一葉は、彼らとの交流について、こんなに楽しいことはないとして、その様子を長々と書きながらも、これもきっと今限りことであり、今日の親友が明日の何であるかわからないと、少し冷めた、寂し気な視点で記している

本表紙木谷喜美枝[監修]

第三章 文学界の男たち

平田禿木(ひらたとくぼく)

一八七三~一九四三.評論家、随筆家。『文学界』同人。まだ知られなかった一葉の才能をいち早く発見し、彼女を同誌につなぐきっかけを作った。

文壇からはじめての来訪者

小説の師だった半井桃水のもとを離れた一葉は田辺花圃(かほ)の協力を得て明治二五年一一月、『都の花』に「うもれ木」を発表した。これを読んで、当時無名だった一葉の才能に早々と注目し、一葉を現実的に文学の世界へ引き込むきっかけを作ったのが、平田禿木である。

 それまで、一葉の周辺の人物たちは、親類縁者か、まず一葉という人物を知って付き合いが始まった人々である。だが、禿木(とくぼく)は違う。彼は最初に一葉の作品を知り、それから本人に会いに来たのだ。これから先、一葉の作品が世に出る機会が増え、かつその評価が上がるにつれて、禿木のように作品から一葉を知る人間が多くなっていく。彼はまさにその一人目となる。

 一葉との付き合いが深まるにつれて、禿木は『文学界』に関わりのある文人たち、馬場孤蝶(こちょう)、戸川秋骨(しゅうこつ)、上田敏(びん)、川上眉山(びざん)、島崎藤村らを、次々と樋口家に連れてくる。そして、彼らとの交流は、小説家・一葉にとって、間なくやって来る大きな飛躍の引き金になるのだ。その点から見ても、禿木との出会いは彼女にとって大変意義深い。

 禿木は東京都出身、明治六年生まれ、一葉より一歳年下であった。第一高等中学在学中、星野天地が主宰する『女学生』明治二三年五月創刊の編集に携わり、明治二五年頃には、二人が中心になって同人誌『文学界』の創刊を企画していた。当時、禿木は一九歳、一葉は二〇歳である。

「うもれ木」に感動した禿木は、一葉の存在を「異彩あり」と手紙に書いて天知に知らせ、天知はもともと知り合いであった田辺花圃を通して一葉に『文学界』への寄稿を依頼した。それを受けて一葉は「雪の日」を書き上げることになる。これが一葉と『文学界』の最初のつながりだが、この時天知は花圃に一葉宛ての手紙を託しただけで、直接一葉と対面してはいない。

 天知が一葉に手紙を書いた約三か月後、明治二六年三月二一日の午後、はじめて平田禿木が一葉のもとを訪ねた。当時樋口家はまだ竜泉寺町に引っ越す前で、禿木が足を運んだのは本郷菊坂町の家であった。

 この時禿木はまだ高等中学の学生だった。『文学界』の平田喜一(きいち)と名乗り、日本橋伊勢町の絵の具商の息子だと自己紹介している。
 一葉は禿木の第一印象を「物がたり少しするに詞(ことば)かず多からずうちしめりて心ふかげなれどさりとて人がらの愛嬌ありなつかしき様したり」(少し話したが、言葉は多くなく、しんみりとして落ち着いているが、とはいえ人柄には愛嬌があり懐かしいかんじがした)と記している。

 禿木来訪の理由は、一葉が寄稿した「雪の日」は『文学界』の二号に掲載する予定だったが三号になったという話を告げにきた、ということだった。日記によれば、一葉は訪ねてきた禿木を見て、こんなに若い学生が何の用だろうと最初は訝っていたが、事の次第を禿木から聞いて、編集担当なのだと思ったという。禿木はこの日、また何か新しい作品を書いてほしいと一葉に依頼し、一葉は「もし書けるようでしたら」と返答をしている。

 やがて禿木は口数も増えて、自分が心酔している幸田露伴の話や、西行、兼好、芭蕉など古典についての話を次々と一葉に語り始めた。一葉も「うもれ木」が露伴の影響を受けていることを認めた上で「今の世の作家のうち幸田ぬしこそいと嬉しき人なれ」(今の世の作家の中では幸田露伴こそ憧れの人物です)と話している。

 また、禿木は、自分は早く父を亡くして人生の悲哀を味わった者で、苦労知らずの他の学生たちとは気が合わないと語り、これをうけて一葉は、自分も父と兄を亡くして苦労している身だと言い、お互いにその境遇を慰め合いもした。

 話は『文学界』に及び、一葉は、創刊号に禿木と名乗る人が吉田兼好(けんこう)について書いていたが、これを読んで自分も妹もひどく感銘を受けたと、その時は相手が当の禿木だとは知らずに語っている。

 その日、禿木が席を立ったのは日暮れ頃だった。はじめて来訪ながら二人は何時間も語り会っていたことになる。彼はその晩一葉に宛て手紙を書き、「願わくはこの上とも深く交はらせ給ふて共に至道(しどう)のために尽すをゆるし給へ」と『文学界』の二号を添えて送っている。翌日これを受け取った一葉はその青年が禿木であったことを知り、若いのに心深い人のようだと、日記に記している。

 しかし先述の通り、その後一葉は小説家として家族を養うことを諦めてしまう。一家は竜泉寺町に転居して荒物屋を開始し、一葉は五厘、六厘といった商売に追われる暮らしの中で一時期文学の世界から離れていった。

 それでも樋口家が商売を開始してから約三ヶ月の一〇月頃、一葉は改めて図書館通いを再開する。彼女の視線は再び文学へと向けられたのだ。そうした流れのなかで、明治二六年一〇月二五日、禿木がその家に再び一葉を訪ねている。

 一葉は「七月以来はじめて文海(ぶんかい)の客にあふ いとうれし」と日記に書いている。その日一葉は、『文学界』に必ず原稿を書くと禿木に約束し、これによって「琴の音」が執筆される。幸い境遇のために心がねじけて盗賊になってしまった青年が、一九歳の娘に無心に奏でる琴の音に感動し、更生する物語である。

 それは、「雪の日」完成以来、約一〇カ月にわたるブランクを経て書かれた、一葉の再生を示す作品となった。
 以降も禿木は度々龍泉寺町の樋口家を訪れた。そして、一葉にとって最も親しい文壇の友人の一人になるのであった。

再び文学の道へ

 さて、禿木が龍泉寺町の樋口家にやって来るようになったのは、明治二六年の秋以降のことである。その頃の一葉の暮らしに目を向けてみよう。
 その翌年になると、同種の店が向かいにできて、商いはすっかり暇になっていた。一葉に、二月に田辺花圃が歌塾を開くことを知って心を乱し、久佐賀義孝(くさかよしたか)のもとに自ら飛び込むなど、荒々しい出来事に次々と直面していた。

 明治二七年三月に書かれた日記には次のようにある。
「国子ハものにたえしのぶの気象とぼし この文厘(ぶんりん)いたくあきたる比(ころ)とて前後の慮(おもんばかり)なくやめらせばやとひたすらすヽむ」この時すでにくには、こんな分だの厘だのという商売にはすっかり飽きたと言って、あと先考えずに店を閉めることばかり勧めていたというわけだ。世間体を気にするたきはもともとこんな暮らしは不本意だったので、「さればわがもとのこヽろはしるやしらずや両人ともすヽむる事せつ也」二人は一葉の気持ちを知ってか知らずか、しきりに閉店を勧めたという。

 しかし一葉は、売れるものは売尽くし、金も借り尽くした今となっては、店を閉じたら一銭の収入もなくなる。ここはよく考えなければいけないと、この時点では閉店に慎重であった。

 実際には、もはやこの頃の樋口家は周囲に借金をしまくり、それで暮らしていたと言っても過言ではない。日記にも、則義の頃からの知り合いの西村釧之助(せんのすけ)をはじめ、何人もの人に借金を申し込みに出向いたという話がいっそう増えてくる。母の助言を受けて、桃水に援助を求めて、久しぶりに彼を訪ねたのもこの頃のことだ。

 そうした中で、三月二七日、一葉は中島歌子と会い、萩の舎の号をそのまま譲って私の後を引き継ぐのはあなたしかいない、と言われる。一葉の日記によれば、歌子は熱心にこの話をしたというが、一葉は話を紛らわして家に帰った。

 翌四月に入ると、中島歌子から萩の舎で助教をしてほしいという、具体的な話が来た。謝礼は月に二円で、それだけで樋口家を支えられる額ではなかったが、一葉はこれを引き受けている。

 この頃の日記を読むと、この時点ですでに一葉の頭の中で店を閉じる決意と、もう一度小説に取り組む決意が固まっていたことがわかる。とはいえ、彼女は自分で歌塾を開くという夢も捨てきれなかったようにも見られる。ちょうど、久佐賀との交渉が続いていた時期の話であり、一葉の中にも大いに迷いがあったのだろう。

 ともあれ一葉は、前年末には「琴の音」で小説家という仕事に復帰していた。一月九日には禿木から一月二〇日頃までに何か執筆してほしいと葉書が届き、約一ヶ月後の二月一八日、再び禿木から督促の葉書が届いている。

 一葉は、この禿木からの依頼を受けて二月二〇日までに「花ごもり」の前半を、三月二三日までには後半を書き上げた。完成した「花ごもり」は二月二八日、『文学界』の一四号と、四月三〇日、一六号に掲載された。

 龍泉寺町の店もうまくいかず、久佐賀からも金が引き出せず、貧困は日増しに迫り、行き詰まっていた一葉ではあったが、萩の舎からの誘い、禿木から小説依頼、そしてその執筆が同時進行する中で、気持ちは「文学の道」へと固まりつつあったと考えられる。

 かくして樋口家は、店をたたむ。再び周囲から借金をし、桜の散った頃、新しい家を探し、五月一日には速やかに転居をすませた。
 日記には次のようにある。

「家ハ本郷の丸山福山町とて阿部邸の山にそひてさヽやかなる池の上にたてるが有けり守喜(もりき)といひしうなぎやのはなれ座敷成しとてさのミふるくもあらず 家賃は月三円也。たかけどもこヽとさだむ」(阿部邸は、阿部伊勢守(あべいせのかみ)の旧邸宅の意)

 この本郷丸山福山町の家こそ、「大つごもり」「たけくらべ」にはじまり、一葉の代表作が続々と生まれた場所である。
 そして禿木は、この家にも足しげく通い、友人たちを連れてきては、次々と一葉に引き合わせるのであった。
 一葉はこの家に転居して間もなく、禿木からの依頼によって、本当の意味での彼女の再起をかけた作品となる「やみ夜」を執筆している。

 没落した家の娘が自分を見捨てた元婚約者の殺害を若者に頼むというこの作品は、『文学界」の一九号(七月三〇日)、二一号(九月三〇日)、二三号(一一月三〇日)に、三回に分けて掲載された。

 この通り、禿木の来訪と度重なる原稿依頼があってこそ、一葉は一度諦めた文学の道に立ち返り、「琴の音」や「やみ夜」を書き上げることが出来たと言って過言ではない。
 禿木は昭和一八年発行の『文学界前後』において、次のよう述べている。「『文学界』同人の発見、並び誘引が女史のこの進路を少なからず助けたことは、今に我々の誇りとしているところである」と。

馬場孤蝶(はばこちょう)

一八六九~一九四〇.評論家、随筆家。『文学界』同人。明治二八年九月に中等学校教師として彦根に赴任するまで、足しげく樋口家に通った。

“文学サロン”と化した丸山福山町の家 

 さて、平田禿木に次いで何度となく一葉の家を訪れた『文学界』の同人に、馬場孤蝶がいる。一葉にとって、禿木は年下のまだ若い弟のようであったのに対し、孤蝶はもっとお互い理解し合える、生涯の友の一人となっていく。

 孤蝶は明治二七年三月一二日、禿木に連れられて龍泉寺町の樋口家をはじめて訪れている。この時彼は一葉より三つ年上の二四歳だった。
 一葉は日記に「馬場辰猪(たつい)君の令弟(れいてい)なるよし 二十の上いくつならん 慷慨(こうがい)悲歌の士なるよし、語々癖(ごごへき)あり不平乀のことばを聞く うれしき人なり」(馬場辰猪氏の弟という。年は二十より上だろうか。世の不平を憂う熱血漢である。言葉使いに癖がある。「不平、不平」という言葉を何度も聞いた。好感が持てる人だ)と初対面の印象を書き記している。

 孤蝶は明治二年旧土佐藩士の家の三男として生まれた。明治一一年に両親とともに上京、共立学校に学んだが、同級生に禿木がいた。その後、明治二二年明治学院に編入、その同級生には島崎藤村と戸川秋骨がいる。卒業後中学で英語教師をしていたが、藤村らに勧められて『文学界』の創刊に参加していた。

 孤蝶の次男である馬場辰猪は、当時有名な自由民権運動家で、爆発物取締法違反により国外追放、明治二一年フィラデルフィアにて三十代で病没していた。時事問題や国の動向にも常に興味を持っていた一葉は、孤蝶の兄の存在も知っていたのだ。

孤蝶が頻繁に樋口家を訪れるようになったのは、明治二七年五月以降、つまり、一葉らが丸山福山町の家に移ってからのことだ。後に孤蝶がこの家について詳細に記した文章がある。

「その家は入り口の戸が半分から上が、赤、緑、紫といふやうな色硝子で張ってあって、方三尺位な履脱(くつぬぎ)の土間あり、正面真直に三尺幅位の板の間が通って居る、それに沿ふて、右側には六畳が二間並んで居り、左側は壁と板戸棚であり、それから、上り口の左の方も一寸(ちょっと)板の間になって居て、それから正面の廊下の右側の後にかる所に、丁度隠れやうな四畳半位な部屋があり、台所は入り口の左側にさし掛のやうになつて、突き出て居た。(中略)六畳二間の南側は、手摺(てずり)のやうに敷居が通って居て、その下は板戸が開け閉てができるやうになつて居た。その前が三坪位は確かにあったらうと思はれる池であつた。水は西方町の山から滲み出して来る清水であつたのだ」(『孤蝶随筆』)

 一葉はこの家に越してからの日記を「水の上」と命名している。それは、この家にあった池にちなんだものであった。
 同年の初夏には、星野天地、平田禿木のほか戸川秋骨、島崎藤村らもこの家を訪れている。この中では、戸川秋骨もその後度々樋口家を訪れるようになった。秋骨は明治三年生まれの熊本出身。明治学園に学んでおり、藤村や孤蝶と同級であった。やはり『文学界』創刊に関わった、同人の一人である。

 秋骨は、狂乱や革命など「変調」を恐れてはいけない、それこそが人間の生命の自然であるという「変調論」を『文学界』に発表しており、これを一葉が愛読していたことが明らかになっている。

 秋骨は樋口家に通いつめ、時に興奮して身悶えするなど醜態を見せることもあったため、一葉は日記に「あなうたての哲学者よな」(本当にいやな哲学者)と記している。だが、それほど二人が親しかったことも窺える。

 こうしてこの家は、『文学界』同人たちが入れ替わり立ち替わりやってくる、”文学サロン”と化していった。一葉は女主人として、連日のように彼らと語り合っている。彼らは一葉とくにを、イギリスの小説家にちなんで”ブロンテ姉妹”と呼び、一葉のことをまるで姉のように慕っていた。特に禿木と孤蝶は、「やみ夜」にちなんで、一葉を「おらん様」などと、親しみこめて読んでいた。

 実際には、当時の樋口家は明日食べる米にも困るような経済状況であった。にもかかわらず、一葉は彼らに対しては時に夕飯を出すなど、精一杯のもてなしをしている。同世代の教養ある異性たちに囲まれて、一葉も決して悪い気はしなかったであろう。日記を読んでいても、そうした彼らの連日の来訪や無遠慮を非難する言葉はあまり出てこない。

 一葉は、半井桃水や久佐賀義孝、西村釧之助、村上波六ら、自分より目上の人間には、幾度なく借金の申し込みを入れているが、『文学界』の青年たちには金の話はもちろん、貧乏に関する愚痴を言ったこともほとんどなかったようだ。一葉にとって彼らは、そうした現実の生活を忘れて、文学や社会について語り合える、かけがえのない友であったのだ。

 ここで補足しておくと、樋口家がこのような”文学サロン”となり得た大きな理由として、一葉が戸主であったことがあげられる。当時の、嫁入り前の娘が二人いる家に、同年代の男たちが連日ぞろぞろやってくる状況は、普通ではあり得ない。この家の家長はあくまでも一葉であり、彼らはその家長の大事な友人たちであったからこそ、こうした交流が可能となったのである。

 そしてもちろん、教養もあって、話題も豊富、打てば響くような受け答えをさらりと返してくる一葉の人間的な魅力があればこそ、彼らが樋口家に集まってきたことは言うまでもない。当時、勉学に親しんだ知的な女性というのは、まだまだ希少な存在であった。

 もちろん、彼らとのこうした日々が、作家一葉に与えた影響も計り知れない。十代の頃より図書館に通って独学で必死に勉強してきた一葉にとって、学校でしっかりした教育を受けている彼らが語る文学や哲学の知識・思想、文壇の情報などは、大変興味深く、大いに参考になるものであった。
 一葉が後世に残る傑作を次々と発表しはじめる時期と、『文学界』の青年たちが樋口家を頻繁に訪れる時と、ほぼ一致している。同じ文学を志す同世代の彼らと心おきなく語り合うことによって、一葉の内を育っていた創作力は世の中に解き放たれたのであった。

『文学界』青年らとの楽しい交流

 明治二八年四月、五月、六月頃、孤蝶は三日と空けず樋口家を訪れていた。一葉は日記に、孤蝶や禿木、秋骨らとのやりとりを、何度か詳しく書き残している。そこからは、心底一葉を慕っている孤蝶と、そんな孤蝶にとまどいながらも、彼との友情を大切に思っていた一葉の姿が浮かび上がってくる。日記を頼りに、当時の孤蝶をはじめとした「『文学界』の青年たちと一葉の交流の様子を覗いてみよう。

 明治二八年五月の日記に、次のような記載がある。ある時、孤蝶と秋骨が二人で訪ねてきた。秋骨が、孤蝶君があなたに差し上げたいものがあるので貰ってあげてください、と言う。しかし孤蝶は、いや、何でもないですと言ってそれを打ち消した。実は、孤蝶の父親が、一葉のために筆筒に葦(あし)と蟹を彫ったものを用意していたのだ。

 秋骨は「孤蝶子(こちょうし)の君をおもふこと一朝一夕にあらず」と言う。一葉は困って、「そはかたじけなきこと」(それはありがたいことです)と微笑んで返したという。

 一葉はその日の日記に続けて、こういうことはとても辛いと書いている。日記によると、孤蝶はどこかへ出かけると必ず欠かさず手紙を送り、野山で摘んだ花なども送ってくる。そして、人には言わない秘密までも、一葉には語ったという。そうした孤蝶に対して一葉は、嬉しいけれど心苦しいと感じたうえで、こうした思いはあとどのくらい続くのだろう、人の心の移り変わりは水の上を流れる落花にも似ている。と冷静に受け止めている。

 五月七日には、孤蝶と禿木は上田敏を連れて樋口家にやってきた。当時帝大の文学生で『帝国文学』や『文学界』で活躍していた上田敏のことを、一葉は「温厚にして沈着なる人がらやき人」と書き留めている。

 三人は一鉢の鮨を囲み、酒こそないものの、酔ったように論じ、笑い、語り合ったという。孤蝶と禿木は間近に教員検定試験を控えて、意気が上がっている。この日、孤蝶は、禿木にどうしても一緒に来てほしいと三拝して頼まれたと言って彼をからかったり、自分は一葉さんのわがまま息子だからこの家では遠慮しないことにしているんだなどと、子供っぽいことを言って、一葉を面白がらせている。

 一葉の日記には、こうした孤蝶や禿木らとの歓談のひと時が、生き生きと、詳細につづられているが、そうした記述の中で、もっとも彼女の才気が光っているのが、その三日後、五月一〇日の日記である。

「時ハ五月一〇日の夜月山の端にかげくらく池に蛙(かわず)の声しきりて燈影(とうえい)しば乀風にまたヽく所座(とこざ)するものハ紅顔の美少年馬場孤蝶子、はやく高知の名物とたヽえられし兄辰猪が気魂(きこん)を伝へて別に詩文の別天知をたくはゆれば優美高傑かね備へてほしむ所ハ短慮小心大事(たんりょしょうしんだいじ)のなしがたからん生れなるべけれども歳はいま二十七 一(ひと)たびおどらば山をもこゆべし」
(時は五月一〇日の夜、月は山の端に淡く、池の蛙の声しきりにして、灯火しばしば風にまたたく所、座する者は紅顔の美少年馬場胡蝶氏。早くから高知の名物とたたえられた兄辰猪の気魂を受け継ぎ、その上に詩歌の別天地も自らの中に蓄えているので優美高傑を兼ね備えている。惜しまれるのは短慮小心で大事を行うことはできそうもない性分だが、年は今二七歳、ひとたび奮起すれば山をも越えるだろう)

 続いて禿木のことも「(略)文学界中出色の文士 としハ一(いち)の年少にて二十三歳也とか聞けり 今のまに高等学校大学超ゆれば学士の称号めの前にあり」と孤蝶と同様にまるで小説の登場人物であるかのように描写している。そして「静かに後来(こうらい)を思ひて現在を見れば此会合又得(このかいごうまたえ)べしや否や」(静かに将来を思って現在を見れば、このような素晴らしい会合を再びもてることはあるのだろうか)と、その夜の風情を熱く綴っている。

 一葉は、彼らとの交流について、こんなに楽しいことはないとして、その様子を長々と書きながらも、これもきっと今限りことであり、今日の親友が明日の何であるかわからないと、少し冷めた、寂し気な視点で記している。そして、今宵の楽しい会合のことを書き留めて後々の思い出の涙の種の一つとしよう、と結んでいる。

 まるで人生を悟り切っているかのような書きっぷりである。様々な経験を経て、もうこの頃の一葉は、同世代の孤蝶らとは比べ物にならないほど、大人びていたのかもしれない。

 さて、明治二八年五月二一日の一葉の日記に、午後、門に荒々しく靴音がして、誰かが駆け込んできたので、誰かと思ったら孤蝶氏だった、とある。

 孤蝶は先日受けた教員採用試験に合格し、少しでも早く一葉に知らせてあげたくて急いで来たのだという。かくして孤蝶はその年の九月二日、英語教師として彦根中学へ赴任するために東京を離れる事になった。

 その後も孤蝶は、彦根から一葉に何通もの手紙を書き送っている。一葉の日記には、
「此月にいりてより文三通、長きは巻紙六枚かさねて二枚切手の大封じなり」とあり、孤蝶からの便りがいかに頻繫で、長いものであったかを窺わせる。

 孤蝶の手紙は一葉にとっても興味深い内容が多く、彼女は彼からの手紙を楽しみにしていたし、自分からも手紙を何度も書いた。

 たとえば、ある時の孤蝶からの手紙には、彼は一葉のことを「世のすね者」と評し、青春の喜びを棄て、人生を達観して生きているとした。その訳は恋に破れたことが原因ではないだろうか、などと書いている。

 あなたをお姉さまのように思っている、と言っていた孤蝶。一葉の方も孤蝶のことを「心うつくしき」人とし、彼に対して好感を抱き続けていたことは確かだ。しかし二人の関係は、あくまでも親しい友人同士であった。

 さて、孤蝶の一葉に対する深い敬愛の念は、一葉の死後、彼が果たした功績にはっきりと表れる。孤蝶は一葉に関する回想や随筆を数多く残し、生涯、一葉文学の普及に努めたのだ。特に明治四五年、はじめて一葉の日記を収録した『一葉全集』が発行されたが、編纂にあたったのは他ならぬ孤蝶であった。

星野天地(ほしのてんち)一八六二~一九五〇.編集者。評論家。『文学界』の中心人物。雑誌『女学生』に一葉を評価する文章を掲載し、一葉を本格的作家の道へと推し進めた。

『文学界』編集人の来訪

 ここで、『文学界』について改めてふれておきたい。『文学界』は明治二六年一月に創刊された同人誌で、編集人は星野天地であった。芭蕉、西行、吉田兼好、鴨長明(かものちょうめい)といった古典文学への共感に加え、西洋文学の影響もあり、明治浪漫(ろまん)主義の中心となった雑誌である。

 浪漫主義とは、人間の内面の解放を求めて、内部にある真実を尊重する精神傾向であった。具体的には、恋愛至上主義であり、後には厭世(えんせい)主義を主唱した。

『文学界』の前期においては、北村透谷(とうこく)がキリスト教思想を背景に精神世界、ロマン的世界に関連して、優れた評論を発表している。ただし、『都の花』などに比べると一般的な知名度は低く、同人たちに確かな原稿料が支払われることもなかった。同人には、平田禿木、北村透谷のほか、馬場孤蝶、戸川収骨、島村藤村、戸川残花。上田敏らがおり、客員には田山花袋(かたい)、国木田独歩らがいた。一葉も客員の一人であり、同人になることはなかった。

 そうした中で、一葉には、わずかながらも原稿料が支払われていた。この便宜(べんぎ)を図っていたのが『文学界』の中心人物であった星野天地である。先述した通り、『うもれ木』を読んだ禿木から「異彩あり」の連絡を受けて、手紙により、はじめて一葉に『文学界』への寄稿を申し入れた人物だ。

 天知は文久二年(一八六二)、江戸日本橋に生まれた。明治二二年、東京農科大学を卒業、翌年明治女学校に迎えられる。やがて『女学生』を創刊し、自分で執筆も行った。そこで禿木ほか、北村透谷や島崎藤村らとの交流を深めている。後に自ら編集人になって、彼らとともに『文学界』を創刊。随筆や評伝などの執筆も行ったが、主に編集、会計を担当した。

 一葉と天知は、実際に会う以前から何度か書簡でのつき合いがあり、明治二六年一一月二九日の日記には、「天知子よりの文は詞(ことば)のたくミあり(中略)禿木子のはまだわかくやはらかく愛敬ありてとヽのはざるしも末たのもしき様也」とあり、天知、禿木、どちらに対しても一葉は好感を抱いていたことがわかる。

 一葉は禿木と知り合ってから約一〇カ月ほど後になって、ようやく天知と直接顔を合わせた。明治二七年の一月一三日のことである。当時、天知は三二歳であった。一葉が抱いた第一印象は次の通りである。

「星野君はじめて来訪 かねておもひしにハかはりていとものなれがほに慣れ安げの人也としの頃ハ三十斗(ばかり)にや 小作りにて色白く八丈もめんのきものに黒もん付の羽をり二重まわしをはをりて来たりき」
 前から想像していたのと違ってとても世慣れた感じで、意外ととっつき安い人だったというわけだ。この日、いろいろ語り合ったようだが一葉の日記には詳細に記されていない。

 一方、天知もこの一葉との初対面の日の思い出を書き残している。当時の樋口家の様子が簡潔に伝えているので、天知が一葉の家を探している描写から引用する。
「其町は𠮷原遊女町続きの有名な細民家だから、鳥渡行(ちょっとい)き憎かつたが、泥中(でいちゅう)に蓮花(れんか)を探る気で俥を飛ばした。幕府瓦解(がかい)で御家人一家の困窮(こんきゅう)、搗(か)てヽ加えて女手ばかりの薄命さを繰り出す老母の物語に心も動き始めた時、小柄で猪首(いくび)な町屋風の娘が挨拶した。尾羽打(おはう)ち枯らした二四五の飾らぬ風采(ふうさい)、稍稍険(しょうしょうけわ)しくはあるが、ブラウドの高さ光は大いに畏敬(いけい)するものがあった」(『黙歩七十年』)

 以降、一葉は『文学界』において、明治二七年二月から四月にかけて「花ごもり」(一四号、一六号)、七月から一一月にかけて「やみ夜」(一九号、二一号)、一二月に「大つごもり」(二四号)、そして翌年一月からは「たけくらべ」(二五~三七号)と、作品を発表していく。それらはいずれも、禿木と天知による原稿の依頼と督促の結果であった。

 天知はあくまでも一葉の編集者の一人として接し、二人の距離がそれ以上縮まることはなかった。禿木や孤蝶、秋骨ら『文学界』の二十代の青年たちが一葉の家に通い詰めたのに対して、天知は「あやしいき事に邪推なして」と、独身女性のもとに男たちを集めるのはいかがなものかと、小言を言ったという。だが、一葉に対してはあくまでも礼儀を尽くし、自ら原稿料を届けに訪れるなどの心遣いを見せていた。

 やがて時間が経つにつれて、一葉と天知は次第に縁遠くなっていく。明治二九年の『文学界』の新年会においては、天知が一葉と花圃を、別席を用意すると言って誘っているが、一葉はこれを断っている。以降も二人が直接会った記録は残っていない。

 禿木らが一葉の家に通い詰めて胸の内を語ったのに対して、天知と一葉の間には文学的、精神的な交流は少なく、その人間性から一葉が受けた影響は少なくないと思われる。しかし何よりも『文学界』の編集人として、作家一葉に進めさせた天知の功績は大きい。

「大つごもり」の誕生

 明治二七年五月一日、樋口家は本郷丸山福山の家に転居したが、一葉の才能が一気に開く時、「奇跡の一四カ月」はすぐそこまで近づいていた。
「奇跡の一四カ月」とは、作家で一葉研究の第一人者であった和田芳恵氏が命名した言葉である。「大つごもり」「たけくらべ」にはじまり、「軒(のき)もる月」「ゆく雲」「うつせみ」「にごりえ」「一三夜」「わかれ道」などの作品を一葉が続々と発表した、明治二七年一二月から明治二九年一月にかけての時期を指し示す言葉だ。

 一葉が小説家として「闇桜」でデビューしたのは明治二五年三月。その後、半井桃水との恋愛と別れ、一向に儲からない龍泉寺町での小商い、久佐賀義孝との際どい交渉、『文学界』の人々との交流などを経験するうちに、彼女は一人作家として、着実に内なるエネルギーを蓄えていたのだ。

 ここへきてようやく彼女の執筆活動は活発化する。後世に残る名作を次々と世に送り出すことになるが、その一弾と呼べる作品が「大つごもり」である。

 明治二七年一一月二四日付で、天知は一葉に葉書を出した。そこで彼は、一一月三〇日号で完結する「やみ夜」について批評した後、「来年始めに売出すべき次号へ何か新もの御考案置被下度(ごこうあんおきくだされたく)」と、新作の依頼をしている。この時、天知は一葉に二〇円を融通すると書いた。これには「やみ夜」の原稿料も含まれていた可能性はあるが、とにかく貧困にあえぐ一葉にとってそれは必要な金であったことは間違いない。

 さらに禿木からも一二月四日付で「あつかましくは候(そうら)へ共(ども)又々何か御認めの程偏(ほどみと)にねがひ上げ候(そうろう)」という葉書が一葉のもとに届く。こうした相次ぐ『文学界』からの要請によって、一葉は「大つごもり」を執筆したのであった。大つごもりとは、大晦日(おおみそか)のこと。これはある資産家の家を舞台に描かれた、年末の物語である。

 主人公は、奉公人に対して厳しい山村家で下女として働く一八歳のお峯(みね)。両親を早くに亡くしたお峰は伯父夫婦に育てられた。その育ての親である伯父は病に伏しており、お峯が一二月の半ばに見舞いに訪ねてみると、一家は困窮していた。伯父は高利貸しに支払う利息分と正月の雑煮代として二円の金策をお峯に頼んだ。

 大晦日。お峰は山村の御新造(ごしんぞう)に借金を申し出たが、冷たく断られる。思い余ったお峰は掛硯(かけすずり)の引き出しにあった二〇円の中から二円を盗み出してしまった。

 実はその日、山村家の先妻の息子にして放蕩者(ほうとうもの)の石之助が帰宅していたが、夜、彼は父親から五〇円をせしめて帰っていった。その後、大勘定(おおかんじょう)といって家中の金が改められた。出しの文も拝借致し候 石之助」という書き置きだった。

「井戸は車にて綱の長さ一二尋(ひろ)勝手は北向きにて師走の空のから風ひゆうひゆうと吹ぬきの寒さおヽ堪えがたと竃(かまだ)の前に火なぶりの一分は一時にのびて割木ほどの事も大台(おおだい)にして𠮟りとばさるヽ婢(はした)女の身つらや」

 読者はこの冒頭で、山村家の下女の辛い日常を一瞬にして連想する。一葉のそれまでの作品に時に見られていた不要な修飾詞は一切そぎ落とされ、読む者をぐいぐいひきつけていく筆致になっている。

 一葉はこれまで、両親を早く亡くし、乳母や家来にかしずかれて世間から隠れるようにして暮らす、没落した家のお嬢様を主人公にすることが多かった。そこに自分が投影されていたことは明らかで、いわば少女の夢物語的性格を持っていたこと否めない。

 しかしこの「大つごもり」は違う。幼い頃から苦労し、下女として働いている下層社会に生きる女性が主人公である。そして、一葉は裕福な山村家の贅沢な暮らしぶりと、お峰やその叔父の家の貧しく辛い暮らしぶりを写実性をもって描き、見事に対比させた。
明治29年2月『太陽』に掲載された「大つごもり」。
本写真
 また、「綱の長さ一二尋」など具体的な数字が度々登場するのも、この作品の特徴の一つである。前田愛氏はこの点について「『大つごもり』の構造」において、「あらかじめ『量』と『物』の輪郭を鮮明に具(そなえ)た世界」と表現している。つまり、こうした手法によって、そこに描かれている世界にはいっそうのリアリティが備わったと言える。

 一葉はようやく、自分の頭や書物の中に描かれていた夢物語から離れて、自分の目で見、耳で聞き、肌で感じてきた現実を素材にした文芸作品を完成させたのである。馬場孤蝶は早くから、この「大つごもり」こそが一葉の転機となった作品であると述べていたが、現在でも、これが定説となっている。

 ちなみにこの作品は井原西鶴(さいかく)の『世間胸算用(せけんむねさんよう)』の影響が
色濃いと指摘されている。実は明治二七年一〇月一九日付の禿木から一葉宛てた手紙には、約束していた西鶴全集を近いうちに持参するとあり、その頃、彼女が禿木からこの本を手に入れて読んだであろうことが知られている。

龍泉寺町と「たけくらべ」

 こうして一葉の執筆生活は、いよいよ本格的に動き出された。天知と禿木は、なおも一葉に執筆の依頼を続ける。そしてついには明治二八年一月三〇日、『文学界』二五号より、一葉の代表作となる「たけくらべ」の連載が開始する。最終回が掲載されたのは翌年の一月三〇日の三七号で、作品は約一年にわたり、執筆。掲載された。

 実際には、明治二八年からその翌年にかけて、つまり「たけくらべ」が連載された頃、一葉は「にごりえ」や「一三夜」などの作品も並行して執筆している。このため、どの作品がいつどう書かれたかを特定非営利活動法人するのは困難だ。

 大音寺前を舞台とした「たけくらべ」の構想は、当然、一葉が明治二六年七月二〇日から翌年の四月三〇日までの龍泉寺町での生活から生まれているが、すでにそこに住んでいた頃から草稿がいくつか書かれていたのであろうと推察されている。

 野口硯氏によれば(『樋口一葉全集』第一巻 筑波書房 昭和49)、第二五号掲載分の一章~三章までの成立は以下の通りである。

 一葉は明治二八年一月二二日付けの書簡で天知より『文学界』二五号のために原稿に手を入れ、タイトルを当初考えられていた「雛鳥(ひなどり)」から「たけくらべ」に改めた。これを二三日頃までに清書して、天地が指定した二四日に間に合わせた。

「たけくらべ」というタイトルは、『伊勢物語』の中の、『筒井筒(つついづつ)の段』にある幼馴染を詠った二首の歌に由来している。それは、この物語の主題と登場人物たちの関係を一言で表しており、古典に通じた一葉らしい、優れた名題だ。

「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯黒溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの俥の行来にはり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申しき」

 有名な書き出しである。当時の吉原の情景が読む人の目の前に広がってくる。
 ここに住む十代の子供たちは、鳶頭(とびがしら)の息子で一六歳の長吉が率いる「横町組」と、高利貸しの孫で一三歳の正太郎が率いる「表町組」とか、何かつけて対立していた。表町組には、妓楼(ぎろう)「大黒屋」のお職(しょく)女郎(もっとも売れていた花魁)の妹で、子供たちの女王各、一四歳の美登里(みどり)がいた。また、竜華寺(りゅうげじ)の長男で、おとなしく成績も優秀な一五歳の藤本信如(しんにょ)は、中立的な立場にいた。

 八月、千束(せんぞく)神社の祭りの直前、長吉は信如に仲間に入ってくれと頼み込み、信如もこれを承知した。祭りの夜、長吉は美登里に「何を女郎め頬桁(ほおげた)たヽく姉の跡つぎの乞食め」(頬桁たたく=物を言うことを卑しめて言う語)と言って彼女の額に泥草履を投げつけ、「此方には竜華寺の藤本がついて居るぞ」と言って去っていった。それ以来、密かに信如を慕っていた美登里は彼を恨むようになる。

 時は過ぎ、一一月三日の酉(とり)の市の日に、大鳥神社の祭礼で正太郎は、島田に髪を結い京人形のように着飾った美登里をみつける。しかし、美登里はなぜか不機嫌で、正太郎は、すっかり内気な性格になってしまった。そしてある霜(しも)の下りた日、美登里の家の格子戸に造花の水仙が差してあった。その日は信如が仏門に入るために町を立ち去る日であった。

 一葉は大音寺前に住む市井(しせい)の人々の暮らしを、そこに住む子供たちを登場人物としながらリアルに描き出した。またそこには、千束神社の夏祭りと初冬の酉の市という二つの祭りが、前半と後半の山場として効果的にストーリーに組み込まれている。これによって、いっそう物語に臨場感と日本文学ならではの季節感が与えられた。

 この作品は一見、少年少女たちが大人になる直前に味わう成長と淡い恋の物語のようにも思える。しかし描かれているのは決してそれだけではない。吉原という遊郭があればこそ暮らしていける、大音寺前の人々の厳しい生活と、そこから生まれてくるやり切れない憤懣(ふんまん)、そしてそれでも生きていかなければならない人々の運命とそれぞれの立場の心の機微(きび)が見事に浮き彫りにされている。

 また、従来、美登里が不機嫌になった理由は、初潮であると考えられてきた。しかし、昭和六〇年に佐多稲子氏が「『たけくらべ』解釈へのひとつの疑問」を発表し、美登里の変貌は、姉と同じように女郎として店に上がる事になったとする初店説を提起して注目された。この問題については、すでに「子供たちの時間―『たけくらべ』試論」などを発表していた前田愛氏の間で論争となり、それぞれの説に対して多くの賛否両論が出た。

 いずれにせよ、美登里も信如も、子供の世界から離れて、それぞれの道を歩む時がきたというところで「たけくらべ」は完結している。一葉はその物語の中で、やがて正式に仏門に帰依(きえ)し、一生仏に仕えて生きて行くしかない信如を「聖」、やがては女郎となって、吉原の中で生きていくしかない美登里を「俗」の象徴として、決して相容れることのないこの二つの世界の構図を描き切ったと言えるだろう。

 ちなみに、「たけくらべ」の登場人物は、ほとんどが実在のモデルがいたという。「正太郎のモデルは美しい少年であった。祭りの時の姿は見せたかった」と一葉自身が語ったと、後に孤蝶が証言している。

 一葉が竜泉寺町で暮らすことがなかったら、この作品が生まれることはなかっただろう。そう考えるとも一度は小説の道を諦めて彼女がかの地に引っ越した体験は、後から見れば一葉の人生にとっては大変意義のある期間だったことになる。こうした挫折と苦労が、人間としての一葉ばかりでなく、作家としての一葉を、一回りも二回りも成長させたことは言うまでもない。

 また、この作品の評価を一気に上げ、女流作家・樋口一葉の名をいよいよもって世に知らしめたのは、明治二九年四月一〇日、『文芸俱楽部』での一括掲載であった。その事情については、次章でもう一度ふれる。

 さて、明治二八年の春に話を戻そう。「たけくらべ」が『文学界』の二六号、二七号に、それぞれ四~六章、七~八章まで書かれた後の、おそらく三月二二日頃からも一つの作品が書かれている。貧しい裏屋に育ち、勤勉な職工を夫に持つ、一児の母が主人公である「軒もる月」だ。これは『文学界』の同人で『毎日新聞』の客員でもあった戸川残花からの依頼を受けたものであった。

川上眉山(かわかみびざん)

一八六九~一九〇八.小説家。尾崎紅葉が中心だった「硯友社」の同人。代表作に「墨染桜」「書記官」がある。『文学界』を通じて一葉と親しくなる。

文壇の寵児・眉山から受けた刺激

 樋口家に集うのは、はじめは禿木や孤蝶ら、『文学界』の青年たちだったが、やがて一葉に文学を請う入門者、他の雑誌の編集者、作家、新聞記者らもやってくるようになった。

 その中に、当時、泉鏡花と並んで文壇の寵児(ちょうじ)と言われていた、川上眉山がいる。眉山は明治二年、大阪で旧幕臣の家に生まれた。幼いうちに両親と上京し、府立一中を経て、大学の予備校在学中に、尾崎紅葉、山田美妙(びみょう)、巌谷小波(さざなみ)らと知り合う。明治一八年、尾崎紅葉が中心になって結成された文学結社「硯友社(けんゆうしゃ)」の同人となった。その後東京帝大法科大学に進学したが、後に文科に転じ、明治二二年には中退して、作家としての道を歩んでいた。同年には「墨染桜」を発表している。

 一葉とはじめて出会った明治二八年には、当時の出版社最大手であった博文館の『文芸俱楽部』に「大さかづき」、『太陽』に「書記官」を発表し、好評を得ていた。眉山の小説は「悲惨小説」または「観念小説」と呼ばれ、それまでのもと異なり、社会観や人生観を主題としており、新しい小説の形として注目を集めていたのだ。

 当時の眉山は硯友社に物足りなさを感じ、平田禿木を通して『文学界』とも交流をもち、孤蝶、藤村らと親密になっていた。かくして、明治二八年五月二六日、午後三時頃。孤蝶と禿木に連れられて、眉山ははじめて丸山福山町の樋口家を訪れた。それは、「たけくらべ」の連載が半ばにかかった頃のことだ。

 一葉は眉山との初対面を次のように記している。
「としハ二十七とか、丈(たけ)たかく色白く女子(おなご)の中にねかヽるうつくしき人ハあまた見がたかるべし 物いひて打笑(うちえ)む時頬のほどさと赤うなるも男にハ似合しからねどすべて優形(やさがた)にのどやかなる人なり かねて高名なる作家ともおぼえず 心安げにおさなびたるさま誠に親しみ安し 孤蝶氏のうるはしきを秋の月にたとへば眉山君は春の花なるべし」

 美に敏感であった一葉は、眉山の美男ぶりにも目を見張った。さらに、孤蝶の風情を柳橋の芸者に喩(たと)え、一方の眉山を京都の舞姫としている。

 眉山は、四、五年前からあなたの名前は聞いていたのに訪ねる機会もなく失礼しましたと挨拶し、これからは遠慮なく話しかけてくださいと言った。そして、来月あたり、二人の著作を一冊にして春陽堂(しゅんようどう)から出してはどうでしよう、などと語った。

 この日、眉山は初対面にもかかわらず、小説の登場人物の話や、小説家という仕事がいかに大変かという話から、自分が朝寝坊でだらしがない話など、果てることなく語り続け、孤蝶と政治論も戦わせた。一葉は、話の尽きない三人に鰻を取り寄せて振る舞っている。世に知られた、しかも美しく、好感の持てる眉山の来訪に、奮発したのであろう。

 眉山はその後度々一葉を訪ねる事になる。二度目に来訪ですでに一葉は眉山に対して「三年の知人に似たり」と好感を抱き、すっかり意気投合している。日記を読む限り、一葉は眉山をかなり好意的に思っていたことが察せられる。

 特にその一週間後、六月二日にやってきて一葉と交わした会話は、一葉に大きな刺激を与えたものとして、注目されるものだ。眉山は言う。
「こは君が筆に一転化(いってんか)の来るべき時機(じき)なめり、ひたすらなつかしくやさしき方(かた)をのミ取出(とりいず)るやう成し人のかくて誠に心もだへば人世(じんせ)のうくつらき人の情のありて無きなどこまかにうつし出るやうに成なんも斗(はかり)がたければこハこれ一級をすヽむる時ならんうれし」
(今、あなたの作品に一つの変化が起こる時期なのでしょう。ひたすら人生のなつかしくやさしい部分だけを取り出してきた人が、このように本当に心を悩まし人生の苦しさや辛さ、人の情けの有り無しなど細かに描写するようになるのであれば、これはきっと一段階進時と言うことでしょう。嬉しいことです)

 この時一葉は、自分の身の上話を眉山に聞かせた。すると眉山は一葉を「君は誠にをとなしくやさしき人におはしけり 思ひがけぬまですなほなる人成けり」と言い、そのように柔和(にゅうわ)な心でこんな浮世を渡っておられるのは、心の奥のどこかに強いところがあるからでしょうとして、次のように一葉に語った>

「自伝をものし給ふべし、今わが聞参(ききまい)らせたる所斗(ばかり)にてもたしかに人を感動さするねうちハたしか也 君が為(ため)にハ気のどくなれど君が境界(きょうかい)ハ誠に詩人の境界なるかな おもしろき境界なるかな」

 眉山は、一葉に自伝を書くことを勧めたのである。あなたには辛い生活だったかもしれないが、あなたの境界は本当に詩人の境界で興味深い、と言っている。さらに彼は一葉にこう語りかけた。

「ふるひたち給ふべし 君にして女流文学に志し給ハんか 後来(こうらい)日本文学に一導(いちどう)の光を伝えて別に気魂の天地に伝わるものあるべし 切(せつ)に筆をもてた世にたち給へ」
 思い立ってください、あなたが女流文学を志すなら、今後の日本文学に一筋の光を伝え、また精神の力をこの世に伝えることになるでしょう。ぜひとも筆で世に立ってくださいと。

 これに対して一葉は、「そヽのかし給ふな さらでも女子ハ高ぶり安きを」(そそのかさないでください。ただでさえ女はいい気になりやすいのですから)と言って受けがしているが、当時評判の作家であった眉山にここまで言われて、一葉の心も揺れたに違いない。

 眉山は、そんな一葉を見て、あなたは人が勧めないと書かない人だから、自分が出版社へ相談に行って、どんどんあなたに催促するように言っておきますと話して、その日は帰っていったという。

 眉山は一葉に、自分の経験と実感に基づいて、精神的な葛藤、人生の裏表などを細かに写実することを勧めたのであった。かつて一葉は、小説の師である桃水から、大衆の趣味に迎合して「奸『=訓おかす』臣賊子(かんしぞくし)の伝や奸婦淫女(かんぷいんじょ)の話」を書かなければ売れないと教えられて、小説修行を始めた。それはやがて行き詰まり、一葉は自分で試行錯誤を繰り返しながら作家としての道を切り開いてきたわけだが、小説を書く上でもっとも大切なことが何であるか、この時の眉山は的確に言い当て、一葉の背中を押したのである。

 ちょうどその頃、六月一〇日の日記には「小説著作に従事す 前編一五回七五枚斗のものつくらんとす」とある。一葉は『文芸俱楽部』より、少々長い小説の執筆を迫られていたのだ。そうした中で、一葉が眉山からの示唆も受けて書き上げたのが、名作「にごりえ」だと考えられる。

「にごりえ」の世界

 一葉が「にごりえ」に着手したのは、眉山から自伝を書くよう勧められた明治二八年六月二日の数日後、六月一〇日頃と考えられる。一葉は七月いっぱいでひとまず「にごりえ」の第七章まで書き上げて『文芸クラブの編集者である大橋乙羽に渡し、難航した第八章は八月二日付けで乙羽に送ったようだ。
「たけくらべ」の舞台は一葉が以前住んでいた竜泉寺町だったが、「にごりえ」の舞台はまさにその時住んでいた丸山福山町近辺であった。雑記の一つ「しのぶくさ」には以下のようにある。

「となりに酒うる家あり、女子あまた居て客のとぎする事うたひめのごとく遊びめに似てり」
 うたひめとは、芸者のことだ。樋口家の隣にあったのは、鈴木亭といって、「にごりえ」の銘酒(めいしゆ)屋「菊の井」のモデルとなった店である。この店の向こう側には新開(しんかい)と呼ばれる銘酒屋街が広がっていた。同じ雑記には次のように続く。

「うしろは丸山の岡にて物しづかなれど前なるまちハ物の音つねにたえずあやしげなる家のミいと多かるを」
 当時、丸山福山町は場末の花街として栄えていた。ここで一葉は、花街の女たちから手紙の代筆をよく頼まれた。宛名はいつも違っていて、その数は数え切れないと、一葉は同じ雑記に記している。

「にごりえ」の主人公は、そんな新開の銘酒屋菊の井の売れっ子酌婦(しゃくふ)、お力(りき)だ。物語は、菊の井の店先でお力と呼ばれる中肉の背格好(せかっこう)すらりつとして洗い髪の大嶋田(おおしまだ)に新(しん)わらのさわやかさ、頸(えり)もと計(ばかり)の白粉(おしろい)も栄(はえ)えなく見ゆる天然の色白これみよがしに乳のあたりまで胸くつろげて、烟草(たばこ)すぱ乀長烟管(ながきせる)に立膝の無作法さも咎める人なきこそよけれ、思ひ切ったる大形(おおがた)の浴衣に引かけ帯は黒襦子(じゆす)と何やらのまがひ物、緋(ひ)の平(ひら)ぐけが背の処に見えて言はずと知れし此あたりの姉さま風なり」

 菊の井の店先で人目を引くお力の女ぶりと、その姿が、まるで絵物語のように浮かんでくる、実に見事で、読者の興味をかきたてる描写である。

 お力にはもともと、布団屋の源七という妻子持ちの馴染(なじ)みがいた。しかし、源七はお力に入れあげて店をつぶし、今は土方の手伝いをしながら路地裏で長屋暮らしをしている。

 梅雨時のある日、お力は結城朝之助(ゆうきとものすけ)という裕福な紳士風の「身は無職、妻子無し」男を強引に店に引き込んだ。やがて馴染みになった朝之助は、お力に「履歴をはなして聞かせよ定めて凄ましい物語があるに相違なし」と聞くが、お力ははぐらかし続けていた。

 お力は人のよい一途な源七の気持ちを理解していながらも、その幼い息子の太吉から「鬼、鬼」と言われたことに胸を痛め、店にやって来た源七をわざとつれなく追い返す。

 お盆の夜、店の客の相手をしていたお力は、「我恋は細谷川の丸木橋わたるにゃ怕(こわ)し渡らねば」と謳(うた)いかけたところで突然店を飛び出して町の闇を彷徨(さまよ)う。自分が謳った丸木橋の歌が頭の中に響き、自分も思い切って危険な丸木橋を渡るしかないのだと己の運命を憂う。気が狂いそうだと不安になっていた時に偶然朝之助と出会い、二人は店に戻った。お力は朝之助に、自分の素性や祖父の代から続く不遇な生い立ちをすっかり告白するが、話を聞いた朝之助は「お前は出世を望むな」と言うだけだった。お力はその晩、彼を店に泊める。

 翌日、お力は偶然太𠮷と出会い、高価なカステラを買い与える。しかし太𠮷はカステラを持ち帰ったところ、これが火種となって、源七と女房は喧嘩になり、女房は太𠮷を連れて家を出て行ってしまった。

 お盆の数日後、二つの棺を見送ってささやきあう人々の姿があった。実は、源七はお力を寺の山にさそいだし、後ろから袈裟懸けに斬りつけた後、自分も切腹自殺したらしい。その後、その山には人魂(ひとだま)が飛ぶという噂が立った。

「にごりえ」とは、「濁った水の入り江や川」をさす。一葉はこのタイトルによって、お力が生きている花街を、さらに銘酒屋の酌婦というその境遇を「濁った水たまり」と表現した。
 ここに描かれているのは、銘酒屋の酌婦という、社会の最下層で一人生きる女の姿であり、一葉は「たけくらべ」同様、その時代の下町にいきる人々の現実を鋭い視線でえぐり出している。

 お力をめぐる男二人のうち、朝之助は素性を明かしていないが表社会に身を置いている成功者であり、彼は外からふらりとこの「にごりえ」にやってくる立場の人間である。これに対して身を持ち崩して、家族からも周囲の人間からも見捨てられ、最後にはお力と無理心中してしまう源七の方は、やはりお力と同じ「にごりえ」に引き込まれた人間だ。一葉は、こうした対比をもって、いっそう社会の不条理と人生の虚しさを表現している。

 また、お盆の夜になってようやく身の上話を告白したお力に対して、朝之助が「お前出世を望むな」と言う場面がある。この「な」については、否定ととるか詠嘆(えいたん)ととるかで論争にもなったが、いずれにしても、やっとの思いで身の上話を打ち明けたお力に対して、朝之助は単なる話の聞き手でしかなく、新開地の酌婦として生きる女の「凄まじい物語」が聞いてみたかっただけであったことが、このセリフから伝わってくる。

 こうして、当時、お力のような女性が悲惨な人生から這い上がるには、経済力のある男の妾になる以外なかったという現実を、さらにそれさえもお力は望むべくなかったという悲惨さを、一葉は作品の中に組み込んだ。

 一葉は「にごりえ」の結末である第八章を書き上げるのに、大変苦労した。最終的に彼女は、初期の作品によく見られた、主人公が死んでしまう結末を選んでいる。そして、最期の様子を明確には書き表さない「隴化(ろうか)」という一葉文学の特色ある手法で締めくくった。この点についても、無理心中なのか合意の上の心中なのかといった論争も生まれている。

 眉山と一葉を遠ざける噂

「にごりえ」において、祖父の代から不遇な家に育ったお力の苦しみは、則義や泉太郎を失って没落した樋口家の娘である一葉の嘆きと重なる所がある。そうした視点で見ると、「にごりえ」は、「ぜひ自伝を書いてください」と言った、眉山の言葉に突き動かされて、一葉が自分の心の奥をさらけ出した作品と言う事ができるだろう。

 また、酌婦・お力の悲惨な人生を描いた「にごりえ」は、明治三〇年前後に一時流行した「悲惨小説」の一つと見なされることがある。悲惨小説は観念小説、深刻小説ともいい、お力や源七のような最下層に生きる人々の悲惨な姿を写実的に描き、社会に対する批判をその作品に盛り込んだものであった。

 それは広津柳波(ひろつりゅうろう)や川上眉山ら硯友社の若手によって試みられた小説の一形態であり、そのどぎつい趣向によってあっという間にきえてしまったものだ。柳波「変目伝(へんめでん)」、眉山「書記官」などが有名である。このように、社会の底辺を深く見据えるという姿勢においても、一葉と眉山は、互いの考え方に相通じるものを感じていたかもしれない。

 ところで、一葉と眉山の関係はその後どうなったのだろうか。「にごりえ」が脱稿した後、一葉と眉山はますます親密になっていた。その年の一〇月頃などは、連日のように樋口家を訪れており、一葉にとって最も親しい人物となっていた。

 この頃の、一葉の交友関係を改めてみると、それまで親友のように親しくしていた孤蝶はすでに仕事で彦根にいってしまっていた。禿木はしょっちゅう手紙を書いてきたり、訪ねてきたりしていたが、一葉と孤蝶の間柄を妬(ねた)んでいたようで、それがいやで一葉は一時彼を遠ざけていた。秋骨も来ていたが、長居をするのでとくにいやがられている。

上田敏もよく訪れていたが、かれだけはいつも上品で、学問の匂いを漂わせていた、と一葉は日記にしたためている。このように、前年の五月、『文学界』の中心人物であった北村透谷が亡くなってからというもの、”一葉サロン”はその同人たちの支柱となっていた。

 明治二八年の九月には「にごりえ」が年末には「一三夜」も発表されて、作家としての一葉の名声は、いよいよ確かなものになっていた。女流文学者の中でも随一の新人などと、一葉曰く「珍しげにうるさいほど」もてはやされたようだ。だが、そうなってくると世間は一葉をそっとしておかなかった。

 年が明けて明治二九年一月、一葉の耳によからぬ噂が入って来る。眉山と一葉が婚約しているというのだ。しかも、尾崎紅葉が仲人であるなどと、まことしやかに言う者もいて、文壇中では知らない者はいないという。一葉は、この噂についてあきれると同時に、眉山が何も言わないことを訝(いぶか)しく思った。

 眉山は一葉と親しくするうちに、女性としての彼女に興味を持ったのかもしれない。一葉の日記によれば、その月の八日、樋口家にやってきた眉山は、断る一葉を説き伏せて、彼女の写真を借りていったという。他にも、一葉に急に縁談を世話してほしいとせがむなど、何かと妙な言動が眉山にあり、一葉の心は急速に彼から離れていく。その後、眉山の足も樋口家から遠のいていった。

 結局一葉は、孤蝶同様、眉山とも、同じ文学を志す者同士の関係にはなり得なかった。だが、二人の交流が途絶えることはなく、一葉の最期の時まで続くのであった。
つづく 第四章 「奇跡の一四カ月」に出会った男たち