不思議な羨ましさも嫉妬もあまり感じられない。由利恵んちの旦那は有名大学を出て一流企業に勤めてて、背も高くて美形で、おまけに皿まで洗ってくれるんだよねぇ。と他人事のように思うだけだ。実際。他人事なのだが

本表紙

日向の影 岩井志麻子

1 正反対の二人が友人なのは?

小学生でも、いや、幼稚園児でもわかることではないか。「仲良し」というのは、お互いに相手を好きで、お友だち関係を続けている間柄だというのは――。
「しっかし何度会っても不思議だよなあ、由利恵(ゆりえ)さんて」
 TVゲームにも飽きた雅典(まさのり)は寝転がったまま、智美(ともみ)の買ってきた女性週刊誌など見る気もなくぱらぱらとめくっていた。

 ただでさえ狭い1DK。男としては小柄な雅典だが、日がなそうやって寝転がられていては、かろうじてマンションと呼ばれる安アパートの一室は暑苦しくてならない。今は、西日のきつい夏の夕暮れ時なのに。

 建物が、部屋が安いというよりは、暮らしている人々がみんな安い。特にこの101号室は・・・・と、智美は自嘲気味に笑う。ま、あたしはこの男よりはちょっとだけ高いか。ほんのちょっとだけ、だけど。
「何が不思議よ、何が」
 実はもう、何度もその会話は交わされているのだ。二人の間にはもう、目新しい話題も会話もないので、同じ話を何度もしてしまう。

 そんな話しあきあき聞き飽きた話題の中でも、智美の「仲良し」である由利恵の話は、雅典がよく持ち出すものの一つだった。

 インスタントコーヒーでもいれようかと、せせこましいキッチンの、いっても流し台と冷蔵庫と食器棚があるだけの雑然とした部屋の隅だが、そこに面倒くさそうに立った智美は、もっと面倒くさそうに一応は聞き返す。答えは、わかっているのに。
「ん。そりゃやっぱ、なんで智美なんかと仲良しなのかな~っ、て」
 智美なんか、ってどういう言い方よ。智美なんか、って。これまた、いつもながらの腹立ちだ。しかし何度も言われても腹が立つ。それこそ、あんたなんかに言われたくないわ。顔をしかめたのは、雅典の無神経な物言いにばかりではない。

 すでに狭いシンクは、汚れた茶碗や皿で溢れ返っていた。雅典、おまえは内縁の夫だのカレシだのと呼ぶのもためらわれる居候のヒモなんだから、片付けくらいしろっていうんだ。女性週刊誌じゃなくて、その横の求人情報誌をめくるふりでもしてみろ。

 智美はちらりと、インテリア雑誌のグラビアに出てきそうな洒落た広いキッチンで、器用に皿を洗っていた由利恵の背の高い夫を思い出す。

 不思議な羨ましさも嫉妬もあまり感じられない。由利恵んちの旦那は有名大学を出て一流企業に勤めてて、背も高くて美形で、おまけに皿まで洗ってくれるんだよねぇ。と他人事のように思うだけだ。実際。他人事なのだが。

 他人事はみんな、夢みたいなものだ。見られても、実際にはつかめない。
 ちゃちな作り付けの食器棚には、もう湯飲み茶碗が残っているだけだ。コーヒーカップを洗うのも面倒だから、それを飲むことにする。これが、智美の揺るぎない現実だ。
 なんかこれって、いちいちあたしたちを喩えているみたいだな。智美は食器棚を開ける。ちゃんとコーヒーカップで飲みたいけど、湯飲み茶碗でも飲めないことはない。それは、好きで一緒になりたい男はいたけど、雅典でもまあ、一緒に暮らせないことはないって。高校が同じだったから、高校から仲良しになったのは間違いないけど」

 そうして、たまたま湯飲み茶碗が二つあったら。雅典にも、ついでにコーヒーいれてやってもいいかと思う。あくまでも、ついでに。汚れたケトルに水を入れていると、なんだかもうすべてがどうでもよくなっていく。

 決してこんな気持ち、由利恵にはわからないだろうな、と思う。いつも、思う。由利恵と一緒にいる時は常に、ああわかってくれないだろうねぇ、と。それは向こうもだろうか。いや、由利恵はそこまで智美のことなど考えていないような気がする。

 だって。由利恵はいつでも、正しいんだもの。いつでも、計画通りに真っ直ぐに生きているんだもの。どんな時だって、そんな自分が大好きなんだもの。
「高校時代からかぁ、へえー、そんならもう、お前ら十年続いてんだ。ふえー、俺そんなに長くもってる友達いねえよ」
「あんたは女も仕事もみんな、三ヶ月以上は持たないんだもんね」
「仕事はともかく、智美とは一年、もったじゃん」
 そう、対する智美は、雅典なんかと暮らすようになったのも、あんまり覚えていないのだ。勤めていたカラオケ店が同じだったら、そこで出会ったのは間違いない。

 特にいい男だとも思っていなかったはずなのに、気が付けばこんなふうになっていて、智美の部屋に雅典が転がり込む格好で一緒に暮らし始めていたのだ。ちなみに、それまで雅典は違う女の部屋に住み着いていた。

 前の彼女は、そこそこ売れているキャバ嬢だったらしい。雅典はその店のボーイをやっていて、やっぱり彼女といつのまにかデキて自分はとっと店を辞め、あっさりヒモに収まったという訳だ。まるっきり、あたしとおんなじじゃない。芸のない奴。

 もっとも智美は、その前の彼女みたいに売れっ子ホストを捕まえて、今度は自分が男の豪華マンションに棲みついて、稼ぎのない使い古した男はポイ捨て、といった器用な真似はできない。
そもそも三十にリーチがかかっている年では、キャバ嬢にはなれない。

 自分はこれから出勤して、夜明けまでカラオケボックスで地味に地道に真面目にお仕事だ、その間、雅典は何をするでもなくごろごろしている。もはや、清々しいと言っていいほどに、何もしない。してくれない。

 突然、映画監督になると撮影所へ雑用のバイトに行ったり、小説家になりたいと中古パソコンを買って来たり、やっぱり堅気の仕事に就くといってガソリンスタンドや工場に行ったりもするが、すべて一ヶ月、もって三ヶ月そこそこしか続かない。

 ものすごく短気ですぐ周りの人と喧嘩するとか、ではない、どちらかといえばのんびりした性格で、智美と暮らした一年の間に声を荒げるような喧嘩も、数えるほどしかない。それは智美の、優しいというよりはどこか投げやりな性質にもよるのだが。

 雅典はただ、怠け者で仕事が続かない。それだけだ。けれど智美は、前に暮らしていた男の粗暴さ些細なことですぐキレる怖さにはさすがに参っていたし、その前の風俗店に売ろうした借金だらけの陰気な男にはさすがに懲りていたから、雅典がのんびりしていて大人しい、いうだけでもいいか、と苦笑してしまうのだ。
「こんなの・・・・由利恵には一生わかんないだろうな」
 湿気って固まりかけたインスタントコーヒーの瓶にスブーンを突っ込みながら、呟く。それを訊いていたかのように、雅典があっちを向いて寝転がったままぽつりといった。
「でもさ。智美と由利恵さんて、ほんとうに仲良しじゃないんだよな」

 これだ。智美は湯を注ぎながら、ふとため息をつく。雅典はだらしなくバカで甲斐性なしで将来性も未来も、これっぽっちもないけれど、妙に、本当のことを言い当てる。変に、智美よりも智美を語ってくれる。だから、一緒に居続けるのかもしれない。

 本当は、仲良しなんかじゃない。もしかしたら小学生でも、いや、ちょっと賢ければ幼稚園児でもわかるかもしれない。智美と由利恵の間では「仲良し」という言葉が間違ったふうに使われているかもしれない、ていうのを――。

 一昔前、とカウントされる十年前。智美と由利恵は、地方の同じ高校に通っていた。
 そもそも二人が同じ高校にいたというのも不思議がられるが、なにせ田舎だったので、よほど勉強ができるかできないかでない限り、その町の子の大半はその高校に進む、いうふうになっていた。

 その高校で、由利恵は常に成績が一番。智美は大抵がドベ、つまり最下位だった。けれど由利恵は当時から醒めていて大人びていて、
「こんな田舎の高校でも一番取ったっていいことなんかないでしょ」
 堂々と言い放っていた。由利恵は、そんな態度をとってもあまり反感を買わず、納得されてしまう雰囲気を持っていたのだ。たかだか十六、七で。

 対する智美もハードな不良になるほどの気概もなく、徹底して笑われ役ボケ役として可愛がってもらおうとする努力もせず、いじめられっ子に甘んじるある種の諦めもなく、ちょい不良のちょい派手な、でもまあ同級生とも上級生とも先生とも、そんな揉め事は起こさない地味なヤンキー、といったキャラクターとなっていた。

 そんな対極にある二人が「仲良し」になったのは、最もわかりやすい説明をするなら、ともに周りからちょっと浮いていたから、だろう。
「この学校の子はほんっと、田舎の子。レベル低すぎ。話してもちっとも面白くない」
 さすがに、クラスメートの前でそんなセリフは吐かなかったが、智美はきっぱりいい切った由利恵の表情を、智美は十年経つ今も覚えている。なぜなら由利恵は今も、そんなふうに他人をいい切り、断定しまくっているからだ。

 しかし智美は、おどおどと「あたしはいいの?」伺ったり、「あたしだって田舎のレベル低い子だよ」と嫌味を返したりもしなかった。
 不良の雰囲気だけ、真似事だけはしても、智美はやはり校内に友達がいないというのは寂しかったのだ。なにより親が、由利恵を気に入っていなかった。

 もともと智美は特に問題や複雑な背景のある家庭に育ったのではなく、勉強嫌いプラス投げやりな性格で、ちょっと道を逸れそうになっていただけなのだ。それでも、悪くなりかけていると親を心配させていた智美にしてみれば、由利恵は最上の「仲良し」だった。
「由利恵ちゃんみたいないい子とは、長く仲良しでいてほしい」
 親に言われると、まあこれも親孝行のひとつかなぁ、などと、今とそっくりそのままの強い明確な意思表示をしない態度でもって・・・・そのままにしておいた、のだ。

 とはいえ、「友達」には違いなかった。あまりにも性格や性質が違うと、かえって喧嘩にはならないのだ。好きな男の子のタイプも、目指すものも、すべてが別方向に向かっていれば、争ったり競ったり勝ったり負けたりがないからだ。

 そんなふうにして高校での三年間は、傍目には「仲良し」として過ぎて行った。しっかり者の由利恵は勉強も見てくれたし、不良仲間とのちょっとしたトラブルも手際よく片付けてくれたりもした。由利恵の親もまた「よくできた」人たちで、智美があまり誉められたクラスメートでないのはなんとなくわかっていただろうが、笑顔で接してくれた。

 卒業後は、由利恵は隣の県にあるそれほど有名ではないが、堅実な短大に進んだ。由利恵なら余裕で国立の四年制に進めたのに、由利恵はとことん由利恵らしく、
「私はつまんないバイト仕事みたいなものもしたくないけど、バリバリ総合職で働いて婚期を逃す、なんてのも嫌よ。堅い企業に数年だけ勤めてから、お見合いでなるべく早いうちに結婚したい。
相手はそれなりの経歴があって、東京に転勤のある人ね。私、こんな田舎に暮らすのはまっぴら。東京に出たい。でも、ひとり暮らしはできないの。女ひとりで東京なんて、世間体がよくないもの。金銭的に苦労するのもごめんだし」

すらすらと言葉にも内容にも淀みなく、進路を語ってくれたのだ。智美はただただ、感心するしかなかった。はっきりと言葉にして思ったのではないが、よくそんなふうに未来を将来をとことん計算し尽くして、なおかつその計算通りに人生を一円の誤差もなく買って消費していけるもんだんぁ、と。

智美は明日のことすら深く考えられず、大学など到底進める成績でもなかったし、といって絶対にやりたい仕事があるはずもなかった。だから卒業後は実に適当に、近所の会社で事務員になったり、パン屋だ喫茶店だ玩具屋だのでバイトをしていた。

由利恵は一応親元を離れたが、短大の厳しい寮に入ったため、男友だちとの交際は全くないようだった。連絡を取りあって、たまに会ったりもしていたのだが、由利恵から男の話がでることはなかった。智美には、男の話しかなかったのだが。

もちろん由利恵は、自身も男も将来性だの経歴だのできちっと見極め、「損になることは絶対にしない」というのを貫いていたのだ。智美が、すでに十代の半ばから由利恵にいわせれば、「自分を安売り」するような男との交際ばかりを繰り返していたのに。

そうしてまったくもって計算通りに、由利恵は名の通った百貨店に就職して三年後、見合いをしてエリートとされる男を選んだ。その男を見た智美は、初めてかすかな違和感を覚えたのだ。由利恵にというよりは、その男の方に――。

2 子供は二人と決めている

すべてが綿密な計算通り。見事なデジタル処理。コンピュータは決して間違いをしない――とい
った形容が人に被さる場合、それが仕事に関するものであれば、誉めていることになるけれど。
 その人柄、生き方にといえば、人間味のない冷たい人、と撮られてしまうだろう。

 由利恵に関しては、仕事ぶりにも人柄にも、その形容は当てはまる。それでも智美は、由利恵を嫌いだの冷たいだのと感じたことはない。ものすごく好きとか優しいとか思ったこともないが・・・・。

 由利恵は情というものもあんまりない代わりに、悪意いうものもほとんどないのだ。どちらも、由利恵にとっては無駄なもの、だからだろう。

ともあれ、同い年で女同士だと何かと張り合って、たとえ友達でも妙なライバル意識や意地悪な感情を抱いたりするものだが、由利恵はいつでも同じ態度で接してくれた。

 智美がチンピラとしかいい世のない男と同棲して、風俗店とまではいかないがぎりぎりのサービスをする店にいた時も。お遊びで出た地方ミスコンテストで準ミスに選ばれ、地元企業の坊ちゃんが集まる青年会議所のイベントなど結構ちやほやされていた時も。自分も男も何もかもどうでもよくなって、半ば引きこもり気味に実家にいた時も。

 わざとらしくお世辞をいったり励ましてくれるのでもなければ、馬鹿にして哀れんだり嫌味をいったりもしないで、ごく普通に付き合ってくれた。

 高校からの付き合いで、智美は由利恵の人なりというか、性質はわかっていた。彼女は基本的に、他人にあまり興味がないのだ。自分と深くかかわらない人間に、強い感情を抱いたり託したりしない。

 といって、友達なんていらない、と言い切るほどとことん冷徹に他者を切り捨てられもしない。女友達も欲しいから、ずっと身近にいる智美と仲良しでいたがるのだ。智美は由利恵にとってはまったく利害関係にない、何かのライバル関係に陥ることもない、安心できる幼馴染みといっていいものだから。

 智美にとって由利恵は、変な説教もしないしべたべたと必要以上に踏み込んでも来ないし、おまけに頭がよくてしっかりしていて料理などもうまいから、小旅行の手続きだの新機種の携帯電話の設定なんかは全部手際よくやってくれて頼もしいし、美味しいお菓子や惣菜を作ってくれたりもするし、身近にいるといいなぁ、と思える友達なのだ。

 だからというのでもないが、智美が当時付き合っていた男と別れたばかりで、仕事もしていなくて家でゴロゴロしているしかない頃に、
「正式に婚約したの。政司(せいじ)さん、あ、彼なんだけど。智美の話をしたら、ぜひ会いたいっていってるから、この日曜に会わない?」

 そんな幸せな報告をしてきた時も、いいよ会う会う、と二つ返事で頷いていた。会わなくても、由利恵の選ぶ相手はどんな人か分かる気がするのだが・・・・・。

 大抵の人が知っている大学を出て、ほとんどの人が羨ましがる企業に勤めていて、よほどひねくれた人でなければ「なかなかの美男じゃない」いう容姿の政司さんとやらは、爽やか過ぎてなんか変じゃないか、という笑顔を向けてくれた。

「ええ。子供は二人と決めていますよ。だって今の時代、二人がぎりぎりでしょう。私立の付属にやってお稽古事もさせてやって。僕らだって趣味や将来のために勉強もしたい。そんなことを計算すれば、二人でいいです」

「そう。私は子どもは早いうちに産みたいから、勤めは辞めるわ。政司さんの東京転勤はもうちょっと先だし。赤ん坊のうちはのんびり田舎で育てて、学校にあがる頃に東京、っていうのが一番いいでしょ。やっぱり子供は有名私立の付属に入れたいしね」

 洒落ているが気取り過ぎではないフレンチレストランで、由利恵の夫となる男は、由利恵の男版とでもいうのか、あまりにもきちっとした将来設計と、一円の誤差も出しそうにない未来図を教えてくれたのだ。とことん、爽やかな笑顔で。

 こんな人たちを前に、「無駄も人生には必要」だの「失敗から学べることがある」といった格言だか、身をもって知った真実だかを語ったところで、鼻で笑われるのが落ちだ。そもそも彼らには、無駄な失敗はあり得ないのだし。

「でも、すごい。すごい二人は似合いだな―。なんか、おんなじ人間が男と女に分かれて生まれて、出会ったみたい・・・・」

 政司が選んでくれたワインを飲みながら智美は嫌味でも何でもなく、心の底からそんな言葉を発した。それは80%ばかり感嘆祝福だというのは自覚できたが、19%ほどのもやもやとしたものが何であるかは、レストランにいる間にはわからなかった。

 彼らと別れて一人になってから、ようやくわかった。・・・・・恐怖だ。
 嫉妬や羨ましさ、ではない。確かな怖さ、なのだった。
「ほんとうに由利恵は、全部が計算通りになるんだ。それでもって、あの政司さんとやらも、すべてが計画通りになる訳ね。そんな二人が出会って一緒になるのかぁ~。すごいな。あの政司さんてのも、『男と由利恵』だもんな。ううん、由利恵が『女の政司』か」

 妙にしみじみと腕組みなどしてため息をついてしまったが、その時の智美はまだ、残りの1%のひっかかりが何であるかは、わかっていなかった。

 いや、それから由利恵が盛大な結婚式を挙げて政司と一緒になり、本当にすぐ年子で男の子と女の子二人産んで、絵に描いたような良妻賢母をして、政司の方も仕事も家事も出来る完璧に素敵な旦那様となって、あらゆることが彼らの計算通りに進んでいる数年の間も、智美はわからなかった。

 やっとわかったのは、智美も由利恵もともに東京に出てきてからだ。もちろん、由利恵は素敵な夫の転勤で。智美は、当時付き合っていた駄目な男には半ば騙されてだが。
「由利恵も・・・・計算違いをするんだ。由利恵にとってはほんの1%でも・・・・」

 先に上京したのは智美で、その頃は場所だけはいいが、うんと安いアパートにいた。地元の、行きつけの美容院で知り合った美容師の男と一緒に。

 そいつは先輩の彼女に手を出して店にいられなくなったというどうしょうもない奴で、愛情というよりは半ば同情で一緒に逃げたようなものだった。もちろん、惚れてもいたが。

 見た目のいいだけが取り柄のそいつと、あの頃あのアパートでどんな会話もして何を考えてどういう暮らしをしていたか、今となってはほとんど思い出せない。

「東京転勤、決まったの。智美のアパートとそんなに離れていないよ。子供は二人とも、××大学の附属幼稚園に合格したし。ね、遊びに来てよ」

 なのに、地下鉄で五つほど駅を隔てた街にある、由利恵とその家族が暮らすマンションに初めて行った日のことは、くっきり鮮明に覚えている。

 東京でどうにか地味な美容院に潜り込んだ彼の月給と、智美が喫茶店のバイトで得るバイト代。それを全部足しても一ヶ月の家賃が払えない、由利恵の一家が暮らす高級マンションは、隅々まできれいに清潔だった。

 由利恵に相応しい、いうより、由利恵にそっくりなマンションだった。何の手抜かりもなく、きっちりと整えられていて、いつでも高値がつく。

 その十階だか十一階に、由利恵はいた。美人というほどではないが、いかにも頭のよさそうな整った顔立ちの由利恵は、子供を二人産んで少しだけ太ったが、それも幸せの証明のようで、逆にきれいにもなったとも言えるのだった。

 対する智美は、そこそこ綺麗とか可愛いといわれ続けた顔立ちなのだが、磨き抜かれた由利恵の家の鏡に映してみれば、ブスだの衰えただのではなく、ただもう貧乏臭いのだった。と、これは本人も思ったことだ。

 きっちりと躾のされた可愛い子供二人は、勉強だかお稽古事に出ていて、素敵な旦那様は当然ばりばりとお仕事をなさっていて、由利恵は優雅に幼馴染みと午後のお茶など楽しんでいればよいのだ。
「うっわー、いい暮らしねえ、やっぱ窓からの眺めもいいなぁ。うちなんか一階にあるわ、周りのアパートやマンションに取り囲まれてるわで、見たくもない人んちの台所を覗き見できるくらいだからねー」

 ここまで差を付けられれば、どうにかしてこっちも見栄を張りたいだの、惨めだから早く帰りたいだの、なんかケチの一つでもつけられないかだの、まったく思えなくなっていく。素直に現実を受け入れる方が、かえって傷つかずに済むのだ。

 智美ははしゃいで、すべてがモデルルームほどに片付けられ飾られたあちこちの部屋を覗かせてもらったり、ベランダに出て風を受けたりしていた。

「智美んちにも行きたいな。次の土曜なんか、どう?」
「いいよ。ただし、狭い上に変な男が寝転がっているかもしれないよ。まあ、邪魔なら踏んづけてくれたらいいから」
「あはは、相変わらずねぇ、智美ってば」
 由利恵もまた、相変わらず惨めったらしい暮らしをしている智美を馬鹿にしようとか、自分の恵まれた生活を見せびらかそうとか、そういう意図はないのだ。といって、かつての幼馴染みを助けてやろうとも励ましてやろうとも思っていない。

 二人は高校時代からずっとこんなふうに、決して深い所では交わらないし、強い感情を交錯させたりもしない。だからこそ、二人はまったくためらわずに「私たちは仲良し」と言っているし、それが続いているのだ。

「お茶にしましょうよ、智美。でね、お茶飲んだらちょっとお願いがあるの、聞いてくれないかなぁ。そんなに手間は取らせないから」
 やがて由利恵は、正月休みにヨーロッパに家族旅行をした時に買ったという、洒落たティーセットでお茶をいれてくれた。添えられたイチゴのタルトは由利恵のお手製で、このまま店で売ってもいいほどの出来栄えだった。

「ん? なにかな」
 これだけで智美のアパートは一杯になってしまうはずの大きなテーブルにつくと、正面に座る由利恵に聞き返す。由利恵は優雅に香り高い紅茶を一口飲んで、微笑んだ。
「夕方六時になったら、お教室まで子供を迎えに行ってほしいの。政司さんは今夜も遅いし、ちょっと会社は遠いから。ごめんね」
「それくらいなら、別に全然手間じゃないけど。由利恵は用事があるの?」
「そう。子供、堕ろすの」

――その時の情景を、智美は不思議なほどよく覚えている。由利恵が着ていた白いブラウスの眩しさも。英国製の紅茶の澄んだ色も。象牙色の棚に飾られた、作り物めいているほど幸せそうな一家の写真も。タルトのイチゴの甘酸っぱさも。ベランダから吹き込んでいた、涼しい風も。・・・・・貼り付けたような笑いを見せてくれた、由利恵の顔も。
「え。今なんて言った? あのあの、子供、つて・・・・」

 すぐに意味がわからないというより、聞き間違えたかなと困惑した自分の姿も、智美は覚えている。目の前に座っているのが、高校時代からの仲良しではなく、一瞬見知らぬ女に見えたことも。

「気を付けていても、失敗することってあるのね。初めてだわ、こんなの、すごく悔しい。そうよ、今妊娠しているの」

 おめでとう、といってはいけないことは、すでにわかっている。由利恵ではなく、智美が恐る恐る由利恵の下腹見ようとしたが、テーブルに遮られてみえなかった。
「あの、その、産まない・・・・んだよね?」
 つい、智美はそう聞いてしまった。答えはわかっているのに。
「だって、ずっと決めていたもの。子供は二人って。政司さんもそういってるし、政司さんも三人目は要らないから始末してね、っていったわ」

 妊娠したこと、三人目が宿ったこと、それは二人の間の子供であり、可愛い子供たちにとっては妹か弟であること。このまま産めば、上の二人と同じくらい可愛らしい可愛い三人目の我が子になること・・・・。

 それらは、由利恵はまったく考えていないらしかった。ただ失敗した、計算違いをした、計画が狂った、しか思っていないようだった。「仲良し」なのに、智美はそんな由利恵に一言も意見はできないのだった。「仲良し」だから、黙って手術を受ける代わりに、子供たちをお迎えに行ってやるしかないのだった――。

3 計算違いをしてしまう

 由利恵はいつでも優等生のいい子だった――といえば、大人しい素直な性格かと思われがちだが。由利恵はきっちり自分を主張できる、言ってみれば強い子だった。そしてその意見も、いつでも正しかった。

 対する智美は、中途半端な不良でふらふらしていた――といえば、表面的には突っ張っていても、中身は案外気弱なところがあるのかと思われやすい実際、智美にはそんなところがあった。

 だから智美は、いつでも「強くて」「正しい」由利恵に、「それって違うんじゃない」などとは言えなかったのだ。本当に、由利恵は何も間違っていなかったのだから・・・。
「要らない、の」
「そう。無駄だから」
「・・・・あ、そ、そう」
 こんなにあっさりときっぱりと、虫歯の治療にでも行くような感じで、
「生理が遅れて一週間かそこそこだもん。簡単な手術で済むうちに気づいたのは幸いだったわ。夜には帰ってこられるはずだから、智美、留守番もお願いできる?」

 そう言われる、何処やもやした気持ちになるが。当の本人がさっさと病院に行く支度をしているのを見れば、これでいいのかなぁ、と頷いてしまったのだった。
――初めて由利恵に対して、やっぱりなんか違うかも、と思ってしまったのは、何のお教室だったかは忘れたが、とにかく子供たちを迎えに行った時だった。

 いかにも由利恵と政司の子らしく、利発で行儀のいい、二人の子供、それでいてまだ幼いので、無邪気で子供らしい、そんな子供たちを見ていると、
「今頃、手術されている子が最初の妊娠できていたら、こんなふうにきれいな服着せられて可愛いがられて、高いお教室に通わされてんだよねぇ。でもって、この可愛いボクが三番目の妊娠でできていたら、とうに始末されて『なかったこと』にされてんだ・・・・」

 しみじみと腕組みなどしてしまったのだった。これも「ただの計算ミス」で済ませる由利恵が、かすかに怖かった。

 智美はお金や仕事には恵まれないが、男だけは途切れずにいつもいて、常に妊娠するようなことはしていた。その度、神経質に避妊をしていたのでないから、自分だって妊娠する可能性はいつでもあったのだ。

 そんなところに幸運だった、ラッキーだった、いう表現を使ってもいいのかどうかだが、ともあれ智美は望まない妊娠はしたことがない。由利恵のように望まない妊娠をして堕胎しなければならない事態を経験していれば、また気持ちは違ったものになってたかもしれない。

「なんか・・・・この分だと、由利恵はまた何か『計算ミス』をやりそうだな―」
 子供たちに聞かれないよう、智美はそっと呟いた。
 その夜、さすがに白い顔色になった由利恵が戻ってきた、作り置きのカレーで夕食を済ませた子供たちはいい子して寝ていた。政司はまだ帰宅していなかったが、
「いいの。今夜は会いたくない気分だから。それより智美、今日はありがとうね。私はもう大丈夫。すぐ寝るわ。朝になったら、何もかもいつも通りになってる」

 白い顔でいい捨てた由利恵の声は、広いリビングに奇妙なほどよく響いた。由利恵の空っぽになった下腹を見つめられなかったのは、由利恵自身ではなく智美だった。
――それから由利恵はすぐに、普段の生活といっても由利恵を取り戻した。少なくとも、智美にはそう見えた。

 あの後、智美は政司にも何度か会ったが、政司にも別段変わったころは見受けられなかった。変わらず素敵な旦那様で、子供たちは可愛らしく賢く、家はどこもかしこもぴかぴかに磨きたてられ、由利恵は絵を描いたような良妻賢母だった。

 智美は、一緒に暮らすうちにだんだん暴力的になっていった美容師の男とどうにか別れた後、さすがにしばらくは一人でいたいと考えていたが、バイトに行ったカラオケ店ですぐ雅典に捕まってしまった。

 まさに、恋に落ちただの運命の出会いだったのではなく、捕まってしまった、のだ。
 智美はいつでも、由利恵と正反対だ。計算通りに事が運んだ試しがない。もっとも、計算そのものをしたことがなかった。

 雅典は今までの男に比べても、どうしようもない男であることはわかったのだから。
「あんたの何も計算できないところが、いいのかもねぇ」
 それでも、決してけなしているのではなく、本心からの誉め言葉としていった。
「それってあんま、誉められることじゃないよな」
 雅典は苦笑して答えたが、智美の本意はわかってくれたようだった。
 計算通りだろうが、計算なんかまったく無しだろうが、月日は平等に流れる――。

 夏と言え、夜明けの街はどこか寒々しい。智美がカラオケ店での仕事を終えて帰って来たのは、朝になってからだった。
 雅典は呑気に、寝室として使っている奥の間で寝ていた。通販で買った、安物のベッド。そのベッドにも負けない、安い男。

 それでも、外から疲れて帰ってきて誰かが部屋にいるというのは、単純にいい。安らげる。いてくれるのが、たとえ働かない駄目な男でも、
「ま、犬か猫と思えば腹も立たないか」

 顔だけ洗ってその雅典の隣に潜り込んだ智美は、すぐには寝つけなくて、ぼんやり
天井を見上げたり隣の雅典の寝顔を見たりしていた。

 そんなふうにして寝返りを打っていると、先週の土曜の夜が思い出されてくる。
――智美と雅典は久しぶりに揃って飲みに出た帰り、由利恵の家に立ち寄ったのだ。突然やってきた酔っ払い二人を、由利恵は別に嫌な顔もせず迎い入れてくれた。土曜だから、政司もいた。二人の良い子たちはとうに、眠っていた。

 雅典はそれまで、由利恵には何度も会っていたが、政司に会うのはその日が初めてだった。あちらは育ちも学歴も容姿も何もかも文句のつけようがない、一流企業勤務のエリート。常に勝ち組の男。こちらは堂々たる無職の見た目もショボい、いってみれば女のヒモ。自ら望んだ負け組に入っている男。まったく会話が成り立たないんじゃないか、智美は危惧したのだが。

 何の接点も共通の話題もないのに、さすがに厳しい競争を勝ち抜いてきたエリート様。すべてにおいてそつがない。にこやかに智美たちを歓待してくれ、楽しい会話を弾ませてくれ、一緒に飲んでくれたのだった。

 智美はご機嫌でアパートに戻り、二人一緒にベッドに寝転がったのだが。何気なく、
「政司さんていい人だよねー。あんたのアホな話もいちいち相槌を打つ、話を合わせてくれてさあ」
 天井を仰ぎながらため息をつくと、隣の雅典は淡々と答えたのだ。
「明らかに相手が自分より下だってわかったら、ああいう態度をとるだろ、ああいう人種はさ。大人が子供に接するみたいなもん」
 それが僻(ひが)みでもなく政司の悪口をいいたいのでもなく、本当にあっさりした言い方だったから、智美は思わず雅典の横顔にじいっと見入ってしまった。暗がりの中でも、雅典の平静な横顔はわかった。雅典はその横顔を向けたまま、やはり淡々と続けた。

「まったく心がこもってなきゃ、どんな相手にもああいう笑顔が向けられるよ。ていうか、ああいう人たちが心なんか持ったら、かえって笑ったりも出来なくなるって」

「ちょっと待ってよ。じゃあ、由利恵もそうだって言うの? 由利恵も・・・・私にまったく心がないから、ニコニコしてくれるって言いたいの?」
 不意に、肌寒さを覚えた。夏だというのに。隣には雅典がいたというのに。
「うーん、由利恵さんの方はまだ、心を持とうとしている感じがするんだよな。俺が男だから男に厳しくて、女には甘いのかもしれないけど。由利恵さんが智美を好きなのは間違ってないと思うんだよなぁ」
「・・・・。あんた、まだ何か言いたいことがあるみたいね」
「うん、あの政司さんとやらは、由利恵さんをすきじゃないだろ。由利恵さんの方も、あんまダンナを好きじゃないみたいだけど、それでも由利恵さんの方がまだ、心って言うか気持ちがあるよなぁ。あのダンナは自分以外を好きじゃないって」

「やだ。なんかほんと、そんな気がしてきたよ。ちょっと怖いな」
「由利恵さん一人でいるのを見ていると、あんまわかんないけど、あのダンナと一緒にいるところを見ると、ああまだ由利恵さんって『甘い』感じがする。計算違いを何度かしてしまうだろうな、みたいな。ダンナの方は絶対に計算ミスなさそう」

 非の打ち所がない、政司。なのにちっともいい男だと憧れないのはなぜかと考えていたが、雅典なんかに説明されてしまった。それも、しっかりとした説得力を持って。
「雅典ってさ、基本的にはアホなんだけど、妙に世の中とか人とかをいい当てるね」

 電気代節約のために、寝る時はすべて電気を消しているが、カーテンの隙間からは街灯や月の光がぼんやりと入って来て、真の暗闇にはならない、どこかで誰かに聞いた覚えがある。闇の中には影はできず、日向にこそ影ができる、というのを。
「アホだからこそ、分かっていることもあるんだよ」

 目をつぶると、隅々まで明るい日向のような由利恵の家が浮かんだ。光に溢れ、幸福いうものの道具だてに満ち満ちていた部屋。なのに智美は、そこに何ともいえない黒々とした濃い影が落ちているのを見てしまった気がしてならないのだった。
「雅典も・・・・見たの?」
 そう聞いて見た時にはもう、雅典は寝入っていた。智美もまた、寝るしかなかった。ほんとの少しだけ、寝苦しい夢を見ながら――。

 由利恵は優雅な専業主婦だが、子供たちのお稽古の送り迎えだの幼稚園での保護者会だの、自分のカルチャースクールにスポーツジムにエステティックサロン通いなどで、なかなかに忙しい。
 智美は相変わらず雅典が働いてくれないので、自分の生活のために働かなくてはならいから、やっぱり忙しい。
 そんなこんなで、高校からの仲良しでわりと住んでいる所が近いとはいえ、しょっちゅうは会えない。

 たまに電話で話すが、もっぱら二人をつないでいるのは携帯電のメール交換だ。それもだいたいが、他愛のない近況報告。ああ変わりないんだなと、お互いに何でもない日々を確認するだけだった。

 だからカラオケ店からの帰り道、由利恵が携帯電話にかけてきた時は、ちょっと驚いた。普通専業主婦ならば眠っている時間帯だからだ。
「えっ、由利恵なの。どうしたの、こんな時間に」
「ちょっとでいいから、会えないかな。どうしても会って話したいことがあるの」
「えっ、今から?」
「今すぐでなくていいけど、なるべく早くにっ」
 これまで、由利恵がそんな切羽詰まった感じに智美に何かお願いしてきたことなど、一度もなかったからだ。いつでも正しくて、迷いのない由利恵だったから。
「そ、それじゃ、由利恵さえよければ明日はどうかな。私、バイト休みだし」
「明日って土曜だよね。うん、ちょうどいいわ。子供は塾だし、政司さんもゴルフに行くし。じゃあ、うちに来て。私しかいないから。二時にしよう、午後の二時っ」

 電話切った後も、智美は手の中の携帯電話を見つめていた。
「また、単なる計算ミスってやつ? それにしても変だな・・・・」
 銀行のシャッターが閉まった入り口前の階段に腰掛けて、智美は家で寝ている筈の雅典の言葉を思い返した。「由利恵さんてまだ甘い感じがする」「何度か計算違いをするだろうな、みたいな」…。

 夜明けの街には、強い陽射しも影もない。なのに智美ははっきりと、黒々した影がどこかにあるのを見た。それは自分の足元にではなく、今は沈黙している携帯電話の中にあったような気がした――。

4 悩むふりをしている

 土曜の昼。智美が目を醒ますと、もう雅典はいなかった。心を入れ替えて職探しに行ったとか、しおらしくバイトを見つけるために出かけた、などというのは全く期待できない。また、期待もしていない。
「どうせ、パチンコかゲームセンターだよね」
 散らかり放題の狭い部屋をぐるりと眺めて、智美はため息をつく。だからといって、智美も片付ようとはしない。
 そもそも智美も雅典も、生活を向上させたいとか、もっと居心地よく暮らしたいとか、そんな気持ちがないのだ。俺たちこのままじゃダメだよな、私たちもっと未来を見つめなきゃね、いった暑苦しい焦りもない。

 といって、今が幸せでならない、二人でいられるだけで満ち足りるというのでもないから、ごろごろ寝転がって不毛なため息をついているしかないのだった。
 由利恵の家はいつ訪ねていっても、インテリア雑誌のグラビアかというほど綺麗だ。いつでも「よりよい将来」を設計して、きちんとそれに向かって進んでいる。

 エリートで優しくて格好いい旦那さんも、家事に子育てに協力的で、たまの休日も家庭サービスか、勉強の為に図書館や教室に通っているという。

 安アパートで、働かない男と怠情な生活をしている自分と、なんという違い。十年前は同じ高校に通っていたというのに、こんなに差がついてしまっている。もっとも、十年前から由利恵は由利恵で智美は智美だったから、差がつくのは当然ともいえる。

 だから、か。智美はちっとも由利恵が羨ましくないし、自分が惨めでたまらない。負け惜しみでも何でもなく、自分にはこんな生活が会っているのだと、智美はほとんど確信している。自分には雅典みたいなダメ男のほうが似合いだし、気楽でいいと。

――その幸せな奥様であるはずの由利恵が、何やら切羽詰った様子で智美に電話をかけてきたのは、正確にいえば、今朝の夜明けだった。
 もちろん、高校以来の仲良しが何やらただ事でない状況に陥っているらしいのは心配だったが、どこか暗い期待も抱いた。妊娠を、単なる計算ミスと言い切れるほどすべてに「人生設計」が優先で、何事もクールに切り捨てられる由利恵だ、その由利恵が、ちょっとでいいから会って、など縋って来たのだ。これは、よほどのことだろう‥‥。

期待半分、心配半分、だったが。
「なあんだ。元気そうじゃない」
 迎えてくれた由利恵に、思わず智美はそんなふうにいってしまった。休日に一人で家にいるというのにやっぱり由利恵は由利恵で、このままちょっとしたレストランくらいには行けるようなきちんとした格好で、化粧もしている。

 左手の薬指には高価な結婚指輪がはまっているが、その隣の小指には、華奢なビーズ細工の指輪が光っていた。何でも器用にこなす由利恵は、流行りのビーズ細工も女性雑誌の特集ページを見ただけで、さっと洒落たデザインやアレンジで作れるのだ。
「元気と言えば、まあ元気かな」

 寝巻きにもなるジャージ上下にスッピンの智美は、テーブル越しに優雅な手つきで紅茶をいれてくれる由利恵ではなく、広々としたリビングを見渡した。
 いつでも眩しく豊かな陽射しの溢れる場所、だったが。ふと気づけば、あちこちに濃い影が落ちている。確かに、そんなふうに見えたのだ。
 もしかしたら自分は、由利恵の不幸を本当に望んでいる? 智美は自分自身に落ちる影にも、かすかな寒気を覚えた。
 そんな智美の内心の思いに、少しは気づいているのかどうか。由利恵はふっと笑った。
「あのね。私、不倫しているんだ。・・・・っていったら、驚く?」
 由利恵のお手製クッキーをつまんだまま、智美はぽかんと口を開けてしまった。もちろん話の内容にも驚いたが、
「不倫って不倫って。つまり、浮気、だよね。ええっ、いったいどこの誰とぉ!?」
「息子の家庭教師なんだ。そう、まだ学生よ」
「お、驚いたよ」
由利恵がほとんど自慢といっていいのか、惚気(のろけ)ているとしかいいようのない口調と表情だったから、智美は一瞬この人は誰、
目をこすりたくなった。
「最初はね、イマイチな大学の上に九つも年下だもん、そういう対象としてぜんぜん見ていなかったの。でも彼の方から誘ってきて。ああ、私もまだまだ捨てたもんじゃないな、って嬉しかった」
「・・・・・由利恵が、そんなことするなんて」
 いまどき主婦が浮気の一つや二つぐらい、もちろん勧められることじゃないが、珍しくもなんともない。しかし、由利恵に限ってそれはあり得ないことだった。

 いつでも誉められる人生。常に正しい生き方、それが由利恵ではなかったのか。しかも、明らかに由利恵は嬉しがっている。はしゃいでいる。自慢したがっている。
 伊達に十年以上、仲良しをしているのではない。その表情と口調が、決して後悔や苦悩ではないことぐらい、智美にはわかる。

 由利恵は、悩むふりをしている。いや、悩んでいるつもり、自分は苦悩していると信じている、といえばいいのか。
「私にだって、退屈する時はあるよ。冒険してみたい、何かぱあっと変わったことをしてみたい、自分じゃない自分になってみたい、って瞬間も。でも、やっぱりいけないことだよね。悪いことだよね」
「うひゃー。いい悪いはさておき、由利恵じゃないみたい」
 由利恵がこんなにはしゃいでいるのだから、咎めたりできない。また、智美がそんな説教などできる立場にないことは、由利恵より智美自身がわかっている。
「だから。私は苦しんでいるんだってば」
「苦しんでいる、かあ・・・・」
 それから二人とも紅茶をお代わりして、クッキーだけでなくやっぱり由利恵お手製のコーヒーゼリーまで食べて、少しお腹が空いたねー、とパスタまで茹でてもらって食べる間に智美は、はっきりとしたお惚気(のろけ)、きっちりした自慢を、たっぷり聞かされた。

 どんなにその家庭教師で大学生の仁一(じんいち)くんやらが可愛いか、由利恵にめろめろになっているか、だけではない。
「政司さんは仁一くんに会ったことはあるけど、気づくどころかただのコドモしか見ていないもん。目の前で仁一君にメールを打っていても、智美ちゃんに打っているのか、なんて吞気にしてる」

 夫を裏切っている、騙していることまで、嬉々として語るのだ。もちろん、取ってつけたように政司さんに申し訳ないわ、
眉根を寄せながら。
「で、由利恵はパッピーな訳で、悩んだりはしていないんだね」
 手早く作ってくれたペペロンチーノは本当に美味しいが、ついつい厭味っぽく口を挟んでしまった。期待半分、にしても心配して飛んできた自分はいい面の皮、というやつではないのか。お惚気を聞かされるために、呼びつけられたのか。
「んもう。悩んでいる。苦しんでいるだってば。だから智美を呼んだんじゃない」
「本当に?」
 由利恵はフォークを持ったまま、またわざとらしく眉間に皺を寄せて。当人すら自覚できていないようだが、明らかな芝居、だ。
「本当に決まっているじゃない。このまま仁一くんにのめり込んだらどうしょう、仁一くんの方もこれ以上本気になったら困るわ。何より、政司さんに知られたらどうしょう、なんて。苦しいの」
「う、ん。まあ何はともあれ、政司さんにだけはバレないようにね。それだけだわ」
「そうね。それがいちばんよね」
 明るすぎる昼下がりの光が差し込む部屋には、もう黒い影など見当たらなかった。その白々しい明るさの方が、もしかしたら不気味かもしれないが――。

 家に帰ってみれば、雅典は寝転がって智美の買ってきた女性週刊誌などめくっていた。あまりにも散らかっていて自分が寝転ぶ場所がないから、仕方なく適当に簡単に片付けをしながら、智美は由利恵の「不倫」の話をして見た。

「びっくりしたでしょ。由利恵がやることじゃないよね。どうしちゃったんだろう」
 雅典はやぱり寝転んだまま、ふうんとあまり興味がない態度でいった。
「別に驚かないなぁ。いかにもあの由利恵さんのやりそうなこと、って思うけどね、俺なんかは」

 それから雅典は面倒くさそうに、週刊誌の後ろの方のグラビアをめくってみせてた。
「ほら、このビーズ細工と同じだろう、由利恵さんにとってはさ」
 ようやく自分の寝転ぶ場所ができて、とりあえず智美はそこに腹這いになる。隣の雅典から、週刊誌をひったくった。本当に、ビーズ細工は流行っているらしい。この指輪は可愛いなぁ、由利恵が付けていたのと似ているなぁ、と思い出しながら、
「何がおんなじよ」
 薄々、智美は勘づいているのだが、聞いてみた。
「流行っているから、押さえておきたいだけだろ」
 実にあっさりと、雅典は答えてくれた。
「由利恵さんて、すべてみんなに乗り遅れない、みんながやりたいことは自分もやりたい、みんなが欲しがるものが自分も欲しい、って人じゃん」

 こともなげに、雅典はいってのけた。それからあくびを一つしてリモコンを取り、テレビをつけた。延々とCMが流れる時間帯で、チェッと軽く舌打ちしてから、すぐにまた消した。一瞬の騒音の後に、奇妙な静けさが訪れた。

「誰からも羨ましがれる素敵な奥様になってから、ふっと気づいたんじゃないの。あっ、私は何か足りないと思ったら、不倫と言うやつをしていないわ。ドラマでも小説でも、現実でも奥さんたちみんなやっているみたいなのに、私はない。今どきの奥さんなら、不倫も押さえておかなくちゃ。・・・・てな感じじゃないの」
 その静けさの中で、智美はぽん、と手を打ちたい気持ちになった。
「雅典ってほんと、おバカさんのくせによくわかっているよね」
「あーあ、パチンコは負けっ放しだけどな」
 由利恵は、仁一くんとやらに恋しているのではない。「流行の」年下くんとの不倫なんかしてみたいなあ、と願っていたところに、たまたま現れたのが仁一くんだった、いうだけなのだろう。

 経歴のきちんとした東京に転勤のある人と結婚したいなあ、と願っているところに、たまたま政司さんが現れたように。
「じゃ、適当なところでチャッチャッと切り上げて、何年か経ったら『私は昔は年下くんと浮気だってしてたのよぉ。おほほほ、驚いた? でも、みんなもやったでしょ』みたいな自慢にしちゃうんだ。本人は『悩んだわ』とか『彼も苦しんだわ』とか、必ず付け加えるだろうけど」
 我ながら意地悪だよなぁと思いながらも、ついついわざとらしく由利恵の口調を真似していってみたりもする。
「うーん。どうかな」
 雅典は再び女性週刊誌を取ると、それを開いたまま顔に乗せた。
「前にもいってただろ。由利恵さんて、イマイチ詰めが甘いところがありそうなんだよ。あのダンナに比べてみればわかる。つうか、詰めが甘いから智美なんかと仲良しなんだろう」

――それから何日かは、由利恵がやっぱり惚気と自慢の、本人は苦悩と言い張る仁一くんとの秘密をメールで伝えてきたのだが。
「あのね。ちょっと・・・・困ったことになっちゃった。うん、ごめん、また会える?」
 次にかけてきた由利恵の電話の声は、明らかにおかしかった。この前とははっきり違う、暗い影の落ちる声だった。

5 墓場までもっていく

「電話じゃ、言いにくいこと?」
 別に声をひそめなくてもこんな夜明けの時間帯に、アパートの外で聞き耳を立てている人もいないだろう。隣の部屋に雅典はいるが、仕事もせず毎日パチンコとゲームばかりしているのに、なんでそんなに毎晩グーグー寝られるのか不思議なほど、よく寝るし。

 それでも智美は、声を潜めてしまう。勤め先のカラオケ店から帰ってきた後、ただ事でない雰囲気の電話がかかってきたのだ。
 これって二度目だな、と窓の向こうの明るみ始めた空を見る。由利恵がこんな電話をかけてきたのは、二度目。
 一度目は、子供の家庭教師の大学生とデキちゃった、というものだった。真剣に悩んでいるのかと心配したのに、会ってみれば完全に惚気ていた。はしゃいでいた。

 雅典にいわせれば、「流行のビーズ細工をするみたいに、流行の年下くんや不倫も押さえておきたかっただけだろう」・・・・ということなのだが、それは当たっているような気がする。
 由利恵の人生観、そして価値観というのは、「みんなが良いと言うものが良い。多くの人が欲しがる物が価値のある物」なのだ。

 そんなふうにいえば、主体性のない意志の弱い女みたいだが、由利恵がすごいのはちゃんと努力して確実にすべてをゲットするころだ。

 優雅なマダムの生活も、エリートの夫も、優秀な子供も。そして、ちょっとした火遊び、絶対に遊びと割り切れる、可愛い年下男との関係も――。
 智美は、いいなあ欲しいなあ、とは思うものの、思うだけで終わっているのだから。
 体は疲れているのに、眠気はどこかに行ってしまった。別に見たくもないが、放映しているのがこのチャンネルだけだからつけているテレビの画面を見ながら、以前と同じ心配半分期待半分で、今言えることがあったらいってみて、と促してみると。
「・・・・妊娠したらしいの」
「えっ。また」
 思わず大きな声が出てしまった。携帯電話を抱え込んで、しばらく息をつめる。
 かつて由利恵は、気味悪いほどお似合いの旦那ともに、「子供は二人と決めていたから三人目は単なるミスとして処分する」と本当にその通りにしてしまったのだった。これに関しては悩みもせず、まるでオデキでも切り取るかのように言っていた。

 しかし。今回の妊娠は、オデキを切り取るようなものではないらしい。
 やっぱり「二度もミスしちゃった、この私としたことが」ということなのかな、と智美は眉を寄せる。電話越しにも、由利恵が疲れているのはわかったのだ。

「あの、やっぱ、堕ろす・・・・んだよね」
 慎重に、訊ねたつもりだが。由利恵は意外な返事をくれた。
「産もうかな、と迷ってる」
「へえーっ、それはびっくり! えっと、おめでとう、っていっていいのかな」
 驚きもしたが、単純に嬉しくもなった。前に由利恵が中絶する際、高いお教室に通わされている二人の子供を預かって、「産めばこの子達くらい可愛がられるのに。順番が違っただけで三人目は闇に葬られるのかなぁ」と、暗い気分になったのを思い出したからだ。

 それに、あらゆるものを割り切って計画通りに生きてきた、自分の高校以来の親友としては立派過ぎる由利恵だ。たまにこいつはコンピューター仕掛けみたいと怖い時もあったから、「やっぱあんたも私と同じ人間なんだね」と、肩の一つも叩いてやりたくなるというものだ。

 だが、由利恵の声は疲れたままだった。その声でどこか突き放すように、
「まあね。でも、実はこれどっちの子か分からないの。政司さんの子なのか、仁一くんの子なのか、80%、 ううん、90%くらい仁一の可能性の方が高いわ」

 そんなふうに付け加えたのには、心底驚いた。この人、本当に由利恵!? とも疑った。
「ちょ、ちょっとぉ。マジなの、それ」
 正真正銘の夫婦の間にできた子供は、あっさり堕ろせたのに、古めかしい表現では、不義の子だ。秘密にしなければならい子だ。自他共に認める、良妻賢母が産むとしたならば・・・・。
「いったい、どういう心境の変化よ」
 智美の方が、むきになってしまう。そう、由利恵はどこか投げやりなのだ。
「フクシュウ、かな」
 一瞬、智美には意味がわからなかった。優等生の由利恵の口から出るフクシュウは、復習、でしかない。ようやく一拍おいて、フクシュウは復讐だとわかったのだった。

「復讐って・・・・誰に」
 復讐。あまりにも、優等生の由利恵には相応しくない言葉だ。
「決まっている。政司さんによ」
 ここではっきりと、智美は戦慄した。まるで、政司本人になったかのように。そんな気持ちを解かっているのかいないのか、さらに由利恵は低く続けた。
「私はね、ことさら平気な顔をしてた。そもそもは自分が計算違いをしたのが許せなかったから、三人目を妊娠しちゃった時は、私の責任として処分しようと割り切った。でも、心のどこかでは激しく後悔もしていたし、罪の意識に苛まれていたの」
 次第に、声が高くなっていく。それはそのまま、由利恵の感情の高ぶりだった。
「感情を押し殺して必死に、自分を保とうとしていたのに」
 そこで由利恵の声は、裏返った。十年の付き合いで初めて聞く、由利恵の金切り声だった。智美は唐突に、すっかり夜が明けているのを知る。

「あの日、智美に子供達のお迎えを頼んだのはね、会社にいる政司さんに電話で頼んだら、『えーっ、今日は仕事が忙しいから行けないよ。由利恵が妊娠したんだから由利恵が処置しなよ。じゃあね』、でガチャリ、あっさり切られたからよっ」

 呑気な雅典のいびきが、ひどく遠いところから聞こえて来る。
「――簡単な手術とはいっても、麻酔もするし当然、ダメージはある。心身ともに傷ついていたのに、政司さんになんて言ったと思う・・・・・。ケロッとして、『ところで術後は、いつからセックスはできるの?』よ」

 十年という歳月を、長いと感じるか短いと思うか。それは人それぞれだ。ただ、智美はこれも十年の間に初めて聞いた。――由利恵の哭き声を。
「私、産むわ。智美と話していて、気持ちが固まった。迷いが、吹っ切れた、もちろん、政司さんの子供として産むよ。仁一くんには一切、打ち明けない」
「そっ、そんなの、バレないかな」
「幸い二人は、血液型は同じなの。隠し通す自信はあるわ」
 やっぱり由利恵は由利恵だ。智美は、もはや感動すらした。
 由利恵はすぐに感情の高ぶりを抑えて、冷静になった。もう、黙って聞くしかない。すっかり明けた夏の朝。カーテン越しにも、朝陽がまばゆい。素晴らしい一日が始まるのではない。何も変りないいつもの日が始まるのだ。ふっと、それに恐ろしさを感じた。

「政司さんと別れる気はないの。仁一くんは可愛いけど、政司さんと別れてまで一緒になりたい相手じゃない。政司さんの出た大学より遥かに落ちる大学だし、それじゃ卒業したって勤められる会社もたかが知れている。産んだ子だって余裕をもって育てられない。なら、政司さんの子として産んだ方がずっといい」

 眩い朝日だなんて、希望の象徴でしかない。なのに智美はなんともいえない濃い影が、黒々と落ちて来るのを見てしまった。部屋の中に、電話の向こうに、どこよりも由利恵の心の中に。
「一生の秘密よ。それこそ墓場まであの世まて、私は持っていく」

 もしかして由利恵は、誰よりも自分に復讐したいのではないかという気もした。
「政司さんはもちろんのこと、仁一くんも一生打ち明けない。うちの親にもね。政司さんの親も、それから上の二人の子も、何の疑いもなく三番目の子を可愛いうちの末っ子と信じて生きて、死ぬ。そうよ、この子本人も」
「・・・・なんとも、いえないけど。由利恵がそう決心したんなら、私もできることはさせてもらうよ。もちろん、誰にも言わない。秘密にする」

 そう答える以外、ないではないか。こんなふうに、きっぱりと言い切って決めてしまった由利恵には、誰も意見をはさめないのだ。昔から。
「ねえ、智美」
 不意に呼びかけられ、思わずハイッといい返事をしてしまった。高校生が授業中に先生に指された時のように。
 今と変わらない怜悧(れいり)顔した制服姿の由利恵が、束の間見えた。部屋に広がる。眩いが光輝く暗い影の中に。おかしな表現ではない、本当に、光り輝く闇が見えたのだ。制服姿のままの由利恵は、嬉しそうに囁きかけてきた。
「私達、親友よ」
 そこで、智美の中の由利恵は今の由利恵に戻る。どこから見ても、優雅な素敵な良妻賢母の由利恵が。
「だって私の一生の秘密を知るのは、智美だけなんだから」
 怖い、といってはいけないのだろう。親友、なのだから。
「私を破滅させられるのは、智美だけ。もちろん、智美がそんなことは絶対にしない」だろうって言うのは、信じているけどね」

親友、そう、私は親友。初めて、智美もそれを実感した――。

 次の日曜日、店が休みだったので、久しぶりに雅典と映画など観に出たら、デパートの前でばったりと、由利恵の一家と会ってしまったのだ。
「あれっ、もしかしたて由利恵?」
 背の高い素敵な旦那様、お洒落な奥様、いかにもいいところの子といった雰囲気の、可愛い二人の子供。どこから眺めても、幸せを絵に描いたような一家なのだ。
 対する自分達の貧乏臭さとダメさなど、ここまであからさまに差を付けられてしまえば、もうはやどうでもいいものになってくる。

「わあ、智美じゃない。偶然ね、私達これから、政司さんの大学時代の先輩のおうちに伺うの。ずっとフランス駐在していて、ちょっと休暇で帰ってこられるんだわぁ」

 智美はにこやかに子供に話しかけ、政司さんにも挨拶をした。傍らの雅典も、適当な愛想をしている。政司さんもまた、爽やかな笑顔をむけてくれた。智美と雅典は同時に、由利恵のおなかに目をやった。まだ膨らんではいないが、そこには赤ちゃんがいる。
 生まれてくる子には罪はないけれど、母親が罪の子として産もうとしているのだ。
「もうご存知だろうけど、三人目ができたんですよ。二人いるだけでいいと決めてたんだけど、なんか由利恵がどうしても三人目が欲しいと言い出して」
「そうよ。だからその分は、子供達が小学校にあがったら私も働くって、英会話とパソコンの学校に通う事にしたでしょ」
「ねえねえ、智美ちゃん。赤ちゃんどっちだと思う? 僕は弟が欲しいの」
 智美を見上げた子供の無邪気さに、つい仁一先生に似ている男の子かな、といいかける。
 それにしても、由利恵と政司さんは、どこか見ても秘密など隠し事など一つもない、仲睦まじい幸せな夫婦でしかない。いつも日向にいるような、二人でしかない。そこに落ちる影を知っているのは、智美だけなのだ。

 だからこそ智美は、笑うしかない。自分だって傍らの男を熱烈に愛してもいないのに、いないよりはましか、と置いている。考えてみれば雅典だって、智美を心から好きかどうかはわからないのだ。もしかしたら、由利恵以上に暗い秘密を自分に対して持っているかもしれないし、これから持つかもしれないのだ。
 二手に分かれて歩きながらも、ああ、そろそろ夏も終わりだな。と雅典が呟いた。それは、俺達の何もかも終わりだな、という響きを持っていた――。

つづく 暗かった帰り道