DVの夫、アルコール依存症の夫、ひきこもりの子ども、摂食障害の子どもを救うという形で、DVの被害者である妻たちは、世話する対象である人の関係にアディクトし(ハマり)支配していく。そのことにおいては、加害者となる。
本表紙 信田さよ子著引用
赤バラセックスレス夫婦だって不倫や浮気は楽しいものだしロマンスがある。浮気性の妻や夫をどうあやせばいいのか、恋人の浮気疑惑が浮上したときはどうしたらいいか、恐るべき夫の言い訳の”ただのお友だち”をどう撃退するか?

第三章「女」が沈むとき「母」が出る

女の支配、男の支配

妻たちの「完璧な支配」
 殴られても浮気されても別れない妻たちが最終的に目指す「完璧な支配」は、夫を自分がいないと生きていけない人間にすることだ。

 男の支配は、カウボーイのように、柵で囲って、「おまえ、もう逃げられないだろう。おれのものだぞ」というようなものだが、女の支配は、手をそぎ、足をそぎ、そして頭を退化させて幼児のようにして、「あなた、わたしがいないと生きていけないでしょう」という凄まじいものだ。女の方が弱者である分、知恵を絞るから高等な支配となる。

 別れずに我慢し続けている妻は、夫にとっても都合のいいものだが、男の身勝手な言い分に、「男は何歳(いくつ)になっても子ども」がある。中年男がなぜ突然、ボクちゃんに変身してしまうのだ。浮気がバレたときの、この変身ぶりはテレビのドラマに欠かせない。自分を子どもに仕立て上げて、妻に世話を焼かせつづけたい男には、「私がいないと生きていけない」という母なる支配構造が実に心地よさのよいものなのだろう。

 しかし、その心地よさは、社会的地位や経済力が男の側にあって成り立つものだ。定年退職したり、病に倒れたりすれば、そこから女の支配は復讐へと変わる。
 典型的なエピソードがある。さる有名な財界人が、糖尿病が悪化し足腰が立たなくなって入院した。もちろん、豪華な特別室だ。しかし、そこを舞台に繰り広げられたのは、何人もの愛人をつくられながらも離婚せずに何十年も耐えてきた老婆の、凄まじい復讐劇だった。

 老父はぼろぼろのパジャマを着せられているが、病院側は口出しできない。高額な差額ベッド代をいただいている特別室だから、お客様の言いなりで、治外法権なのだ。
 妻はよく病室に姿を見せるが、見舞いの為ではない。紫の帽子には紫の羽根、紫のステックを持って颯爽(さっそう)とあらわれ、ステッキで夫の布団を跳ねのけて、夫の体を突っつくのだ。言葉が不自由な夫は、「あ、わわわ」と呻くことしかできない。
その様子を憎々しげにじっと眺めて帰ってくのだそうだ。

 これを女の業の話で片付けてしまいたくない。これはジェンダー(社会的性役割をはじめとする、文化によって作られている性差)の問題、社会的構造からくるものであることを忘れてはならない。

私はこうした女性と会うたびに、胸が痛くなる。長い間、彼女が耐えてきた苦しみは、こういう形でしか処理できなかったのだろうか。彼女の人生に、別の幸せはなかったのだろうか。

救済か、復讐か

 加害者か被害者かというのは、単純には割り切れない、私はそれを「加害・被害の重層性」と表現している。女は男社会から支配されているから、ジェンダーとしては弱者であり被害者だ。しかし、その人は往々にして、自分に被害を与えた人、つまり加害者と同じような形で誰かを支配している。奴隷は主人に似せて物語をつくるとしばしば表現されるが、その通りではないかと思っている。

 DVの夫、アルコール依存症の夫、ひきこもりの子ども、摂食障害の子どもを救うという形で、DVの被害者である妻たちは、世話する対象である人の関係にアディクトし(ハマり)支配していく。そのことにおいては、加害者となる。

 本来、救済というのは、救ってほしいという人がいて初めて成り立つ行為だ。たとえば地震で倒壊した家屋の瓦礫の中かせ、「助けて!」と叫ぶ人がいて、その要求通りに瓦礫から救うことを救済という。
 ところが、求められても行かないのに、それどころか、「おまえなんて邪魔だ」「あっちへ行け」「うるさい」と言われているのに、「だけどね、あなたのためよ」と言って引かない人を果たして救済者というのだろうか。その人がしようとしている救済というのは、一体何なのだろう。

 私が救済という事に疑問を抱くきっかけになった事例がある。男から凄まじい仕打ちを受けながらも離れようとしないGさんという女性がいた。
 Gさんは大学時代知り合った男性の強引なところに惹かれて、付きまとうようになる。そこから交際が始まり、妊娠する。それを告げたときの彼のセリフが、
「お前の子供なんか、俺が欲しがるわけないんじゃないか。お前が側にいたいならいてもいいけど、お前とは絶対に結婚しない。ブスだから」
 そこまで言われた彼女は、「この人には私しかいない」と思って離れない。もちろんお腹の子は中絶した。

 かれは大学卒業後、歯科医師となる。その研修地である北海道までついていき、そこでまた妊娠する。これがついに彼の親が知るところとなり、二人は結婚した。
 結婚してからも、彼から暴力と暴言が繰り返されたが、Gさんはそのご理解しようと努力し、「彼がこうなるには理由があるに違いない」と考えて親との関係なども探り、彼を何とか救おうとする。そこが不思議なところなのだが、彼の暴力・暴言が、彼の不幸・病理に起因していると決めつけているのだ。

 私はGさんの話を聞いて、なぜそこまで暴力や暴言に甘んじなければならないのだろう、思った。
 もしかして、救済というのは復讐じゃないだろうか?
 腕力があれば、殴られたら殴り返すという方法もある。しかし、それが出来ない女性は、
「このひとはなぜ殴るのだろう」
「病気なのかしら」
「なぜ病気になったのかしら」
「きっと、このひと、不幸な生育歴に違いないわ」
 と考え、殴られながらもゾンビのように立ち上がる。
「わかっているのよ。あなたは、可哀想な人なのよ」
 振り払っても振り払ってもまとわりつく亡霊のようになって、男を救いたがる。Gさんの例は極端にしても、似たり寄ったりの例にはその後も何度も出合っていて、ほとんどはDV被害者に見られるものだ。そしてさらに、日本の夫婦関係の多くが、これに近いパターンなのではないかと思うようにもなった。

「救ってくれ」とも言われていないのに救おうとする、もしくは、都合のいいときにだけ「救ってくれ」と身勝手に求めている男に従って「待っていました」とばかりにいつまでも救いつづけるのはなぜなのか。これまでは「愛情」「母性」「情が深い」などという言葉で塗りこめられてきたが、それを復讐とでも考えなければ、納得がいかない。

 男にも、同様の行動をとるひとたちがいる。ストーカーの男たちは、相手の女を救おうと思っている。相手が拒否するとひるむどころか、
「ああかわいそうに。恥ずかしがっているんだよな、ほんとはぼくのことを愛しているのに、彼女は本当のことを言えないに違いない」
 と言いながら付きまとう。相手の一挙手一投足を観察し、「君のことをぼくは全部知っているよ」というわけだ。
 ストーカーから逃れるために海外へ行った女性がいた。すると、現地に着いたその日に、宿泊先のホテルに電話が入る。
「元気?」
「なぜわかったの―」
「いいかい、君の事は全部わかっているんだ。君はぼくの手の内にいるんだよ、逃げられないんだよ。ぼくを選べば君は救われるんだよ」
 ぞっとするように話だが、実際にあった例だ。
 ストーカーの多くは、「殺す」とか、「傷つける」とは直接には言わない。「ぼくだけが君を救えるんだ」と言ってストーキングを続けて追い詰めていく。救済者の極端なかたちがストーカーといえるだろう。

夫に病名をつけたがる

 金なし、力なし、美貌なし、実家なし、子どもはいる、バカじゃなし、という人が、たとえば夫に浮気されたり殴られたりしたときに、「私は被害者だ、あなたは加害者だ」と正面から激突すれば負けるに決まっている。正面からの勝負をあきらめた妻たちがこぞって始めるのが、「なぜ夫は殴るのか」「なぜ夫は私を苦しめるのか」「なぜ夫は私を傷つけるのか」という謎解きだ。

 そうやって謎解きすることで、人生の時間をやりすごしていく。悲惨な場合は、二十年も三十年も謎解きに時間を費やし、老いていく場合もある。
 謎を解くために、心理学や精神医学の難しい専門書まで読み込み、「あ、この人はこれだったんだ」と病名を探し当てる。

『第二章DVの被害者はこうしてあらわれる』前章でも触れたが、妻がつける夫の病名で多いものに「アダルト・チルドレン」がある。アダルト・チルドレンとは、自分の抱えている問題や生きづらさが、親との関係に起因すると自ら認めた人達のことで、本来は自己申告による。
だから妻自身が「私はアダルト・チルドレンではないでしょうか」というのであればわかるが、「夫はアダルト・チルドレンでは」というのは実は的外れなのだ。

 夫があんなに残酷なことや、正気を失っているとしか思えないようなことをやるのはなぜだろうか。そういえば、夫の父親も長野県の実家で大酒を飲んでいた、姑を殴っていたらしい、などと夫の生育歴を調べ上げる。そして、あのひとはアダルト・チルドレンなんだ、だから、こういうことをするんだ、わかった、わかった、と結論して、あの人をカウンセリングに連れて行かなくちゃ、ということで私たちの所に現れる。

「人格障害」も多い。これは簡単に言えば、ちょっと変わった人のことだが、アメリカでは一九八〇年以降、さまざまな人格障害が診断名として登場し、もちろん日本の精神科医もその影響を受けた。

 相手を子どもや病人に見立てれば、自分が高位に立てる。あとは、「わかった、この人の謎が解けた」と思ったときに、「私だけがこの人を理解している」と思える(だから「理解者」というのも「救済者」と同様に、曲者なのだ)。

 暴力、ギャンブル、浮気、アルコール依存などで夫をから苦しめられている妻は傷つけられている。しかしそれを認めればプライドまで傷つき、惨めな思いをする「病気だから殴った」「浮気は病気だから」という事にしてしまえば、自分が傷つかずにすむだろう。

「風俗」という名の救済

 私たちのところにカウンセリングを受けにやってくるクライエントの中には、売春をしている女性がいる。なぜ彼女たちが売春をするのだろうか。
「誰からも褒められたことがないんです、親からも。でも売春すれば、行きずりの人が寄ってきて、『君、可愛いね』って言ってくれる。一緒に寝れば「きれいな肌だね」とか言ってくれて、肌を寄せ合うとあったかい」

 恋人もいるのだけど満たされない。普段はリストカット(手首を切る)をしていたりもするけど、行きずりの男とセックスをしているときには、つかの間の、たとえようのないやすらぎと快感があるのだという。それは決して性的快感などではない。多くの男が想像するように、彼女たちはセックスが好きではない。また、「お金の為でもない」という。

「お金をもらわないと、男の方が気がすまないでしょう。重荷になっちゃう。だからお金をもらう。お金をもらってあげているんです」
 男性の方は、性的快感の獲得を目的にしているのかもしれないが、女性の方はそこに行き着くまでの肌の温もり、誰に言ってもらったことのない言葉などを求めている。性行為に至るプロセスの関係を欲しているのだ。
 もう少し深く掘り下げて、考えてみよう。
 風俗業は、男にとって救済機関という側面をもっている。そこでは、射精させることにおいて、「私が射精させるのだ」という強い支配感(男が自分のコントロール下にあるという感覚)が女性に生まれる。あるいは、その瞬間の脱力した子どものような男を眺め、自分は菩薩(ぼさつ)のような救済者と思っているかもしれない。そこにあるのは複雑な支配・被支配の関係だ。風俗に通う男たちは、思うがままにされているようで、実は大きな支配構造の中にからめとられている。

 支配・被支配の逆転とそれに伴う快感、また、まるで親と子のような、主人と奴隷のような完璧なまでの被支配体験は、非日常の世界だ。日常からそこに入り、そしてまた戻ってくる。しかし、その非日常でお金を出すことで手に入れているのは男である。

 東京の新宿の歌舞伎町の不夜城のようなネオン街を歩きながら思う。男はいいね―、いろいろな世界があるんだねー。私たちに許されるのは、まあ、せいぜい、ディズニーランドの非日常くらいでしょう、と。
 そこには、並のアルバイトでは手に入れられない時給で働く無数の女性が存在する。その迫力に私は圧倒される。

 彼女たちを蔑視するのはおかしい。だって経済力を握っている男たちが、その支配劇を成り立たせていることは間違いない。そのことは忘れちゃいけないと思う。
 風俗産業で働く女性たちの事について、ついでに書いておきたいことがある。

 あれから世の中にはいろいろな事件が起こっているので、忘れてしまった感があるが、二〇〇一年九月の歌舞伎町ビル火災では、「スーパールーズ」という風俗店で働く若い女性たちが命を落とした。

 あのとき、風俗店を飲食店と言い換えたり、そこで死んだ男性客たちへの実名を伏せるという動きがあった。「そのようなところ」で死んだ男性客への配慮だったという。一酸化中毒で死んでいるため、遺体の損傷はなく、すぐに身元がわかったのだそうだ。にもかかわらず、実名の公表が遅れたのは、そうしたいきさつがあってのことだと聞いたとき、腹が立ってならなかった。「ホテルオークラのスイートルームだったら、実名を出すんですか!」と思わず、テレビ関係者相手に声を荒げてしまったほどだ。

 だれが何を恥ずかしがるのか、誰が誰に配慮して何を隠そうとするのか。「スーパールーズ」で働いていた人の多くは、地方から出てきてアパートでひとり暮らしをする女性たちだった。夜どおし働いて、ひとりで暮らしのアパートに帰るのだ。ボーイフレンドのいるひともいた。その女性たちが働いていた職場で死んだからといって、何が恥ずかしいのだろうか。

「母」というポジション

かつて救済は「母性本能」といわれた
 恋人や夫に殴られても蹴られても、「あの人は可哀想なひとなの」と言って別れようとしない女性たち。「あの人を救いたい」と言いながら、アルコール依存症の夫の世話を焼きつづける妻たち。こうした共依存と「母性」が深くかかわっていることはすでに述べた。

 複数の若い女性(一般人)が著名人ゲストとともに、恋愛にまつわるエピソードをおもしろおかしくトークする深夜のバラエティー番組がある。少し前の話になるが。そこでDV体験談を若い女性が「おもしろい話」として堂々と披露するのを見て、私はひどく驚いた。その二十代の女性の暴力の考え方があまりにも古典的で、とても二十一世紀の若い女性の話とは思えなかったからだ。

 その女性の恋人は、「メシ!」と言っては一発殴るという暴力的な男性で、部屋に入ってきては殴り、セックスしては殴り、あっち向いてホイをやろうと言っては殴るのだそうだ。その女性は、ゲームに負けても殴られる。「私が勝ったのになぜ殴られなきゃならないの」といえばまた殴られる。

 彼女がこの話をすると、スタジオにいた同世代の女性たちから笑いが起こった。さすがに司会者が表情を曇らせて、「こういう番組だからいいけど、番組が番組だったら大変だ。面白い話でなくて、ひどい男じゃないか」というようなことを言った。
 驚いたのは、それに対する女性の言葉である。満面の笑みを浮かべて「殴られると母性本能が刺戟されちゃって」というのだ。
 現在では、母性本能などと言ったら、少なくとも私の業界では、笑われてしまう。そのように陳腐化した言葉であると思っていたのに、若い世代が本気でこの存在を信じているのだ。これは、どうしたことだろう。

 かつて、女による救済という行為は母性本能の為せるものと言われてきた。菩薩像と重なる言葉であった。男を幼児化することで、男の加害者を擁護するために実に便利な言葉として使われてきた。いかに男にとって都合のよい言葉であるかは、ここに紹介した若い女性の言葉からもおわかりいただけると思う。
 それにしても、この女性はどのような親子関係で育ったのだろう、この女性の両親はどんな夫婦関係だったのだろう。殴られることで自分の価値、それもあたかも母親であるかのような価値を自認するという回路は、どうやって作られてきたのなのだろう。

 暴力・暴言を受けつづけていると、何かが壊れていく。壊れるだけならいいけど、感性が麻痺して腐っていくような感じすらある。時にはその鈍感さを武器に、異様に元気だったりする。また、さらなる弱者を見つけて支配するようになる。その対象は、子どもであったり、嫁であったりする。我慢してきた人ほど息子の妻にもきびしいというのは、まさにその典型ではないだろうか。

橋田ドラマはなぜヒットする?

 その「支配」は、誰から見てもわかるような支配ではなく、表面上は「愛情」や「救済」に見えたりするから厄介だ。その分かりやすい例が、ここまで何度も俎(そ)上にのせてきた。「母性」しか「母の愛」と呼ばれるものだ。殴られたり蹴られたり、あるいは浮気されるのは、妻にとってみれば女であることの否定といえる。
「お前の顔など見たくない」などと言われながら殴られる妻たちが、その惨めさから逃れるためにしがみつくのが「母」というポジションだ。

「女」という言葉が沈むと、今度はポーンと「母」という言葉が浮かび上がってくる。母というのは菩薩のように不死だ。いってみればゾンビだから、殴られようが蹴られようが、何をされても浮上できる。救済者の最たるものが母であり、それは男にとっても憧れであり、かつ都合のよいものだから、妻が母という高みに立った途端に、夫も妻の罠にハマる。

 私は常々、日本の男性の女性への欲求水準は低いと考えている、男性が女性に要求するものは、三歳か四歳の幼児が砂場で遊んで手が汚れたときに、「ママ、手が汚れたよ(お手を拭いて)」「ママ、バケツ(持ってきて)と要求するのとあまり違いがない。「メシ」「風呂」などはその典型だ。時には言葉すら使わずに指でさしたり、あごを使ったりする。こうなるとまるで幼児だ。その幼児性かつ勝手な要求を全部満たしてくれるものを、仮に「母」と呼んでいるのではないと思えてならない。

 その場合、母性も母も、不幸な要素を含むことが必要条件となる。「しあわせな母」というイメージは一般的ではない。ある六十代の女性が、息子の妻に対して、「結婚ってねえ、耐えることなのよ」「耐えるのが女の修行よ」と語りかけたという。もちろんこれは現代での話であり、そして母は母性というものには耐えられるというイメージがつきまとっているのだ。まるで女の人生は、大地震にも耐えられるすぐれた耐震構造のビルのようだ。

 しかし、おかしいではないか。女といえど、母といえど、人間として生まれたからには、満たされるべきだし、充足するべきではないだろうか。
 プライドが傷つけられもせず、殴られもせず、「君ってすごいね」と言われるような幸福感が女の人生にあっていい。ところが、そういうものがあるのだということを知らない人たちが沢山いる。知らなければ要求も生れない。

 女性にしてみれば、母になることで、一種の支配感情が満たされるのだ。いわゆるヤンママと呼ばれる女性たちでさえも、「うちの亭主、どうしようもないのさ、私がいないと」と言う。ひととしての不幸を母の不幸に仕立て上げ、母になることで、夫を支配し、支配される夫を見て満たされるのだ。

 その満たされた感情を一概に否定することはできない。しかし、そうではない満たされ方もあるのではないかということが、私がここで言いたいことだ。
 耐える妻、耐える母というと、橋田壽賀子ドラマがすぐに思い浮かぶ。彼女がどのような人生を送られた人かはわからない。しかし、マスコミを通じて流れてくるところによれば、夫に愛人がいたことで苦しまれ、その後、夫が倒れてからは献身的に看病して最期を看取られたようだ。

 彼女のドラマは、高視聴率を稼ぎだしているのだという。似たような人生を送ってる女性が、大勢いるという事なのだろう。登場人物の人生をなぞらえることで、「みんなそうなのね」と仲間であることが確認できるのだ。不幸同盟の強化が高視聴率の秘密なのかもしれない。

苦痛に比例して上がる価値

「私はずっと、夫の為に、子ども為に生きてきました」と胸を張る女性が少なくないし、男の側も「女房に苦労かけた」と妻を持ち上げる。これからわかるのは、受けてきた苦痛に比例して母としての価値、妻としての価値が上がると思っている人がいかに多いかということだ。日本の高度成長期に、身を削って働いたことがサラリーマンとしての価値を上げた事と似ている。ところが不況となり、リストラの人員整理の対象となった途端に、「会社のために尽くして来たのに」と恨みつらみを語る。

 犠牲的精神は何をもたらすのだろうか。「あなたのために犠牲を払ってきた」と言われるほうにしてみたら、たまったものではないだろう。「あなたのために、お母さんは身を粉にして‥‥」「あなたのために離婚しなかった」というのは、親の勝手な言い草だ。子どもが「頼んだわけではない」と答えたとしたら、それは正しい。

 ある五十代の女性は、「子どもの頃から、おけいこごとをさせられるたび、『これは全部あなたの為よ』と母親から百万回以上も聞かされてきた」と言う。そして自営業を手広く営んでいた母親は「これもあなたのために」と言って、彼女名義で預金をしていた。ところが、「お金がない」と言ってはその通帳からお金を引き出す。一時はすべて使い切ってしまったが、やがて余裕が出来たのか、その母親がまた「全部あなたの為なの、これ」と言いながら、通帳入にお金を戻したという。

 もちろん彼女は、「あなたのため」という言葉を何十年にもわたってずっと信じてきたからだ。母親が勝手に出し入れすることも「私のために」やってくれているだと、疑ったこともなかった。でも、どこかで何だかヘンだと感じてはいた。あるとき、彼女の二十五歳の娘が入院し、手術をするのでそのお金を初めて使おうと思った、そのとき母親は、「今、お店の経営がうまく行っていないから、あのお金には手を付けないでちょうだい」と言った。その一言で、まるで魔法が溶けたように「あなたのために」が何だったかが分かる気がした。

 彼女は、「やっと母親の正体がわかりました」と、笑いながらこのエピソードを話してくれた。

救済者の罪

「愛情」と「家族」に塗りこめられたもの
 Hさん(男性)は三十八歳で、結婚歴がある。妻は摂食障害であり、時にはリストカットをする。Hさんは献身的に妻の世話を焼くが、結婚二年目に妻から離婚を切り出される。離婚するとすぐに、彼女は別の男と暮らし始めるが、Hさんはそうなってからも彼女に仕送りを続けた。

 彼女の方も、「今度、新しい彼ができた」などと、Hさんに逐一、近況を報告する、体重が四十キロを割った彼女は新しい恋人と事実婚の現夫との間を行ったり来たりしながら、双方から援助を引き出す。Hさんも彼女が要求するまま、一所懸命に尽くす・Hさんのほうは再婚していないし、恋人すらつくらない。
「ぼくは彼女を守らなければいけない」とHさんは言う。
「前の奥さんから手を引いてもらいたい」と私たちが言うと、
「それはできません。彼女を心底理解しているのはぼくだけなんです。理解しているからこそ、離婚に同意したんです。今の彼もよくやっています。だけど、彼女をこうして守ってあげているのはぼくだからできることなんです」

 Hさんは、「僕が手を引いたら彼女は死にます」とまで言う。現夫が留守のときなど、マンションを訪れて、やせた全妻にスプーンでごはんを食べさせたりすることもある。
 さて、これをどう考えるか。Hさんの愛が深いからこそなせる業なのだろうか。一般的にはそう思われるかもしれない。しかし、私にはなぜかグロテスクな行為にしか見えない。

 ペットに餌をやるようにひたすら援助を続けて、太らせたり、運動不足にして、生きていく力や知恵を奪っていく。Hさんの行為はそれと同じように見える。彼女には第三者である専門家の援助こそが必要なのに、Hさんは事実婚の現夫、さらに新しい恋人ができたために、その間を行ったり来たりするだけで専門家を訪れることもなく日々を過ごしている。そうすることで、自分で生きていく力を少しずつ退化していくようだ。

 ペットと飼い主の関係は双方向であるかのように見える。でもペットがこれだけ多く飼われるのは、一方通行の関係にペットが反論しないからではないだろうか(ペットが反論できるはずはない)。自分の思いをそのまま託せる存在だからこそペットという。それと同じものをHさんに感じて、気味が悪くなった私だ。
「お前のため」「あなたのため」と言って世話を焼く救済者の行動は、時として双方向でない関係をつくり、その結果、相手から力やエネルギーを奪っていく怖さがある。

 このように、男女や親子の間の支配構造は、外からは見えない。ビルだって、表からは構造はみえない。天災やテロで壁が壊されて初めて、中から鉄骨が飛び出してくる。人間同士の支配構造もそれと同じだ。夫から妻へ、もしくは親から子どもへという支配構造はすべて、「家族」という言葉と、「愛情」という言葉によって塗りこめられている。

 企業もそうだ。「企業家族主義」という言葉ある。「面倒を見てやるよ」というような、舎弟のような関係、そうした家族主義によって日本の企業は成り立っている。リストラにしても、涙ながらに、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んでリストラするんだ」という形をとりつつ首を切っていく。

 企業が倒産したとき、企業犯罪が露呈したときなど、追い詰められた局面で、男たちが、泣く姿に遭遇する。彼らが何と言って泣くかといえば、「ぼくは悲しい」ではない。多くは、大義に殉(じゅん)じて泣くというスタイルをとる。その大義とは何か、上には忠を、下には、「いっさい社員は悪くありません。私が悪いのです」と、かばう態度をとる。つまり、「ぼくは企業という一家の長として責任を果たすのだ。子どもである社員は悪くない」と言っているのであり、親子を模した一つの関係性の中で役割を遂行しているという満足感で泣くのだ。流される涙は「大義に殉じた私はなんて立派なんだろう」という、一種の自己陶酔によるものだ。

 テレビ画面を通して多くの政治家が泣く姿も見るが、いずれも陳腐な自己陶酔だ。自民党の加藤紘一の乱のときなど、「大将!」と叫んで泣く政治家を見てほんとうに呆気にとられた。
 ちなみに「女々しい」は「潔い」の代名詞、「雄々しい」は「自己陶酔」の代名詞と私は捉えている。

 そういう支配構造は、日本の隅から隅まで行き渡っている。行き渡っているからこそ「構造」というのだが、「愛情」とか「母性」とか「家族」とかを支配構造として見てしまうと、あまりにも味気なくて、夢も希望も無くなってしまうような気がするので、うすうす気づいているのに、「違う、違う」と振り払いながら見ないようにしているのではないだろうか。

なぜそこまで許すのか

 他人が聞いたら信じ難いような、夫の横暴や身勝手を許している妻は少なくない。
 ある夫は、会社の若い女性社員を自宅に連れてきて、「酒を出せ、つまみをつくれ」と妻に命令し、自分はその女性社員と酒を飲んではしゃぐ。そこへ妻が、まるで召し使いのように見て見ぬふりをして酒とつまみを運ぶのだ。

「『何なの。これ』って思ったんですが、最終的には主人の仕事のうちだと自分で自分を納得させました」
 似たような例は、私たちのカウンセリングの場では山ほど出合う。繰り返し身勝手なことをされているうちに、感覚がだんだんおかしくなってきて、夫の行為が仕事に必要なことなのかどうかがわからなくなってくるようだ。その結果、「これも仕事のうち」という夫の言葉にずっと騙されつづけることになる。

 身勝手な夫たちに共通しているのは、家庭の外では妻を持ち上げるということだ。
「家内には頭が上がりません。ぼくのわがままを全部許してくれている」
「ぼくがわがままで子どもだから、何でも許してくれる母親のような女でないとダメなんだ。彼女(時には”あいつ”と言ったりする)だからつとまるのですよ」
 だれもかれも、持ち上げ方は同じだ。「妻は仕事ができる」とか「妻には才能がある」などという言い方をする夫は滅多にいない。たまに、少々屈折した男はそうやってほめることはある。それは「妻はフェミニストでね」と自慢する男と似ている。

 多くの男性は、妻が先に死ぬと、必ず、妻はこんな至らないぼくのわがままを全部許容してくれて偉い妻だったと周囲に言いたがる。私はそうした言葉を聞くたびに、怒りが湧いてくる。妻が自分より先に亡くなったのは、浮気などの身勝手な男性の行動が大きなストレスを妻にかけたことが原因の一つかもしれないのに、墓の下に入って口がきけなくなった妻を持ち上げて夫婦関係を美化し、自己弁護しているように聞こえてならないからだ。

 そういう男に対してというより、それが堂々とまかり通っている世間の常識というものに憤りを感じるのだ。
「男は何歳(いくつ)になっても子どもだから」
 それをお題目のように何度も聞かされている妻は、わがままを許容する包容力こそ、夫への愛情なのだと思い込んで、忍耐の結婚生活を何十年も続ける。

生きる力を奪われるひとたち

 女に生まれて損した、男に生まれたかったと思う瞬間は、私自身、この歳になってもある。「男は何歳になっても子ども」などというセリフを聞くと、そんな都合のいい理屈で生きていけるのなら、私も男になりたいと思う。
『全身小説家』というドキュメンタリー映画がある。監督が「ゆきゆきて、神軍」の原一男さんで、作家・井上光晴の晩年を密着して迫ったものだ。

 それによると、井上光晴が言っていたことはすべて嘘ばかりだということが、周囲の証言でわかってくる。そうした人生を送りながら井上は文学伝習所を開き、そこへ集まってくる人をことごとく虜(とりこ)にしていく有り様が描かれている。その中には女性も沢山いて、彼の魅力に惹かれていくのだが、もちろん井上には妻がいる。彼女はかつて作家を目指していた人で、美人だが、耐えに耐えつづけてきたという雰囲気を漂わせている。

 井上光晴が多くの人(もちろん彼の信奉者である女性も含まれる)を自宅に招き、酒を飲む、台所では妻がもくもくと酒のつまみを作る、そんなシーンが多く撮られていることは井上光晴の価値を下げるものではない。でも妻である人の悲しみを私は感じてしまうのだ。
 井上はがんに侵されていて、最期は妻に看取られて死んでいく。

 この映画の評価は高かったらしいが、私はこの手の物語はおぞましいと思う。妻を傷つけ、散々好き勝手に生きてきた夫を、最期は妻が「あなたには私しかいないのよ」といって看取る、そんな都合のいいことを許してたまるか! ということだ。
 こうした男と女の関係を「関係性の絶対性」と表現する人もいるらしい。妻はそれで満足なのだろうが、最期を看取るその一瞬のために何十年の歳月を費やす必要があるのだろうか。耐えつづけていればいけなかったということなのだろうか。

 しかし一方で、そのような男がしあわせかということ、そうではないだろう。救われる必要がないのに救われるというのは、救われる人にとって果たしていいことなのだろうか。

 女に救済される男は、生きる力を奪われている。「専業主婦」という、働く力を奪われた人たちが、夫からそれを奪い返していく図式のようにも見える。収入を得る手段を失った妻が、夫の生活能力を奪っていき、一人で生きていけない者同士となる。

 男と女が一緒に居なければ生きていけない仕組み、共依存になるべく仕組んだ制度をつくってきた人たちが考えだした夫婦のありようなのだろう。
 愛人を作って妻を傷つけた男が救われる、つまり被害者が加害者を救うということによって、その男は自分がやったことの責任を取らせてもらえない。これは加害者である男にとって不幸な事ではないだろうか。

 人には耐えなければいけないことはある。しかし、浮気や暴力など、相手が明らかに恣意的にやっていることに対して、なぜ耐えなければならないのか。
 さらに、こうした男女のドラマを身近に見て育つ子どもがいたら、どうだろう。一番の犠牲者だろう。

子どもの問題に見えて

 夫婦の「救う・救われる」という関係、もしくは共依存の関係が、摂食障害やひきこもり、虐待など、子どもに影響するケースは多い。調査することが出来るのであれば、かなりの数に上るはずだ。「子どもの事について相談したい」と私たちのところに訪れる人の多くが、実は夫の暴力やアルコール依存に悩んでいるという事は先に書いたとおりだ。

 一番多いのは、たとえば娘の問題行動で母親がカウンセリングにやってきて、グループカウンセリングに参加したり、本を読んだりすることで変わってくるというケースだ。「先生、これは子どもの問題じゃないです」と言い始める・

Iさんの娘は十五歳。精神科に通って大量に薬をもらい、オーバードーズ(大量服薬)を繰り返す。リストカットをしたり、ほとんど家に帰らないで、男の家から別男の家へと泊まり歩く。高校にも登校せず、アルバイトだけをきちんと続けている。娘の夢は「いずれアメリカに行くんだ」ということだ。
 Iさんは娘のことを夫に半分しか報告していない。娘の手首のケガも夫には伏せたままだ。Iさんの家は地元では名の知れた名家で、Iさんはそこのひとり娘だ。そこへ養子にきたのが夫であり、夫が肩身の狭い思いをしてはいけないと気を遣い、妻であるIさんは夫をたえず前面にだして立て、自分は目立たないようにしてきた。そうするように両親から厳しく言われたからだ。

 一方の夫は、Iさんの意見には決して賛同することがない。娘の不登校になったときも、娘のために何かしてあげられることはないかと夫に問うと、「中卒でいいじゃないか」と即答した。「ほんとにあなた、娘が中卒でいいんですか」というと、「いいさ」と言う。そのくせ娘が「パパ、アメリカに行きたい、高校を見てくる」と言うと、Iさんに相談もなく、ぽんと五十万円を娘に渡してしまう。精神科通院についても「一緒に行って担当医に会ってください」と言うと、「そんな必要はない」とつっぱねる。それでいて娘のオーバードースを知ると、「母親の監督が足りない」と責める。

 そんなことの繰り返しだが、Iさんが内心で憤慨しているのを察知すると、その夫が「ママさァー、ぼく、おながすいたんだよ」と甘えた声を出し、「やっぱりママの作った食事、最高だよー」などとすり寄ってくる。

 Iさんは飴と鞭のような夫の態度に対して、不発弾のような怒りを抱えてきたこと、娘の問題行動も、そうした夫婦関係に起因しているのではないかということに、カウンセリングに通ううちにやっと気がついた。それまで世間の人たちが口々に言うように、「私たちは仲がいい」「ひともうらやむ夫婦」と思ってきたという。

子どもの目に映る「傷つけられた母親」

 父親(夫)によって傷つけられた母親(妻)が、子どもからどう見えるか。それは、ずばり「傷つけられた人だな」と見えるのだ。父親がどんなに母親を傷つけいるかというのは、身近でそれを見てきた子どもが一番わかっている。そして多くは父親を嫌い、そんな父親から離れようとしない母親も嫌悪の対象となる、夫を救おうとすればするほど、子どもが犠牲となっていくのだ。

 父親が母親を殴るのを見せていること自体が、親から子への虐待行為だ。だから、妻を殴るということは、妻に対してDVの加害者になり、子どもに対しては虐待をするという二重の犯罪となる。また妻も、殴られているその姿を子どもに見せつづけることで、子どもに対しは加害者となる。

 ただし、このことはDV問題の落とし穴にもなっているので注意が必要だ。DVについての講演をしばしば頼まれるが、DV単独の講演はきわめて少ない(単独では、決まってフェミニズム系団体が主催)。ほとんどが「DVイコール子ども虐待」という切り口で、テーマは「パパ、ママを殴らないで」。

 DV夫の二重の加害性を問うのではなく、「DVは子ども虐待につながる」「子どもがかわいそう」「子どもを救う」となる。これでは「妻を救え」は落とされてしまって、夫の妻に対する加害性がうやむやになってしまうだろう。また、妻である女性の「母」のみが強調されることで、夫の妻の、男と女の間に厳然とある支配関係が見えなくなってしまう。DVと虐待は繋がっていると強調するだけでなく、DVの被害者である妻(母)を支援することが何より大切だという視点を忘れないようにしなければならない、と思う。

つづく 第四章 女の人生はスマートボール
離婚するひと、離婚できないひと
ペットが「別れない理由」?