共依存をテーマにしたテレビ番組の取材を受けたことがある。四十八歳のJさんは、そのテレビをみて「共依存」という言葉を知り、私たちのところへやってきた。
 Jさんの夫は、最初は転職しながら働いていたが、十年前に会社を辞めてからは、続かなくなっていた。三ヶ月働いてはやめて失業保険を受けたり職業訓練校に通ったりということを繰り返している。その間には彼女は、三人の子どもを大学にやり、会社で夜八時まで働いてきた。給料は手取りで二十万円だという。
本表紙信田さよ子著引用
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第四章 女の人生はスマートボール

離婚するひと、離婚できないひと

ペットが「別れない理由」?
 夫婦の関係に苦しんで、私たちの所へカウンセリングを受けにくる女性たちの中に、
「ひょっとして別れた方がいいかもしれませんね」
 というカウンセラーの一言だけで離婚を決心したのは、これまでたった二人しかいない。いや、二人もいると言うべきか。私たちの言葉を聞いて、「別れるという選択肢があるんだ」と気づき、そこから一路、離婚へ突き進んだ人たちだ。
 その人たちに特別な経済力があったわけではない。この二人にとって、経済力がないということは離婚の障害にはならなかった。一人は、「私、寮の賄いでいいです」と言って別れた。
 これに対して、離婚できないのは、ありとあらゆることを理由にあげる。そんなことも理由になるのかと、こっちが驚くほどだ。「無収入ですから家を出ることもできない」と言うのはもちろん多い。驚くのは、ペットを理由にするひとがいることだ。「ペットがいるから家を出られない」と言う。

 別れたいという気持ちがあるのは確かだろう。しかし、それよりもずっと大きな不安があって別れられない。そんなときに最も理由として挙げやすいのが「子どもの事を考えると別れられない」という万能の武器だ。ところが、子どもが中学生にでもなっていると、「お母さん、私のせいにしないでよ」などと言ったりもする。もう子どもを別れない理由には使えないから、口の利けないペットを理由にするということだろう。

「夫への期待」に縛られる
そういえば、こんな女性もいた。
 共依存をテーマにしたテレビ番組の取材を受けたことがある。四十八歳のJさんは、そのテレビをみて「共依存」という言葉を知り、私たちのところへやってきた。
 Jさんの夫は、最初は転職しながら働いていたが、十年前に会社を辞めてからは、続かなくなっていた。三ヶ月働いてはやめて失業保険を受けたり職業訓練校に通ったりということを繰り返している。その間には彼女は、三人の子どもを大学にやり、会社で夜八時まで働いてきた。給料は手取りで二十万円だという。

 あるとき、Jさんが仕事から帰ると夫はテレビをみていた。レスキュー隊が活躍する番組だ。夫はテレビを見ながら、「人を救うっていいなあ」と言い、ポロポロと涙を流したりしている。それを見た彼女は頭にきて、自分の部屋に行って「やってられない、やってられない」とつぶやいた。「どうして私を救ってくれないの」という思いでいっぱいだったという。

「別れたほうがいい」と思うとなかなか決心がつかない。それで私たちの所を訪れたたということだった。
 Jさんは私に次のカウンセリングまでの宿題を出してほしいと言う。あまりそういうことしないのだが、ぜひと言うので、「どんな夫だったらいいと思うか」を考えて来る宿題にしたところ、定職につくこと、理想を持つこと、自分の発言に責任を持つことなど、夫への要求を数多く書いてきた。

 要求が沢山あるという事は、現在の夫にかけていると思っているものが沢山あるということだ。言い換えれば、夫に対して期待があるということだろう。「期待があるんですね」と言ったら、「これって期待でしょうか」と言う。
「ええ。期待があると思います。そういう期待があるうちには、別れられないんじゃないですか」
 Jさんは私のそのことばにショックを受けていたようだったが、
「あなたが期待しなくなったときには、別れられるか、ひょっとして今の形で依存していけるかもしれないですね」
 と言うと、それに対して彼女の答えは、「依存はありえません」ということだった。
 
 私はJさんの問題は、彼女自身が夫への期待に縛られていることだと思った。
 暴力を振る訳でもなく、アルコール依存症でもない。Jさんの夫は、単に嫁がない男というだけだ。考えようによっては、企業社会での出世にも世間体にもこだわらないパワーレスな、いい男ではないか。「男は女房を食わせなければならない」「男は女を幸せにしなければならない」「男は女を守らなければならない」という常識に縛られているのは彼女の方なのだ。

 Jさんは、職人気質(かたぎ)でこつこつと真面目に働く父親の下で育ってきている。それでいて生活は苦しかったために、結婚するなら安定した大企業のサラリーマンだと思っていた。その希望どおりに結婚したはずだったのに、夫がサラリーマンをやめた。彼女が一番気に入らなかったのはそこなのだ。

「しばらく迷うしかないですね」と私が言うと、「だめです、結論を出したいんです」と譲らない。
 さいわい、娘は大した問題もなく育っている。一流大学を卒業して期待どおりに大企業に就職した。
「こんなご時世ですけど、無事に就職できてよかったですね」
「これで思い残すことはありません。でも私は、子どもに依存したくないから、自分の収入は自分で得ていきたいんです」
 そこまで考えていて、なぜ離婚に踏み切れないのだろうか。いろいろなやりとりをしているうちに、彼女はこう言った。
「あの人の実家は九州で農業をしているんです。私が別れるとい言ったら、あのひとは郷里にすっと帰ってしまう。そうすると結局、私が捨てられることになるんです。捨てられたと思うのは嫌なんです。いいとこばかり取られて、捨てられるというのは嫌です。だから別れないかもしれない」

 Jさんは結局別れないまま、おそらく今も夫と暮らしているだろう。なんだか別れない理由探しのようになってしまったが、それにしても声高に別れたいと言っていたJさんがなぜ別れなかったのだろう。
 夫を捨てると、世間は夫から捨てられたと思うだろう。だから、捨てられるという事態を何よりも恐れていたJさんは、別れらない。また、これは私の想像なのだが、自分という女性を唯一の存在として認めてくれる男性がいるということ、それを制度として保証してくれるのが結婚であるとすれば、働かない夫だが「夫がいる」ということだけで、それだけで計り知れない意味がJさんにはあったのだろう。

 夫の方から「別れよう」と言わないこと、それはとりもなおさず、Jさんを妻として唯一のかけがえのない存在として認めていることになる。たとえ言葉で表現されなくとも、結婚制度というものはそのような保証だろう。それを壊してまで別れたいと思うような、マイナス要因は何もなかった。
 よくよく見ると、ときどきもうしわけなさそうにスーパーの特売品を寄せ鍋をつくって待っていてくれたり、トイレもピカピカに掃除してくれたりする。そんな夫を横目で眺め、深いため息をつきながら、夫と鍋をつついているJさんの姿が目に浮かぶようだ。

別れてきれいになる女性たち

 別れようと決めて、別れるまでは大変だが、でも別れてしまった女性たちはきれいになる。それは見事な変身ぶりだ。

 殴られたり浮気されたりして苦しんできた女性たちは、グループカウンセリングに参加する。グループのメンバーの一員が長い時間をかけてやっと離婚を果たし、久々に颯爽とグループカウンセリングにやってくると、そのグループの他のメンバーたちはその変貌ぶりに圧倒される。時には将棋倒しのように、「私も別れる」「私も」「私も」と連鎖していく。男性の目には実に恐ろしい光景として映るだろう。

 Kさんの夫は新聞記者だ。アルコール依存症で、妻と子どもをしょっちゅう殴っていた。苦しみぬいてやっと私たちのとこに辿り着いたKさんは、顔色は悪く、髪は乱れ、見るからに不幸な様子だった。

 そのKさんと講演会場で三年ぶりに会った。「先生、お久しぶり」と言われたが、最初はだれであるか思い出せない。顔色はよく、表情がいきいきしていて、スーツを着こなし、七センチのハイヒールをはいた彼女は、まるで別人のように変わっていたからだ。

「Kですよ、先生」
「ああ、Kさん? 本当にお久しぶり。あのあと、どうなさったんですか」
「実はあれから。めでたく夫が」と言った後で、Kさんは声を潜めて言った。
「ほんとはこんなこと言っちゃいけないんですけど、二階のベランダから転落して死んだんですよ」

 彼女は別れるつもりで仕事を見つけて、毎日働きに出ていた。夫はアルコール依存症で休職し、家にいた。彼女が留守中に、二階のベランダで洗濯物を干していた夫は、酔っていたためにバランスを崩して転落し、庭石に頭を打ちつけて死んだという。
「ベランダの柵がね。もう古くなっていて、もたれたとたんに折れてしまったんですよね」

 Kさんはキラキラした目でそう語った。
 聞けば、休職中とはいえ大企業のサラリーマンだから、いろいろな名目でお金が入ったらしい。
「元気にやっているんですか」
「ええ、元気です」
「再婚しようなんて、思っているの?」
「まさか、もう男はいらない。まっぴらですよ」
 彼女にとって今の暮らしは、お金はあるし、夫はいないという理想のかたちだという。同じ時期に離婚した女友だちと温泉に行ったり、仕事をしたり、かつての彼女と同じような苦しみを抱いていたひとたちのためのグループをつくったりと、元気で暮らしているという。

 いったん結婚した女性が一人になっても、仕事にしろ、何にしろ、「所属先」があれば元気に暮らせる。それは、別に男である必要はない。
 Kさん会って、何より大切なことは、同じような女性がこの世の中にはたくさんいるということを知ることだと思った。そうでないと、「みんなしあわせそう。それに比べて私は‥‥。離婚しても戻れる実家はないし、この世でひとりぼっちになってしまう」と想像するだろう。
 
 夫と妻と子が愛情で結ばれるという近代家族像にからめとらない。もっと新たな生き方をつかめるかどうか。「家族」を超えた仲間を待てるかどうか。これが、離婚するひと、離婚できないひとの一つの分岐点になるのではないだろうか。

 参考までに、妻から離婚を言い渡された別れた夫(DVの加害者)のほうは、どのような人生を歩むのか。次の三通りのいずれかになることが多い

1、前の妻のストーカーになる。
2、似たような女を選んで一緒に暮らす。
3、自滅して死ぬ。

1、 は殺人事件に発展することもあり、昨今、この種の事件が多く報道されるようになったことは、前述したとおりだ。
2、 は文字どおりである。なぜか、前の妻と同じ種類の女性を的確に選ぶのだ。そして再び新しい同居人を殴るようになる。その嗅覚には驚くべきものがある。
3、 は、アルコールをさらに大量に飲んで死んでしまう場合だ。本書の事例に登場する夫を思い浮かべてみてほしい。また、このケースでは、「あなたがついていながら」とか「あなたが殺したんだ」などと、夫に近い人たちから妻に責められルことが多い。それも事例を読んでいただければ納得がいくだろう。
妻に去られた男たちは、「もう結婚はこりごり」と思うのは少数で、多くは、あっという早業で次の女性を、それも同じようなにおいの女性を見つける。「私がいないと夫は生きていけません」と離婚を渋っていた妻がおもきっきて別れたら、三か月後には早々と夫が再婚したという例がある。「きっと今の奥さんも、私のように殴られていると思います」と彼女は断定した。

 離婚した女性たちが口をそろえて言うのは「自分の食べる分だけご飯を作ればいい」「好きな時間に寝て、好きなテレビを見られる」のが何よりしあわせだということだ。家事という延々と続く瑣末(さまつ)な作業を、来る日も来る日もやりつづけるしかないという経験のないひとには、このような解放感は理解できないかもしれない。どうでもいい、他愛(たわい)もないことに思えるかもしれない。でも、そんなことすら許されないのが主婦である女性の日常なのだ。

 繰り返し述べてきたように、妻たちは、一人の男性からかけがえのない存在として承認されるという制度(つまり結婚制度)から外れる恐怖がある。それは、この世での所属を失う事にも等しい恐怖だ。

 Kさんの「同じ経験を持つ同性の仲間」との付き合いは、新たな所属の可能性であろう。ホモソーシャルな世界ではないものの、つまり少数派(マイノリティー)であるけれど、Kさんにとっては夫婦を続けているより、はるかに快適な毎日なのだ。
 男の場合、妻に去られることで自分が「男らしさ」や「男の世界」から脱落する恐怖を味わうかもしれない。その恐怖は時として捨てた女に対する恨みとなり、殺人を犯すほど狂暴化する。そのプロセスに関しては、いまだにスッキリと断言できない私である。今後そのことについてもっと明確に記せるようになりたいと思う。

傷つくのは心ではなく人生

救いたがるひとは傷ついたひと
 救いたがるひとは傷ついたひとだと思う。たとえば子どもに問題が起きる場合だ。うちの子はいい子で勉強もできると思っていたのが、ある日突然、その子が親に暴力を振るったり、あるいは不登校になったりする。そのとき親はひどく傷つけられる。そして「この子を何とかしてあげなければ」「この子を救わなければ」と、いかなる犠牲を払ってでも、子どもの問題を解決しようとする。

 子どもだけではない。夫に殴られた妻も傷つくし、子どもに殴られた父親も傷つく。あまりの苦しみからその傷つきを認められないところから、共依存的な支配が始まると思う。

 ここでいう「傷つき」は、心の問題ではない。だからトラウマも関係ない(これは強調したい!)。傷ついているのは人生そのものであり、プライドなのだ。
 ところが残念ながら、傷ついた記憶は容易になくならない。だから傷ついた記憶を持っている人は、その点だけを取り上げれば、そんな記憶のない人よりもつらい人生を送ることになるだろう。

 このような人生は誠に不平等なものだ。じゃ、希望はないのだろうか。大切なことは、自分のような経験を持つ人が沢山いることを知ることだ。そして、味方を見つければ、それなりにけっこう元気にやっていけるものだ。そんな私の意見を聞いて、
「親友に相談しましたが、あなたにも責任があるんじゃないの、と言われました」
 と肩を落とす人が少なくないが、「それって親友じゃないわよ」と言いたくなる。
 私たちカウンセラーのやるべきことは、そういう女性たちにとっての最後の味方になる事ではないかと考えている。

 ロマンチックラブ・イデォロギーを信じて結婚生活を送り、信じていたからこそ裏切りの苦痛を味わい、長い間それに耐えてきたのだ。そのことをとにかく否定する人が居なければ、先へは進めないだろう。
「大変でしたね。一所懸命に妻をやり、母をやり。でも、これからは別の生き方を考えてはどうでしょうか。これまでそれが出来なかったのは、知識がなかったし、想像もできなかったからでしょう。あなたも、今のままで人生を終わらせたくないという思いから、ここに来ているんでしょう。

 こう話すと、みんな一様に、「そうなんです」と言う。
 中には、「私はもういいんです。私の人生は。あの子さえ救えれば」という人もいる。しかし、救済者の犠牲的精神がどんなことをもたらすかは、すでに何度も書いた。ここでとどまるのは、おそらく最悪のパタ―ンなのだ。
 このような女性も、話していけば分かってくる。
「あなたが今のままだと、お子さんは変わらないかもしれませんね」
「そうですか。それでは私は娘を救うために変わります」
「それにしても、よくそんな、日本刀を振り回すような人と、一緒に暮らしてきましたね、どうやって毎日をしのいできたんですか?」
「たいしたことはありませんよ、それは。慣れるんです」
「へえ、すごいもんですね。慣れるにはコツがあるんでしょうか。それで、これまで何回くらい離婚したいと思いましたか」
「指が何本あっても足りません」
 こんな会話からカウンセリングは始まる。ここからは長い時間かけて、彼女の人生とプライドの修復が始まる。

被害者意識のすすめ

 殴られても別れない妻、夫をアルコール依存症から救い出そうとする妻、彼女たちのようにひどい目に遭わされた人を「共依存」と呼ぶには少し抵抗がある。そう言ったとたんに、女だけの問題となってしまうからだ。彼女たちは一方で被害者でもあり、とすればそこには歴然とした加害者がいるはずだ。その加害者である男の問題を取り上げなければ、何も解決しないだろう。女による女叩きは、もうたくさんだ。

 男の問題として取り上げるには、妻たちの側に被害者であるという意識が必要だ。被害のないところに加害も無いからだ。被害がはっきりして初めて、加害者の責任を問えるようになる。

 だから、まず、被害者意識をもつことをすすめる。既に書いたように。自分が被害者であるということ、自分が傷ついたのだということを認めるのは、とても辛いことだ。簡単ではない。だから多くの人は、そこを避けてくるっと後ろを向いて、「この困ったちゃん」「ぼくちゃん、だめなんだから」という立場を夫に対してとろうとする。「あんなひどいことをした夫を私は心を広くして、赦してあげました。だって夫は可哀想な、さみしがりやの未成熟な男なんです」と。

 加害者を救うようにして許していく。許していくことで自分の価値を上げていくという。非常に屈折したマゾヒスティックな被害経験の修復を行うのだ。その回路を断たなければいけないという使命感を私は持っている。大きく言えばそれが、この本のミッションでもある。

 だって、酷いじゃないか。と言いたい。裏切ったり殴ったり傷つけたりした加害者がなぜ、赦されて救われるのか。加害者も被害者であることは認めるが、だからといって、人を散々傷つけおいて涼しい顔をさせていいのだろうか。それに、たまたまそこに生まれてしまった子どもたちが犠牲になるということも忘れてはならない。

 被害者であると認めて生きる道は惨めだろうし、辛いだろう。しかし、人間は苦脳を抱えていると、時として高尚になれるらしい。私はそういう人たちを沢山見てきている。
 小さい頃から、父親に殴られて暮らす母親から「おまえは変な子どもだ」と言われつづけ、「ほんとに自分は変なのか」と何十年も苦しみつづけ、でも何かおかしいと思いながら生きてきた人がいる。

 そのひとがアダルト・チルドレン(AC)という言葉を知って気づいたのは、「変な子ども」とは親が自分に定義づけたのであって、自分が自分を定義したのではないという実にシンプルなことだった。大人になってからも、自分の中にいきつづける親のことば、親からの定義をインナーペアレント(内なる親)と呼ぶ。内なる親の支配からいかに脱していくかが、アダルト・チルドレンの人たちの大きな課題なのだ。

 このように、自分の中の違和感、自分の苦しみに徹底的にこだわりつづけることは、なんすばらしいことだろう。そして、ひととして実に高尚なことでもある。だから、悩むことを止めて救済者に回るようなことはしないでほしい。安易な手打ちは、どうかやめてほしい。

近代家族の犠牲者たち

決められたゴール
 なぜ人は人を救いたがるのか。カウンセラーという仕事をしている私にとって、それは大きな命題になっている。
 救いたがるのは、果たしてその人個人の問題だろうか。実は救うという行為が善であり、美しいことであるという支配的な見方が社会に蔓延しているからではないだろうか。そして救う行為は、男より女の側に、より期待されることが多い。

 妻が、アルコール依存症や時にはDVの夫まで救おうとするのをみて、やっぱり女だ、それは女の性(さが)なんだ。などとしばしば言われる。でもそれは、女だけの問題なのだろうか。
 一夫一妻制を支えるロマンチックラブ・イデォロギーを深く信じ込んで結婚し、子どもを育てた。ところが実際は、浮気されたり殴られたりして、傷つけられる毎日だ。家族の外に目を向けても、自分を受け入れてくれる場所はない。実家にも戻れない。妻として生きられない女性が、その立場さえもズタズタにされたときに、「夫を救う」と役割にしがみついて、さらには子どもを支配することで生き延びようとするのだ。もしくは幼児のように無抵抗になって、どんなことが起ころうとすべてを呑み込んで生きていく。やがて精神を病み、生きる力をさえ失う人もいる。
 
 つくづく、女の人生のゴールはなんと小さくて少ないのだろうと思う。それはまるで、「スマートボール」のようだ。
 以前はよく、温泉街などで見かけた和製のゲームだ。パチンコを大雑把にしたようなもので、台は盤面を上にして置かれていて、奥が高く手前が低くなっている。傾斜によって球が手前に転がってくるようになっているだ。パチンコの玉よりも大きくな玉をはじくと、台に打ち付けられた釘の間をボールが行ったり来たりしながら、手前の溝に落ちる。途中の穴に入れば得点が得られるが、ほとんどの玉はあちらこちらに飛ばされたのち、結局は傾斜に従って手前まで降りてきて、得点の入らない最後の穴におさまる。

 そう、女の人生はパチンコではなく、スマートボールだ。パチンコの玉の流れに多様性がある。小さなあたりが沢山あって、時には大当たりもある。何万円も儲かることすらある。ところがスマートボールはパチンコよりずっとしょぼくれたゲームで、パーンと玉を押し出すときだけは勢いがいいが、パンパンパーンとはじかれているうちに、決められた方向へと流されていく。そこには、最後はここしかないという穴が待っている。その穴には、「子育て」「介護」「耐える」などという言葉が書いてあるのだ。

 パーンと打ち出されたときには、いろいろな選択肢があるように見える。キャリアウーマン、海外旅行、ピアニスト、デザイナー、パティシェ、編集者‥‥。しかし、人生の局面で何度かはじかれているうちに、決められた道へと誘導され、九割がたは決められた穴にズボンと落ちてしまう。運が良ければ別の穴に入る事も出来るが、その確率は極めて低い。

二十一世紀のこの時代

 私たちの所にやって来るつけは、今は二十一世紀ではなかったのかと、昔にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えることがある。地方で生まれ育ち、「結婚して初めて東京に着ました」という人もいるし、東京の杉並に暮らしている専業主婦は、「昼間に外出したのは十年ぶりです」としみじみ語った、今、この東京で、橋田ドラマをそのまま演じているような、驚くべき人生を余儀なくされる女性も少なくない。

 Lさんは、都心の大地主と結婚した。Lさんの夫はかつて農業を営んでいたが、その後はコンビニエンスストアを開き、今はアパートの家賃収入を得ている。経済的にはかなり裕福であるはずなのに、Lさんはやせ細り、髪はバサバサで、ポリエステル地の薄いワンピースを着ている。秋だから静電気でそのワンピースはLさんのやせた身体にピッタリと貼りついている。

 カウンセリングにやって来たのは、Lさんの息子の問題があってのことだ。息子が下着泥棒の常習犯で逮捕された。その息子が依存症ではないかということで、公的機関の紹介があって、Lさんが私の所を訪れたのだ。
 Lさんが大地主と結婚したのは、Lさんの父親がその地区の担当営業マンだったのがきっかけだった。「いい嫁はいないか」という話があったときに、「こういう土地持ちで裕福な家なら娘が幸せになれるだろう」と考えたLさんの父親が、結婚をすすめたのだった。

 ところが結婚後には、地獄が待っていた。食事もまともに取らせてくれないし、実家に帰るのを許されるのは盆暮れのみだった。あまりに辛くて逃げようとしたLさんだったが、見つかってひどい仕打ちを受けた。部屋に鍵をかけられて、電気を切られ、電話も切られた。そのときLさんは妊娠七カ月だったという。しかも、真冬だったので寒くてしかたない。Lさんは一晩中、寒さと恐怖に震えた。おなかの子どものことより、まず自分が殺されるんじゃないかと思った。

 そのときにお腹にいたのが、下着泥棒の常習犯である息子である。驚くべきことに、これは一九八〇年代の話である。結婚して二十年余り、都心で暮らしていながら、外出することもほとんどなく、住まいの近くに映画館街があるにもかかわらず、一度も見に行ったことがないという。

 昼の連続ドラマ、女性週刊誌、テレビのワイドショー、それらによって有形無形に流れてくる、「母として‥‥」「嫁として‥‥」のセリフ、そして「女のしあわせは結婚」という情報が私たちに何かを植え付けていないだろうか。二十一世紀のこの時代に、しかも大都会でこのような女性たちがいるというのは、それらの影響なしには考えにくい。

「近代家族のあるべき姿」を植え付けられ
 カウンセリングを受けにくる人の主訴はまず、自分のことか、他者(多くは家族)との関係のことに分けられる。後者はさらに、次の三つに分けられる。

「子どもに問題がある」と言ってくる人は、「ふつうから逸脱した」ことで苦しんでいる。キーワードは「ふつう」あるいは「健全」だ。そこから逸脱した不幸を訴え、早くふつうに戻りたくてカウンセリングにやってくる。

「配偶者に問題がある」と言ってくる人は、「一夫一妻制が破れた」ことで苦しんでいる。多いのは、夫に愛人ができたという訴えだ。

「親との関係に問題がある」と言ってくる人は、自分が親から受けたことを虐待と呼んでいいかどうか迷ってやってくる。親を否定したい自分、親に対して怒っている自分がヘンなのかどうかで苦しんでいる。

 いずれも近代家族のあるべき姿、ふつうの像から逸脱してしまったことで困ってやってくるのだ。その点で言わば近代家族の犠牲者ともいえるだろう。「なぜ、うちは当たり前の家族じゃないのか」と思っている。その原因を見つけ出し、当たり前の、ふつうの家族になりたいと思ってカウンセリングを受けにくる。

 私が上野千鶴子さんの『近代家族の成立と終焉』(岩波書店)を読み、話を聞いたときの衝撃は、「な―んだ、家族って大昔からこうだったわけじゃなく、明治以降にでき上がったのね」というものだ。目から鱗だった。万古不易(ばんこふえき)などではなく、歴史的につくられてきたということを知るだけでも、ふつうの、当たり前の家族に対する見方は変わるだろう。少なくとも私の経験はそうだった。
 多くの人が思い描く当たり前の家族とはどういうものか。

 男がいて、女がいて、愛し合って終生の愛を誓い、苦しい時は支えあい、共に白髪の生えるまで‥‥という幻想のもとに指輪交換をして家族をつくる。そして、「ああ、あなたのセックス、すてきだわ、しあわせだわ」「しあわせだね」「あなた、生理がないのよ」「ついにできたか。ぼくたちの子どもだねえ」。大きくなったおなかに夫が耳を当てて、「ほら、動いているでしょう」「あ、ほんとだ、男かな、女かな。なまえはどうしよう」。

 出産は夫立ち会いのラマーズ法だ。夫婦一緒にフッフッ。ハッハッとやって子どもが生まれる、玉のような子が生まれて「君に似てかわいいね」「さあ、仕事もがんばろう、でも子どもが待っているから早く帰ろう」。やがて、「パパだよー」なんて玄関を開けると、よちよち這(は)ってくる。幼稚園や小学校の運動会には、ビデオを持って子どもに密着だ。

 やがて子どもが成人する、「お父さん、お母さん、ついにぼくも結婚相手ができました」と恋人を紹介する。「まァー、いい子ねえ、あなたたちが愛し合っているんなら、結婚すればいいわ。私たちは二人で暮らすから」なんて言って、退職金を使って豪華クルーズ船に乗って世界半周し、夕陽を見ながら「ああ、私たちの人生ってよかったわねえ」「お互いに死ぬまで仲良く生きていこうね」。

 ‥‥・これがマスコミなど通じて流され、私たちの頭に植え付けられているバーチャルな「近代家族のあるべき姿」だ。

 カウンセリングを受けに来る人達の苦しみは、こうしてつくられた家族像から自分たちは外れてしまったところから発生している。だから、多くの人が訪れるのに、主訴が不思議なほどに似てくるのだ。
 自分たちはそこから外れてしまったけれど、そのような家族はどこにでもあると、思わされている。だから街を歩けば、自分たち以外の家族はみんなそういう家族をやっているように見えてしまう。しかし、実際にそのような家族はどこにもいない。この本で紹介してきた数々の家族こそが、現実ではないだろうか。

 不幸な家族はみんな似ているように思う。では一体何をもって不幸とするのか。与えられた「幸福」のイメージが紋切り型なのであれば、そこから外れた「不幸」が似てくるのは、これまた当然といえば、当然だろう。

 このご時世だから、だれにも人生の壮大な目的などない。ビル・ゲイツになれるわけではないし、五嶋みどりや浜崎あゆみになれるわけもない。とすれば家族を作って子どもをつくって、小さな枠の中でのしあわせを味わって、飢えることなく死んでいく。そうやって人生の像・家族の像というものがますます均一化されていく。それによっておのずと逸脱した家族の不安は均一化してくる。

 家族のあるべき姿から逸脱しているのは、自分たちだけではないとまず知るべきだろう。少数派だと思うから逸脱を恐れるのだ。
 家族像の多様化を最もよく表現しているのは少女漫画の世界だ。ホモセクシャルあり、レスビアンあり、不倫あり。ママの恋人は女だった、パパの新しいボーイフレンドは私の彼だった、なんて言う事もさらりと描いてしまっている。作者が女性だからこそ、窮屈な家族像にからめとられていくという存在だからこそ、そのアンチテーゼして描かれる家族像なのだろう。

 それに比べて、ステレオタイプの少年漫画のつまらなさ。男というものが、どうひっくり返っても、今の社会の支配的な価値の中で、その価値の遂行者にならざるを得ないということをよく表していると思う。

 もちろん、支配的な近代家族を動かし難いもとして捉えて生きている人達にとっては、橋田ドラマと同様に、実にリアルな世界なのだろう。しかし、「近代家族のあるべき姿」というものは、歴史的に見れば、あるときにつくられ登場したものである。そして当然、耐用年数だってあるだろう。だから私は、少年漫画や橋田ドラマに何のリアリティーも感じない。お笑いやパロディーに過ぎないのだと思えば、笑うぐらいはできる。

「オバサンになる」ということ
「男なんてそんなものよ」

 「世間が許さない」
「だってそうじゃない、ふつうは…」
これらの言葉を一つずつよーく点検してみよう。これらは幸運にも失うものが比較的少なかったひと(多くは偶然の産物であったり、賭けに近いことであったりするが)。もしくはその不幸にしがみついた結果。もっと弱い人を支配し君臨できた人が、あとから続く者へて伝達する呪文にすぎないだろう。
「川の流れに身をまかせ」といえば格好がいいが、私は「身売りする」と頭の中でそれを変換する。

 世間の常識に身も心も売ってしまった人は、疑いや不信を持たなくなる。迷いや揺れを自分の中で切り捨ててしまうからだ。こうなったとき人は、オバサンやオヤジになっていく。実際の年齢は関係ない。十代でもオバサン、オヤジはいるし、八十歳になってもそうでない人もいる。

 先日、出張のために土曜日午前の東北新幹線に乗ったら、グリーン車に女性の四人組が座っていた。大きな声で話しているので、主婦同士の旅行であることがすぐにわかった。目的地に着くまでの間、彼女たちの会話をたっぷりと聞くことになった。
 平穏な日常を垣間見ることのできる、しあわせな主婦の会話を聞く事も出来る。でも別の聞き方をすれば、会話の中に一貫して流れているのは「世間の常識を決して疑ったりしません」という暗黙のルールである。決して、「おかしなこと」「変わったこと」は言わない。

「おたくはいいわね、ご主人、理解があって。うちは一泊の旅行だって大変よ。ご飯をつくって、お洗濯をして、いろいろ気を遣ってやっと出て来るんだから。お土産も買って帰らないと」
「おたく、今日の夕飯はどうしているの」
「娘がもう高校生だから、つくってくれるの」
「いいわね。うちの娘なんかだめなのよ。私なんて、冷凍食品買って。これチーンしてった全部メモに書いてくるのよ」

 いかに自分が夫と子どもに気を遣いながら生きていいて、その生き方をいかに受容しているか、そしてやっとの思いでこうやって旅行にでてきたのよね、私たち! ということだけが延々と繰り返される会話だ。

 二時間もの間、聞くともなく耳にしながら、ああ、オバサンになるというのはこういうことなのだな、とつくづく思わされた。こんなものからの逸脱を恐れているのかと、どこかやりきれない気持ちにもなった。
 車窓から雪がかぶった八甲田山をはるかに眺めながら、いつのまにか眠ってしまった。夢の中で私はこうつぶやいた。
「やっぱり女の人生は、しょぼくれたスマートボールだ」

日常の中に潜むもの
垂れ流される「家族像」

  結婚が夢のようである期間はいったいどれくらいだろう。ある人は三日、ある人は一か月、ある人は子どもができるまで‥‥。中にはずっと夢のようである人もいるかも知れない。

 私の本を読んだ友人の多くは「信田さんって、ほんとに不幸な人にばかり会ってるのね」と嘆息する。幸せな人はカウンセリングに来ないのだから、不幸な人ばかりに会う事になるのは当然だ。

 信じられないことが家族の中で起っている。DVはその例だ。男が女を殴る。そう言ったとたん、テレビなどは「卑怯だ」「女を殴るなんて男の風上にも置けない」と男性のコメンテーターが語る。それを見ている女性の視聴者は、おそらく女性を殴るなんてごく一部の変な男なのであって、当たり前のふつうの男は妻を殴らないのだと考える。だって他の家族を知ることがほとんどできないからだ。

 これほど情報が過多な時代にあって、それだからこそ見えなくなっているものも多い。その代表が「家族」だ。しかし多くの人はそれが見えているような錯覚に陥っている。日々垂れ流されるようにして画面から流れる家族像は、夫婦像は、どのようなものだろう。

 タレントがハワイの教会で結婚式を挙げる、指輪の交換、妊娠中の妻をいたわる夫としてやさしさ、そこには愛の幻想と暗黙の家族の秩序が映像として映る仕組みになっている。また大家族ドラマはそれほど広くはない家の中に繰り広げられる、ああでもない、こうでもないという顛末な衝突が見ている人達を飽きさせない。不思議なことにテレビでは、子どもの虐待のニュースが増えると同時に大家族ものを企画として登場する。この絶妙なバランスによって維持されているのが家族像だ。

 落語が定型どおりの語りを聞かせて人々をいつも同じ下りで笑わせること、大家族ドラマがいつも同じ落ちで涙ぐませること。私たちは定型、決まりきったこと、それを当たり前と思うことを日々くり返して生きていく。
 それを日常性といったり、日常生活といったりする。

「家族」の怖さ

 家族のいいところは、この日常性にあると考える人もいるだろう。毎日同じ時間に、同じ洗面所で同じチューブを歯ブラシに絞り出し、同じ方向に歯を磨く。そして定位置に座って同じ朝食を取り‥‥。ホテルに泊まって一番困るのが、そこに日常性がないため、身のこなし方が最初はわからないという点にある。意識せずして行動できるという空間でないため、お茶を飲むにもいちいち決定してエネルギーを注がなくてはならない。洋服を片付けるにも意識してそれをハンガーにかけないと落っこちてしまうこともある。

 ところが逆にみれば、それが家族の恐ろしいところでもある。おかしなことでも、苦痛な事でも、それが日常になるのは簡単なことなのだ。その空間が他者の目になかなか触れないだけに、その日常がどのようなものかなのかはほとんど伺い知れないところがある。
 家族からの虐待で子ども死んでしまう事件が後を絶たないが、おそらくそれは、毎朝同じチューブで歯ブラシに絞り出して、鏡に向かって歯を磨くこととそれほど変わらない出来事として起こっていると思う。
 突然母親(父親)が形相を変え、子どもをひどく殴りつけ、その結果脳のくも膜下出血で子どもが死んでしまうといったドラマチックなものではないだろう。日常の些事の一つとして子どもを殴るといったことが起こっているのだ。それは非日常として、特殊な時間として屹立(きつりつ)しているわけではなく、淡々とした日常の生活のリズムの中に埋没したような出来事なのだろう。

 家族の暴力が恐ろしいのはこの日常性にある、家族の怖さも、この淡々と過ぎていく日常の流れにあると言っていいだろう。
 前掲「母」というポジションで紹介したバラエティー番組の一コマを思い出してほしい。
「私のカレシって、しょっちゅう殴るんですよ、もう玄関開けたガーンって一発でしょ、それから返事が悪いって一発でしょ、それから「メシ」って言ってそばから殴るんです。二人であっち向いてホイをやって、勝っても殴るし、負けても殴るんです。それからセックスするの‥‥」

 こうしゃべっている若い女性はずっと笑っていて、それを聞いている同世代の女性たちも笑っている。
 それに対して、「それはDVではないですか」「笑っているどこじゃないでしょう」と目くじらを立てたいのは山々だが、ここではそれが本題ではない。つまりそういうことが当たり前になって過ぎていく関係が日常生活、ということなのだ。カレシに殴られて痛くないはずはないだろう。目から火が出るようなこともあるだろう。頬が腫れてしま事だってあったに違いない。でもそれは笑って話すようなことなのだ。聞いている女性たちにとっても、こっけいな話なのだ。

 このようなことは、新聞を見ればそれこそ掃いて捨てるほど起きている。一戸建てのそれほど大きくないに二階家の一室に何年も監禁されていた少女がいた。母親を七年間も監禁していた三十代の息子もいた。
 活字にしてみれば恐ろしいことでも、それこそ淡々と、まるで毎朝顔を洗うように、米を研いで炊飯器のスイッチを入れるように、その家族において起こっていたに違いない。

 この日常生活のもつ得体の知れない力を何と言ったらいいだろう。習慣の堆積のもつ抗(あらが)いがたい力、それはまるで麻薬のようだと思う。
 多くの麻薬依存症者が必死に五日間薬を断つ、脂汗を流しながら、時には手を震わせながら断つ、しかし抗いがいものに身を任せて、多くは再び薬に手を出していく。アルコールも同じだ。半年間酒を止めていたが、なにげなくいつもの道を歩いていたら、知らない間にいつもの自動販売機に手を伸ばしていたということもしばしば起きる。

 離れようと思っているのに、それが苦痛に満ちていることはわかっているのに、そこに戻っていってしまう。そんな麻薬のような日常生活が家族というものだ。

ロマンチックラブの夢破れ
 家族は二人の男女が結婚することからスタートする。あのまがまがしい角隠しというもの、そして有名無実であるバージンロードという名の道、父親から夫に手渡される処女である女性(花嫁)、よくよく考えてみればどのような意味を持つのか分からない儀式「結婚式」である。そこから時計の秒数が時を刻むにつれて、砂時計の砂がさらさらと積もっていくように二人の時間は積み重ね上げられていく。そして気がついたときには、それは麻薬のような日常生活を作り上げてしまっているのだ。

 その生活がどこか苦痛に感じる人はいるだろう。結婚というものがライフサイクル上決定的な意味を持っている人、つまり女性たちにとって、結婚に対する期待や賭けは大きいからだ。まあ「永遠の愛を誓う」と言う訳だから、その期待を「大きすぎる」などと批判するのはかわいそうというものだろう。

 しかし、何度も言おう。カウンセリングに関わって感じるものは、多くの男性は「結婚は制度である」と考えているということだ。愛の結実だとか、愛の成就(じょうじゅ)という感覚がないわけではいが、それよりも、やっと望むものが手に入った、さあこれで条件が整った、という感覚が大きいのだろう。したがって結婚生活に対しても自分が維持しているのであって、自分の人生(いってみれば仕事)を支える基盤づくりを手抜かりなく行こうという感覚が大きいのではないだろうか。

 一方、女性にとって結婚はパスポートと書いたように、身分証明書の一つである。女同士でも、「既婚か未婚か」「子ども産んでいるか否か」というスクリーニングを行う。それは男性同士が会った瞬間に社会的地位の上下を値踏みするのと同じことである。

 女性は結婚、出産といったライフイベントによって身分を規定されてしまっている。規定されている人ほど同性を同様に規定しようとする。これが不幸同盟への入り口だ。女同士が規定しあうなんて、何と悲しいことだろう。
 ここで、ロマンチックラブ・イデォロギーという言葉を思い出してほしい。結婚が女に幸せとする考え、言い換えれば「愛」「性」「結婚」の三位一体こそが女の幸せであるとするイデォロギーを信じて結婚し、やがてその夢が破れた女性たちの行く末は、どうやら三つに絞られてしまっているようだ。

 妻の座を守って不幸同盟の一員でありつづけて共依存で生きるか、様々な形で復讐するか、そして離婚するかの三つである。現実では第一の道を歩む女性がなんと多いことか。しかもこの連鎖は時代を超えて脈々と続いている。この連鎖をなんとか断ち切れないものだろうか。
 次の章では、その方法を考えてみようと思う。

つづく 第五章 生き延びるための「技術論」
別れられない人のための「しのぎの生活」
「迷う」という前進