかがえる。

宣伝工作の「責任者」として、国民党と蜜月関係にあったティンパリーだったが、やがて仲たがいしていく。薫は自伝で、ティンパリーが専用のクルーザーや車を要求するなど高慢な態度をとるようになったと批判した。ティンパリーは41年後半以降、同処との関係が悪化、徐々に「宣伝工作の戦線」から姿を消す。
英字紙メディアを舞台にした中国の「宣伝戦」は今も変わらない。

最近では、3月20日付の英紙フィナンシャル・タイムズ(FT)=電子版=が、「中国の慰安婦」と題する長文の記事を掲載した。1942年16歳で慰安婦にされたという山西省の女性(88)が、日本兵が自宅に押し入ってきたときの記憶を振り返るとともに、日本政府を相手取って起こした謝罪・倍賞訴訟も棄却され、中国政府の支援もなく精神的なトラウマを抱えて生きているという仕立てだ。

中国人慰安婦『20万人』
中国人慰安婦の数を「20万人」としているが、根拠は「中国人学者の推計」とあるのみだ。
この女性は国営新華社通信(英文)も昨年9月に配信した記事で取り上げいた。中国にいる元慰安婦や関係者が自由に外国メディアからの取材に応じることはないとみられる。
米紙ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)も昨年6月、「中国人慰安婦」を出版した中国人教授に取材した。

この教授は「歴史と未来のために、旧日本軍が敵国の女性や市民を言葉にならないほど残忍に扱ったかという点を指摘することも重要だ」と、執筆の動機を語っている。
慰安婦というと韓国のイメージが強く、中国人慰安婦に焦点はあたってこなかった。しかし、昨年6月、中国は慰安婦に関する資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)記憶遺産に登録申請した。今後の展開をにらみ、欧米メディアを巻き込んだ宣伝戦が始まっている。

「“宣伝戦”で完全に負けている」米教科書は
「歴史戦」は昨年末に連載した「南京事件」に移行。
8日付朝刊の「『40万人犠牲』「強制連行」残酷さ誇張米高校試験に」では、米国の公立高校の授業で、南京事件の被害を誇張して伝えている教科書が使われている実態を報じました。
「日本は歴史の“宣伝戦”で完全に負けている。2カ月の間にこれほどの死体を焼いたり、埋めたりすることは出来ない。子供が『日本は酷い事をしたと先生から聞いた』というので、きちんと説明したら納得していた」(読者投稿)

「南京事件の発端は」
南京事件以前は、中国北部・北朝鮮上部に位置する満州は当時、確かな国境線もない荒廃・広涼とした北海道に似た痩せ細った土地であった。
そこに当時の日本政府が巨額の資金を投じて灌漑設備などを作り、日本から多くの移民を送り込んで、広大な農地を開墾し、鉄道施設を作って日本領満州国を設立しようとしていたのだ。

その開拓村に、金品、農作物など住居用品などを盗み強奪、人殺しまでする中国人率いる野盗集団が複数いた。その中には毛沢東率いる野盗集団もいた。

中国と満州に接する処、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向 の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である。中国では 一般的に七七事変と呼ばれる。この事件は日中戦争(支那事変)の直接の導火線と なった。

『当時の日本政府、小村寿太郎中国駐在大使は国境線・平和条約など中国政府の蒋介石がひきいる中華民国国民党、政府間交渉していた「日本の終戦後に国民党は毛沢東ひきいる(野盗合併集団)と内戦の末に敗れ台湾に敗走した」が、当時の中国政府も今の政府どうようで、銃器・装備・兵隊が日本軍より多ければ問題なく勝てると思ってか、傲慢で小日本と蔑み、小ばかにして小村寿太郎大使や日本の軍幹部にたいして、明らかに欧米諸国の大使、軍幹部くらべ冷遇して怒りをかっていた』 
当時の南京市民は20万に弱の人口であったようだ。

日本軍と覚悟もなくして戦った、陳腐で卑劣な中国軍は一週間くらいで戦意喪失して軍服を脱ぎ捨て銃器・弾薬を持って敗走し、南京市民に変装して、日本軍は敗残兵行方の捜索にあたったその直後に日本兵が背向けたら市民に化けた敗残兵は後ろから銃口向け殺傷した。市民を盾とするような卑怯な戦法を行った。このような卑劣な軍服を脱ぎ捨て市民に化けた敗残兵を探し出すことは至難の技であり、勘違いで虐殺などの間違いがおこる。

日本政府に併合された朝鮮人(現・韓国・北朝鮮)は、日本の軍隊に2割程度職業軍人(現朴大統領の父も所属)としていて、南京で日本人と共に戦いをした。
これまで何百年にわたり、中国軍に占領されたり、虐殺などされることが幾度も繰り返された朝鮮の歴史から。「千年たっても恨みは忘れないとする」朝鮮人兵士が南京で目を被んばかりの虐殺を行ったことも事実だ。
そしてベトナム戦争において婦女暴行、「多くの二世を産ませ放置して当該二世は今でもベトナムで差別に苦しんでいる」性奴隷化したり、そして数十万人の民間人虐殺した歴史を見ればよくわかる。朝鮮人の嘘と残虐性を知ることができる。

南京陥落後一年で南京市民は25万人、驚くことに5万人口が増えていることが外国人記者など資料から明かされており、当時戦ったであろう、鄧小平、毛沢東などは、南京大虐殺などいうことは共産党主席時代に一言も言っていないし、当事者である台湾に敗走した中国国民党の元幹部たちも南京大虐殺有無を論じた者はいな。実態は数万にも満たないと学説もある。

1990年代に初めて30万人・40万人などする朝日新聞の捏造、でっち上げ報道から中国政府がさらに輪をかけて世界に発信するようになった。
恥ずべきは、虐殺の原因の一端は当時の弱虫中国軍の行った卑劣な敗残兵の市民を巻き添えにした卑劣な行為を断罪すべきであるともいえる。

中国共産党は日本と戦争したとして、戦勝70周年記念をするが、大きな間違いで、盗賊野盗集団とは戦ったが、先に述べたが戦後出来た共産党とは戦ったことも負けたこともない。(同)
戦争中、中国・青島の日本高等女学校で学んでいたという89歳の女性は「こんなことが教えられているとは情けない。日本人として恥ずかしくない行動をしなさいと教わっていた。日本軍は南京攻略の際、投降するように呼びかけたと聞きいている」(同)

「米国は日本のことをこうもあしざまに言えるのか。本土空襲、2度の原爆投下を米国国民にどう伝えているのだろうか。反論記事を掲載してほしい」(同)という意見も。
12日付オピニオン面の「視線」で阿比留瑠比記者が東京大空襲での例を挙げ、「米国の傲慢な歴史修正」を指摘すると、「よくぞ書いてくれた。次世代が正しい歴史認識を持つために今後も報道してほしい」(13日)などの声が寄せられた。

12日付朝刊で、外務省が昨年末、米国教科書記述内容の是正を要請したが、米大手教科書出版社側から明確な回答が得られないことを報じたところ、「外務省はもっと努力すべきだ」(13日)と不満の声も。
13日付朝刊の「日中合意文書 日本 英訳公表出遅れ 尖閣  中国の意訳を欧米引用」で昨年11月の日中首脳会談の際、中国側が日本側より数時間早く英訳文を公表していたことが分かったと報じると、「日本側は対応に遅れたり、強い態度で臨まなかったりで、次々と窮地に立たされている」(同)と懸念する意見が寄せられました。(読者サービス室から)

国連に訴えたクマラスワミ報告書は中国の陰謀

慰安婦問題に関して国際社会が日本非難の土台としている文書の一つに、国連人権委員特別報告者のクマラスワミ氏の報告書である。1996年2月6日に同委員会に提出された報告書には数々の「日本軍の蛮行」が列挙されている。
中国の歴史を古代から現代に至るまでしっかりたどり、中国が直接間接に糾弾する「日本の歴史的蛮行」は中国自身の伝統的蛮行行動に他ならないことを世界に発信することだ。
クマラスワミ氏が68年7月に朝鮮半島の慰安婦16人から聞いたという被害証言の中に北朝鮮のチョン・オクスン氏のものがある。チョン氏の証言は北朝鮮から受け取った記録であり、クマラスワミ氏はチョン氏に会っていない。
つまり、伝聞なのだが、その背景に、色濃い中国の影がみてとれる。チョン氏は次のように語っている。
① 反抗的な態度をとった慰安婦の少女を日本兵が裸にして手足を縛り、くぎの突き出た板の上で転がして血だらけにし、最後に首を切り落とした。その遺体を煮て、泣き叫んでいた他の慰安婦に食べさせると言った。
② 池を掘って水を張り、蛇でいっぱいにして慰安婦40人を裸にして突き落とし、蛇に噛ませて死なせ、最後に池を埋めた。

こうして部隊にいた少女の半数以上が殺された。
氏は一連の証言を基に慰安婦問題はジュノサイド(大虐殺)とみなすべきだとの見解を打ち出している。
日本人は誰しも、これらは絶対に日本人の行為ではないと即座に判断するだろう。ここに描かれているのは私たちの文明には全くそぐわない。

一方、政敵や民衆に対してこのような過酷な罰をいつも与えていたのが中国だったことが中国の歴史書、資冶通鑑に書かれている。
前述の
①くぎの板による無残な罰は、五代十国時代の閩(びん)国の軍使、薛文傑が考え出した刑罰から始まっていた。
罪人をくぎの突き出た狭い箱に入れて揺らして死にいたらしめる刑である。また人肉食、罪人も幼子も殺して食べる事例は数限りなくいえるほど、資冶通鑑に記されている。
② 蛇の池の罰も五代十国時代の南漢という国の帝が考案した罰で、「水獄」と呼ばれていた。
慰安婦問題で日本批判の戦略戦術を立てているのは、実は、中国なのである。一方で、中国の実態は、現在習近平主席が挑戦する想像を絶する不正蓄財も、実は何千年来の中国の悪しき伝統であることが、資冶通鑑によって明らかである。

国連人権委員特別報告者のクマラスワミ氏が報告した人間らしからぬ悪魔的所業は日本人の行為ではなく、中国人の伝統的手法だと、国際社会に証明するにはここに引用した資冶通鑑をはじめ、中国の歴書を忠実に英訳し、世界に紹介していくのがよい。
敵を知り、その実態を広く知らせることが、私たちが直面させられている歴史戦に対処する基本である。

実は私はこの資冶通鑑の内容を麻生川静男氏の『本当に残忍な中国史 大著「資冶通鑑」を読み解く』(角川SSC新書)で学んだ。資冶通鑑は司馬光が編んだ中国の史書で、紀元前5世紀から紀元1000年までの約1500年間の中国史を、全291巻1万ページで描いた大薯である。
毛沢東が17回読み返したという同史書の随所にクマラスワミ報告の世界が広がっている。
クマラスワミ報告の中の蛮行は、中国人の伝統であるのみならず、冊封国家として中国に従属し中華文明の影響を受けた朝鮮民族の行動様式でもあろうか。

私たちはさらに中国政府がチベット人、ウイグル人、モンゴル人をどのように痛めつけ虐殺しているかについても、そこから思い致すことができる。
日本人はクマラスワミ報告をどのようにして読むのだろうか。
外務省の和訳は公表されていない。そこで何人かは、村山富市氏が理事長を務めた「女性のためのアジア平和国民基金」の訳を見ているのではないかと思う。だがその訳から、「蛇の池」の事例がスッポリ抜け落ちている。同基金は、2007年3月に活動を停止しており。省略理由を問うことはできなかった。以下は私自身の推測だが、「蛇の池」は日本人にとってあまりにも荒唐無稽で、こんな話を入れればクマラスワミ報告への信頼が失われてしまいかねないと、彼ら(彼女ら)は恐れたのではないか。

アジア女性平和国民基金をはじめ、慰安婦問題で日本を糾弾する人々にとってさえ、報告書はそれほど信頼できないものだったということか。それにしても外務省はなぜ当時反論しなかったのか。
雑誌『正論』が昨年の6~7月号で掲載した外務省の反論書は立派にスジが通っている。それを、一旦、人権委員会に配布した後、取り下げた。

村山富市首相がその前年に前後50年の談話を出しており、時の政権の意向が働いたとしても、外交官の誰一人、立ち上がって反論しなかったのは限りなく情けない。
首相も状況が変わったいま、私たちは中国研究を進め、中国文明の巨悪と、その対極にあるに違いない善なる側面も、見ていきたいものだ。中国研究を介して「敵」をよりよく知り、日本の不名誉を晴らす大目的を実現するときである。
「中国住民が嘆願書『転任延期』を」
蘆溝橋事件を発端に昭和12年7月に始まった日中戦争は、局地紛争にとどめようとした日本政府の思惑と裏腹に中国全土に飛び火し、抗日運動を活発化させた。そんな中、占領した地域の治安を回復させ、これに感謝した中国人が留任を求めた日本軍指揮官もいた。
写真
福建省得厦門を海軍第5艦隊の作戦部隊が占領したのは南京事件から5か月後の13年5月のことだった。

14年11月島嶼部(とうしょぶ)、禾山地区の海軍陸戦隊指令(部隊長)を務めた大佐(当時は少佐)、堀内豊秋は住民と交流を深め、荒廃した地域を復興させた。公正な裁判を実施し、治安を回復させ住民の信望を集めた。
15年5月、堀内交代の報が伝わると、住民は転任延期を求める嘆願書を現地最高司令官の少尉、牧田覚三郎に提出した。

広島県呉市江田島にある教育参考館には嘆願書の複製がある。
元館長、三村広志(97)=写真=が見つけた。黄季通ほか103人の連名、押印の中華民国29(昭和15)年5月1日付嘆願書にはこう書かれていた。
「蒋(介石)政権が無理に抗日を唱えて民衆を扇動したことから渦が始まった。彼らは強制的に壮年男子を徴兵し、献金を強要するなど区民は痛ましい不幸に遭遇した。

事変(日中戦争)が起った住民は離散し、豊かな土地は荒廃と化し、田畑は荒れて家々は傾き、見る影もなくなった」。「堀内部隊が本島に駐留して以来、利を起こして弊害を取り除き、信賞必罰を徹底して教育を普及し、農業を振興して橋や道路を造り、荒れていた衛生設備を直し、短期間に荒廃の区を良く栄える域に戻した。

海外に出ていた多くの華僑も(中略)昨年1年間に復帰定住した人の数は10年来の記録となった」。「堀内部隊長らを長期にわたって駐留させていただければ、島民を幸福に導き、種々の業務がさらに復興すると考える(中略)。全島の住民が安住して生活を楽しみ、東亜和平の人民となろう。謹んで喪心から転勤延期を切望するものである」
堀内豊秋氏の「善政たたえる碑を建立」した。

堀内が15年10月に去るに当り、住民108人は寄付を募り「去思碑」という記念碑を建立し、堀内の徳をたたえた。しかし、戦後、中国共産党によって碑は破壊され、残存していない。

三村は「占領した地域を復興させ、治安を回復させ、中国の住民から感謝された堀内大佐の遺勲を忘れず、語り継いでほしい」と話している。
「堀内豊秋氏 明治33年熊本生まれ。昭和17年1月、日本初の落下傘部隊隊長として、インドネシアのセレベス島メドナ奇襲降下作戦を成功させた。終戦後の23年1月、オランダ政府よりB級無戦犯容疑で起訴され、裁判では「部下の罪」をかぶって同年9月、47歳で銃殺刑となった

「中国あきれる歴史修正宣伝」

これほどあからさまな歴史修正主義国はあるまい。
中国の王毅外相が23日、国連創設70年を記念する安全保障理事会の討論会で行った演説をみて、そのあまりに堂々とした事実の歪曲ぶりにかえって感心した。
王氏は名指しこそしないものの「過去の犯罪を糊塗しようとしている国がある」と日本を批判し、中国の歴史について次のように語ったのである。

「戦後70年間、国連の創設メンバーで、安保理の常任理事国の中国は、常に国連憲章の精神に従い、国連の役割を支え、平和と安定を守ることに尽くしてきた。今日の開かれた討論が、反ファシスト戦争勝利と国連創設70年の記念の序幕になることを望む」
そして、9月には国連で習近平国家主席が歴史問題をめぐる演説を行うという。
(25日付読売新聞朝刊)

日本は、10月には安保理の非常任理事国への選出が確実になっている。最多の11回目だ。70年間の平和への実績をアピールするとともに、日本をおとしめる宣伝戦の主舞台の一つになるのは必至である、不当な批判、中傷には1つずつ丁寧に反論し、国際社会に発信していくことが、いつそう重要となろう。

「台湾の高官が異議」

中国の言う反ファシスト戦争とは抗日戦争を指すが、これには台湾が異議を申し立てている。
「抗日戦争の主役は国民党が主導した『中華民国』の国軍だったという歴史に向き合うべきだ」台湾の国防部報道官はこうクギを刺している。また、立法院(国会)外交・国防委員会の有力者、林郁方氏は今月16日、産経新聞の取材に「共産党が戦ったのは後方と辺境のゲリラ戦だけだった」と指摘した。

そもそも、中国は王氏が主張するような国連の創設メンバーではない。 国連が発足したのは1945年10月であり、中華人民共和国の建国はその4年後の49年10月だ。中国が台湾に代わって国連に加盟するのはさらに20年以上あとの71年10月なのだから、もはや何をか言わんやである。

ちなみに、国連憲章23条に安保理常任理事国として記されているのはいまだに中華民国だ。中国は手続き上、その権利を継続したとはいえ、何でも自分の手柄にするのには無理がある。
「人種、性、言語または宗教による差別なくす、すべての者のために人種および基本的自由を尊重するように助長奨励する」
国連憲章1条にはこう明記されているが、中国が常にこうした精神に従ってきたと誰が言えるだろうか。

中国は一党独裁体制の下で、ベトナムに侵攻するなどし、そしてチベット、ウイグル、内モンゴル…反証を挙げれば枚挙にいとまがない。東シナ海や南シナ海では岩礁を埋め立て一方的に基地化して実効支配を拡大させるなど、「法の支配」の実現でなく「力による現状変更」を目指しているのはどの国か。

そんな国が戦後70年の今年、臆面もなく正義の味方面し、国際社会で日本悪玉論を流布する宣伝戦を仕掛けてきているのである。

「迷惑な水を差す河野洋平発言」

「戦後70年間、日本は平和で自由で民主的な国を構築し、近隣諸国、アジア諸国の発展のため支援し、貢献してきた。こうした日本の歩み、正しい日本の姿を発信していきたい。オールジャパン態勢で入っていくことが大事だ」菅義偉官房長官は24日の記者会見でこう述べた。まさにその通りだと納得していたところ、同日に親中派で知られる河野洋平元官房長官が講演で次のようなことを語っていたと知り、頭を抱えた。

「今は保守政治というより、右翼政治のような気がする」
安部晋三首相や日本政府に歴史修正主義者というレッテルを貼りたい中国や、欧米の偏向メディアが「元政府高官で元自民党総裁の河野氏ですらこう言っている」とお墨付きにして利用しそうなセリフである。
何を口にしようと言論の自由だが、ホンの少しでも国民の迷惑を考えてもらいたい。
この企画は池田祥子他、産経新聞編集者7人が担当しまた。

「共産主義と戦う選択をした日本」冷戦の勝利者
これまで歴史問題について歴代の首相がいくつかの談話を出してきた。その嚆矢(こうし)は村山談話だ。
これは戦後50年を迎えた歴史決議を国会で行おとして、多くの批判を浴び、苦肉の策として出されたものだった。
このとき与党である自民党との事前協議、野党との意見聴衆有識者懇談会などは一切なかった。それどころか、当時大臣として閣内にいた有力政治家によると、閣議決定の直前に談話文を見せられたという。戦後60年の小泉談話、日韓併合100年の管談話でも、今回のような事前の注文は付けなかった。

安部首相が自身の歴史観と哲学に基づいて出す談話である。時の首相が何を言うのか、静かに待つのが礼儀ではないか。批判するなら、談話が出てからその内容に対してすべきだ。
ただし、ここで私は別の視点を提起したい。そもそも敗戦70年だけを強調すべきでない。第2次大戦後の世界は実は第3次大戦とも言うべき冷戦であった。そして、日本は自由民主主義陣営の一員として冷戦を戦った。その戦いは国内でも存在した。

単独講和か全面講和かの争い、自衛隊違憲論者との戦い、安保条約や日韓国交回復反対運動との戦いなどである。産経新聞も正論路線を採って国内の思想路線と戦った。文化大革命を賞賛し続けた朝日新聞は冷戦を戦ったとは言えないだろう。
そして自由民主主義陣営は25年前に勝利した。ソ連・東欧は崩壊し、その後、世界は民族対立、テロとの戦いの時代に入った。
しかし、アジアでは冷戦は終わっていない。中国は計画経済を捨て市場経済の軍門に下ったが、「人民民主主義」の美名の下で一党独裁を続けている。北朝鮮はいまだに冷戦時代そのもので、人民の苦しみは極限に達している。

「敗者となった中国と左派勢力」

日本は25年前、冷戦に勝った。米国や欧州連合とともに“戦勝国”となり、中国は半分負けた。70年前、日本と戦って勝ったのは中華民国であって中国共産党ではない。その上、冷戦では中国は負けた側だ、彼らが今になって70年前に米国と一緒に日本と戦って勝った。などと宣伝していることはおかしい。一番近い戦争における勝者は米国と日本で、中国は敗者の側にいた。

冷戦に勝利した数年後、米国共和党大会でレーガン大統領が大変、示唆に富む演説をした。「我々は冷戦に勝った。しかし、私はときに疑いを持つ。この我々は誰か」。大会参加者らはこのレーガン大統領の問いに対して「あなたが勝利者だ」「共和党が勝ったのだ」「民主党は違う」などいう答えを叫んだという。
我々も同じ問いを発すべきだ。誰が勝ったのか。
中国共産党は大躍進政策で数千万人を殺し、チベットを武力で占領し、内モンゴル、ウイグルで帝国主義時代そのままの異民族支配を行い、天安門で自由を求める学生らを銃殺した。

それと同時期に、日本は選挙のたびに自由民主主義陣営に属して共産主義勢力と戦うことを選択し、平和と繁栄を得た。
安部首相の祖父、岸信介首相はデモ隊に囲まれる中で日米安保条約を守った。今、中国の反日攻撃に歩調を合わせる国内の左派勢力、マスコミの多くは実は負けたのだ。

中露「蜜月」戦術に迷わされるな

ロシアと中国は、今や「蜜月」関係に入ったかのように見える。
ロシアは昨年春のクリミア併合という暴挙によって「ロシア異質論」を復活させ、欧米諸国からほぼ完全に締め出されてしまった。
アジアへ軸足を動かしそうにも、日本も先進7か国(G7)の一員として対露制裁に加わり、プーチン大統領の訪日にゴーサインを出さないばかりか、安部晋三首相モスクワ主催の対独戦勝記念式典への出席も注意深く検討している。国際的に孤立無援状態に陥ったロシアにとり、中国以外に頼るすべはない。このようにしてロシアは、中国主導下の「アジアインフラ銀行」(AIIB)への参加表明も行った。

警戒すべきは「パカズーハ」だが、改めて警戒せねばならぬことがある。それは、ロシア、中国がことのほか「パカズーハ」(見せかけ)」戦術に秀でていることである。ロシア語の「パカズーハ」とは、実態とは異なるふうに見せかける擬態を指す。
もっとも政治の世界で「パカズーハ」戦術は当然と言えないこともない。なぜなら政治とは結局、巳にとり好都合なイメージを相手に形成させようとして争うゲームに他ならないからである。

そのような「見せかけ」合戦は、例えば日露間でも盛んに行われている。安部首相は、プーチン大統領との間でさも個人的な信頼関係が構築されている「かのように」振舞う。プーチンも負けずに日露関係が総合的に進展すれば、日本側が希望する領土問題解決への環境が整備される「かのように」示唆する。両首脳は、中露首脳同様、キツネと狸の化かし合いを実践中と評してよい。

歴史的典型は、「ポチョムキン村」である。エカリーナ女帝のご機嫌を損ねまいとして、忠臣ポチョムキンは女帝が行幸(ぎょうこう)する道路沿いの外装部分だけを前もって飾り立て、あたかも街全体が繁栄しているかのような印象をつくりだそうと試みた。この故事から転じて、「ポチョムキン村」とは外見は美しく壮大にすら映るものの、中身は空っぽという意味で用いられる。
喧伝されたプロジェクト
モスクワと北京が最近行った「パカズーハ」の典型例として、中露間のエネルギー協力について触れる必要があろう。
ロシアと中国は、2014年に天然ガスをめぐる超大型プロジェクトを2件締結した。一つは「シベリアの力」、もしくは簡単に「東ルート」と呼ばれるもの、東シベリアから中国向けパイプラインを建設し、年間380億立方㍍のガスを30年間にわたって中国へ供給する。もう一つは「アルタイ」もしくは「西ルート」と呼ばれるパイプラインの敷設。西シベリア産のガスを年間300億立方㍍、30年間中国に供給する。

中露は、「東ルート」プロジェクトについての合意文書を14年5月に上海で、「西ルート」に関するそれを11月北京で、それぞれ調印した。同調印式に出席したプーチン大統領はこれらの合意を中露関係史における「画期的で」「最大の契約」であると絶賛した。ところが大統領の言葉は、中露間の結束を対外的に誇示せんがために意図的になされた課題表現に他ならなかった。

というのも、鳴り物入りで喧伝されたこのプロジェクトは、その後、一向に実践へ向けて動き出していないからである。それどころか、今年3月になると、ロシア側からは次のような情報すら漏れて聞こえてくるようになった。すなわち、「東ルート」も「西ルート」も共にパイプラインの建設が見送られている。仮に将来敷設されるにしても、規模の小さい「西ルート」からであろうと。

協定の建前と実態の乖離
中露間で「世紀の大プロジェクト」と喧伝された天然ガス合意がその後中ぶらりんとなった理由の一つとして、原油安を指摘することは、おそらく間違っていないだろう。というものも、天然ガスの値段は、石油のそれと密接に連動しているからだ。14年に中露両国が合意したガス価格は公表されていないものの、どうやら千立方メートル350ドルと推測される。

もしそうだとすると、原油価格が14年後半以降約2分の一にまで急落している今日、中国側がガス価格の再交渉を要求しておかしくない理屈になろう。だが、ガス価格の変動だけが、その後両プロジェクトの実施を阻んでいる理由なのではない。

成約の見せかけにもかかわらず、実は次の点に関してもめているのだ。例えばパイプラインの建設、パイプラインが通過する地域のインフラ整備の費用を、一体どのような割合で中露それぞれ分担するのか。中露間の協定に見られる建前と実態の乖離(かいり)がわれわれに改めて与える教訓はシンプルなものである。
ロシアや中国が発表する声明は政治的PR目的のために粉飾されがちなので、過大評価する間違いは犯してはならぬこと。
この一言に尽きる。中露関係が「蜜月」関係に入ったなどと解釈するのは、厳に禁物といえよう。
北海道大学名誉教授 木村 汎
恋愛サーキュレーション図書室