「最近眠れないんです。夫にもそのことを話しているんですが、ウンウンって言いながら一分後にはもう鼾(いびき)をかいてるんですから」
 その女性をそこまで悩ませているのは、二人の子どもたちが結婚しないという事実だ。一人は三十八歳の長男、もう一人は三十六歳の長女だ。もちろん二人とも親と同居しながら、毎日働いている。とくに長女は毎日深夜まで仕事をして午前様で帰ってくるという。それを彼女は毎晩寝ないで(目が冴えていても寝たふりをして)、待っているというのだ。

本表紙信田さよ子著引用

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第一章「ロマンチックラブ」幻想

女が結婚で手に入れるもの
「結婚」は世代を超えて連鎖する

 女が結婚で手に入れるものは、いくつかある。愛する男と過ごす時間、二人だけの愛の巣…。でも、そんなものはその辺の女性週刊誌に飽きるほど書かれているので割愛させてもらおう。そしてもっと冷徹な目で結婚を見てみよう。
 第一はパスポートだ。
 今の日本に生きていくのに、私たちはパスポートが必要だ。外国に行くときに空港で提示する日本国のマークの入った赤い小手帳、そして機内で書かれている入国カード。国際線の飛行機に乗ると私たちは、国籍を意識させられ日本人と自覚する。それと結婚はどこか似ている。

 二十歳を過ぎた女性の最大のパスポートは何か。男性の場合は就職している会社名だろう。女性も会社名でいいはずなのに、それでは不十分なのだ。さまざまな場面、銀行窓口、不動産屋での部屋探し、あらゆる場面で査定されるのは既婚か未婚かということだ。既婚者であるとわかったとたん、査定に合格することになる。こうして私たちはこの日本を生きていける通行手形、パスポートを手に入れることになるのだ。

 なぜ結婚が、関所を通り抜けるパスポートになるのだろう。多くの女性が働くようになり、若い男性はやさしくなり、女性をターゲットとする商品が街にあふれていても、「結婚しなければ一人前ではない」という変わらない通念、強固な常識がしぶとく生きているからだ。
 ある中年女性が言った。
「最近眠れないんです。夫にもそのことを話しているんですが、ウンウンって言いながら一分後にはもう鼾(いびき)をかいてるんですから」
 その女性をそこまで悩ませているのは、二人の子どもたちが結婚しないという事実だ。一人は三十八歳の長男、もう一人は三十六歳の長女だ。もちろん二人とも親と同居しながら、毎日働いている。とくに長女は毎日深夜まで仕事をして午前様で帰ってくるという。それを彼女は毎晩寝ないで(目が冴えていても寝たふりをして)、待っているというのだ。

「どうしてそんなに結婚しないのが不安なんでしょうか」
「だって、あの子たちより私の方が早く死ぬに決まってるでしょう。夫はもちろんです。そうするとあの子たちは残されてしまうわけですよね、家族もいなくてそんな寂しい老後をあの子たちが送るのかと思うと、もうかわいそうで‥‥。そんな光景を思い浮かべただけで、胸がつぶれそうな気持ちです」
 
 という答えが返って来る。そして私は詰問するかのように言った。
「だって人間は結婚するものと決まっているんじゃないでしょうか。結婚こそがしあわせを保証してくれと思います」
「あなたはよほどおしあわせな結婚をされたんですね」
「ええ、そうです。主人はほんとにいい人ですし、何の不足もありません。仲がいいと思いますよ」
 彼女の結婚についてどうこう言っても仕方がないだろう。ここで問題にしたいのは、「結婚しない息子、娘」に対する母親の追い詰められたような気分である。結婚こそ幸せという通念は、なんと深く私たちを縛っていることだろう。

 一般的には、結婚相談所にはパートナーを求める男女が相談に行くと思われている。ところが現実はどうも違うようなのである。相談者の多くは親だという。つまり先の女性のように「息子(娘)が結婚しない。いい相手を紹介してくれないだろうか」と親(大部分は母親)がやってきて、条件をいくつか提示して必死の面持ちで息子や娘の結婚相手を探すというのだ。

 娘が摂食障害(拒食症や過食症)の母親たちが例外なく心配しているのは、結婚できないのではないかということだ。体重がどんどん減って痩せてくると、生理が止まる。そうなると母親はさらに心配を深め、なんとか太らせようとする。こっそり娘の生理用品を観察し、カレンダーに生理のあるなしを〇×で記入する。

 そんな話を聞くたびに、私が思い浮かべるのは「産めよ増やせよ」という戦争中のスローガンと、鶏舎でいっせいに餌をついばむ太った鶏だ。「娘はブロイラーか!」と声に出しそうになるのを呑み込むことにも慣れた。

 母親の口から、「女は結婚して子どもを産むものでしょ」という言葉が出ることがある。そうすると、「あなたは結婚してよかったですか」「子どもを産んで幸せでしたか」と思わず聞き返してしまう私だ。多くの答えは歯切れが悪い。「そう言われると‥‥」と黙ってしまうひとがほとんどだ。

 私はイジワルなのかもしれない。とっくに彼女たちの考えていることはわかっているのだから。自分は決して幸せな生活とは思っていない、人生をやり直せるものならやり直したい、夫とも別れられるものなら別れたい。でも子どもには結婚させてやりたい。女としての幸せを味わわせてやりたい。だって、それがふつうの生き方でしょ…と。このような親たちの怨念というか執着の集合としてのエネルギーに支えられて、結婚は世代を超えて連鎖していくのだ。

果てしなく続く女同士の差別化

 ここでパスポートのことを思い返してみよう。外国旅行にそれが必要なのは、私たちが日本という国に所属していることを証明しているからだ。国籍とは、ある特定の国に所属しているという事だろう。

 では結婚とは何だろう。なぜ女にとって結婚がパスポートになるのだろう。既婚、夫アリ、という事実が提示されたとたん、相手はほっとした顔をし、その瞬間、自分が「ふつうのひと」として認められたような、あの何とも言えない感じ、安堵感がこちら側にも湧いてしまうのはなぜだろう。

 さらにそこに出産が加わる。結婚して三年も経とうものなら「お子さんは?」と聞かれる。さすがに最近は結婚年齢、出産年齢ともに上がってきたので三十歳まではそれほど詰問されることはない。しかし、三十代半ばを越えるころになるともう大変だ。本人にしても、いざ子どもをつくろうと思ったのに妊娠しないと「不妊治療」に通ったりすることになる。不妊治療に通う多くの女性が、「子どもが産めなきゃ女の人生、失敗ですから」と言う。

 カウンセラーという仕事にもそれは微妙に影響する。私たちのセンターは全員女性のスタッフで構成されている。カウンセリングにきた人(クライエント)が、「あなたは結婚されていますか」とカウンセラーに質問することがある。それは必ず女性の、しかも既婚のクライエントである。答えが「ノー」だった場合は大変だ。「結婚していない方に私の悩みなんかわかるはずがありません」と反応され、「ぜひ結婚している方に話を聞いてもらいたい」と担当カウンセラーを替えるように要求される。

 出産も同様だ。私も「失礼ですが、お子さんはいらっしゃいますか」とクライエントの女性に聞かれたことは何度もある。その時の内心、「ああよかった。子どもを産んでおいて」と安どしたものだ。私などその点男と女の両方産んだのだから、怖いものなし、もう何でも来い!といった感じだ。「男の子と女の子とは違うでしょ、男の子を育てたことのない人には男の子の母の気持ちなんて分かりっこないでしょ」と言われかねないのだから。

 もし私が独身で子どもがいなかったら、果たしてカウンセラーとしてどうだったのか。一部の女性からはバッシングがあったかもしれない。しかし一方で、異形であればあるほどカリスマ性は増すので、小型カリスマみたいになったかもしれない、と想像したりするが。

 こうして、結婚を最大のハードルとして、そのあとも果てしなく続く女の差別化のことを考えると気が遠くなるようだ。それじゃ一体彼女たちが男性の産婦人科医に対して、「子どもを出産したことのない方に私の診察なんてできっこないでしょ」と言うだろうか。男性の小児科医に対して、「子どもを育てたことのない医者に、親の気持ちなんてわかるはずがないでしょ」と言うだろうか。

 彼女たちは、私たちが医者という権威者でないこともあるのだろうが、同じ女性であるからこそ、そのような分断を要求するのだ。同じ女性だからこそ、経験の差で分けるのだ。差を持って自分と世界が別の人とみなすことを「差別」以外の何と呼べるだろう。

結婚すれば不幸同盟の一員

 そんな女性同士でしか起こらない「わかりあえるひと」「経験がないからわかってくれない」という微細な分断、差別の発生源へと遡っていくと、どうやら「不幸同盟」に突き当たるような気がする。

 結婚して一つずつ奪われていくもの、若さ、自由、経済力。出産して奪われていくもの仕事、経済力、一人でトイレに入る時間。そうやって一つずつ奪われるたびに、いまだにそれを持ち続けている同性の人たちを「別の人」「こんな苦労なんかわからないひと」として排除していく。そうやって同じ女性でありながら、自分が失ってしまったものを持っている人達を排除、差別してでき上がるのが「不幸同盟」なのだ。

 多くの結婚した女性の集団がこの不幸同盟である。そこに入っていくにはルールがある。「私も同じ不幸を経験しましたよ」というルールだ。つまり、この同盟には、出産し、子育てを経験しているという明確な事実をもって加わることができるのだ。
 もう一つは、これこそがこの同盟の核心なのだが、「私、この不幸から脱出したいの」と言ってはならいということだ。「今度仕事に出ることにしたの」と言ってはいけないのだ。そして当然だが、自慢に聞こえること(恐ろしいことにその判断は自分でなくひたすらその同盟の他者に判断を委ねられている)は決して口にしてはいけない。「うちの子、今度A中学に合格したの」なんて、絶対禁句だ。それほど目立つ服装をしてはいけない。ましてや豪華な宝飾品など身につけてはならない。

 つまり、動かしがたくどうしようもないこの現実こそが自分たちのアイデンティティーをつくっているということをみんなで確認し合うことが、その同盟の暗黙の規約なのだ。ではなぜ、そんな不幸が規約によって維持されなければならないのだろう。こう書いてくると誤解が生じるのではないだろうか。

「女というものはこんなに嫉妬深く、向上心もなく、小さくまとまりつづけ、愚痴を垂れ流していくものだ」という、何度も聞かされたフレーズ。もちろん、これをしたり顔で言うのは主に男性なのだが、時には女性が「私はあんなくだらない女の一員じゃないわ」と彼女たちを軽蔑する。私も時としてそんな女の一員になってしまうことを認めよう。でもそれはどこかおかしくないだろうか。女性が女性をバッシングするなんて、私からすればこの上なく辛いことである。
 そんなときに出会ったのが。イブ・コゾフスキー。セジウィック著『クローゼットの認識論』(青土社)という一冊の本だ。

 決して読みやすい本ではなかったが、私なりに要約してみると、男性を中心として構成されているこの世界に女性が参入するのは結婚によってであるということが、実に格調高く述べられている。その参入を所属と言い換えることもできるだろう。つまり一人の男性と対になることで、民法で認められた婚姻関係に入ることで、男性を主要メンバーとするこの世界の一員になるということだ。それは多くのものを失うこと引き換えになっている。ところがそのことに気づくのは、ずっと後になってからである。そして、そのときにはすでに遅すぎるのだ。不幸同盟の発端は結婚にあったのだ。

 パスポートとは所属を表す。とすれば女性は結婚して初めてこの世界に所属すると言ったら言い過ぎだろうか。
 もちろん、男と対になることで、私たちはいくつのものを手に入れる。「ふつうの人生」を送っているふつうのひとであるという保証、保護者としての夫がいる安心感、なにより生活の安定。この不況で揺らいでいるとはいえ、企業名を言うことで夫の背後の企業に妻である自分も守られているという、言ってみれば「企業家族主義」そのものの実感である。

 離婚したてての女性は男から誘われることが多いと聞くと、当の男性そのもののほうがこの「所属」という感覚に敏感なのだと思う。他の男のものである女性には手を出せないから、後ろ盾の男がいなくなった女を誘うのだ。それは女性でなく、背後に存在している同性間の、男社会のルールを気にしているからにすぎない。所有者である男性がいなくなれば、自分がつかの間の関係を持ったところで男社会からとがめられることはないと思うのだろう。
「お寂しいでしょう」などは、男の勝手な言い草にすぎない。私たちはこのように、結婚によって性的被害から守られているのだ。

 不幸同盟に所属することで得るものはいっぱいあるが、失うものも多い。でもお互いに「私たち、いろいろいやなことがあるよね、でも結婚しているからこそこうやって暮らせるんだし、ちょっと我慢すれば毎日が過ぎていくし、こうやって耐えていることがいいことだよね」と確認しているうちに時は過ぎていく。

 苦痛をお互い認め合って、それに価値があることをこれまたお互いに認め合って安心する。そこから抜け出る人がいることで、たとえようのない不安をおぼえる。だからこそ、そのような女性を差別し、排除するのだ。不幸同盟はその背後にある男社会を見えなくし、女が女を差別することで強化される忌まわしい集団である。

過酷なグレードアップ

 今の世の中で、ごくごく当たり前に女として生きたら、「結婚しなきゃいけない」という線が引かれていることを認識させられるだろう。そこで結婚する。結婚すると、親は「ああ、もう片付いた」と言い、同窓会に出ても、「私は結婚しているけど、あの人はまだよね」と心の中で競う。女の人生はなぜかこのように、結婚によってグレードアップするのだ。

 グレードアップとはどういう事だろうか。それは極端に言えば、「ドミナント(世の中の支配的なものの見方、つまり常識的なこと)」な「ふつう」という生き方に自分を売り渡すことだ。自分を売り渡したことと引き換えに、誰からも後ろ指を指されなくなる。まして子供を産めば、「あなたも真っ当な女の道を歩んだのね」と見られるようになる。子どもの数が増えれば増えるほど、そのグレードは上がっていく。つまり不幸とあきらめの度合いに比例して上がっていく仕組みなのだ。

 古い話になってしまうが、戦時下で「産めよ増やせよ」と男たちからかけ声をかけられた母たちは、一人産むたびに体力と若さをすり減らし、何人も生み続けた。かつては、一番下の子が成人する前に力尽きて死ぬ母たちは珍しくなかった。
 ところがここで、恐ろしいことが始まっている。女のグレードがさらに細分化されてきたことだ。結婚する、しない、というハードを越え、子供を産む、子供ができない、というハードルを越えた先にも、さらにいくつものハードルが置かれるようになった。

「VERY」(光文社)という雑誌がある。表紙はかつてモデルやタレントだった女性である。彼女たちの条件は、結婚して(離婚していない)子どもがいること、そして美しく体形が変わらず細いこと。夫はカタカナ職業(IT関連会社、デザイナー、外資系ファンド会社)や資格職業(医師、弁護士)に就いていたりする。

 誌面には、読者モデルたちが、おしゃれで見た目もいい夫と、有名幼稚園にお受験合格したかわいい子どもの三人で、代官山あたりを散歩する姿が載っている。かといって彼女は専業主婦に満足しているわけではなく、趣味を生かした副業を何か一つ持っているのだ。それが生活費のためでないのもポイントだ。フラワーデザイン、ケーキ作り教室といった手芸や料理あたりが一番人気である。プロはだしであっても、決してそれに専念せず、髪を振り乱すこともない。いつも余裕でしあわせな生活を満喫するというスタイルを堅持しているのだ。

 彼女たちの一日は、だいたいこんな感じだ。早起きして子どものキャラ弁をつくり、夫ともに朝食を食べ、夫を見送る、そのあとで「手際よく」掃除して、ジムに行く。そこで一時間ほど汗を流し、昼食はおしゃれなレストランで友人とランチ…。
 読者がすべてそれを信じているかどうかは別だが、読者モデルである女性たちと同じ暮らしをしたとしたら、一週間で挫折をし、少々うつ気味なってしまうと思うほどだ。
 おそらく「夢の世界」が盛り込まれているのだろう。現実にはあり得ないかもしれないが、でも写真で見ればあたかもそんな生活ができるかも知れないと思う。「VERY」は、読者に「夢」を与えているのだ。

 最近では、五十代になったかつてのVERY世代の女性のための「STORY」(光文社)という雑誌までもが創刊された。主婦で子どもがいてもいつまでも若々しくて美しい女性を表紙に登場させ、メインキャラクターとした雑誌だ。なんと恐ろしいことだろう。女性は五十代になってもスリムで、おへその出たTシャツが似合わなくちゃいけないのだ。

 ふつうの世界には無数の階段がある。下にいるひとと上にいるひとの違いは、それはそれは大きい。ふつうとはそのような階段がなければ崩れてしまう。実に不平等な世界のことを指す。
 これまでは、女もそろそろ中年になればオバサンとしてひとくくりにされることで、階段の上と下の差は縮まったのだった。そしてオジサンよりははるかに存在感のあるオバサン化することで、最後はみ――んなおんなじになったのだ。上と下の差が縮まるためには、あきらめることが肝心だ。一つずつあきらめることで、ひとくくりのオバサンの一員になれる。

 ところが「STORY」「VERY」といった雑誌の読者は、決してあきらめない。何でも手に入れるわよ、という気迫に満ちている。
 多くのミセス(このことばも死語に近い)向け雑誌を眺めていると、たしかに結婚後の女の生き方は、以前より楽しく、自由で、いきいきとしているかに見える。でも内実は、熾烈な競争に満ち、細分化されたコースはその女性本人の力によって分けられているわけではない。たとえば、「お受験」であり、子どもの小学校であり、「夫の社会的地位」だ。

 ブランド化された妻たちには、共通した条件がある。「専業主婦」「若々しいプロポーション」「夫の経済力」「名門校に通う子ども」などだ。
 ここまで書いてくると、私たちが生きてきた三十代のころと、今の「VERY」読者たちと、どちらが過酷だろうか、と思う。

 彼女たちは、夫に働いてもらって、そのお金を楽しげに使って、子どもをとにかく一定のルート、ラインにのっけてしまえばこちらのものよ、と思っているのかもしれない。夫をうまく利用してるのよ、と思っている女性も多い。「VERY」世代とは、バブル最盛期に青春時代を送った世代だということを思い知らされる。欲望をたえずかきたてられ、それを満たすにはお金が必要だ、という哲学。このシンプルな哲学はすべてのページに満ちているブランド品の数々を見ていると、私でも納得できるほどだ。

 しあわせは、このようにして買うことができる。 だからこそ、買うことのできないスタイルのよさ、育ちのよさ、生き方のナイスこそが、逆説的にグレードを高めるという果てしない欲望と差別化の拡大再生産が起こる。

パッピー育児というおまじない

 私などとっくに育児の戦争から解放された世代なので、ただ今どのような育児書が世に出回っているのかについてほとんど知る機会がないが、取材を受けて育児雑誌や育児書を送ってもらうことがある。読めば驚きの連続だ。くらくら―っとして倒れそうになる。育児雑誌や育児書があんなに数多く出回っているということは、若い母親たちが子育てついての方向をいかに見失っているということの表れではないだろうか。

 ハウツーに飢えた母たち(ひょっとしてママたちっていうのか)の群れは、私から見ると少々ミゼラブルでもあり、テリブルでもある。つまり、この上なく悲惨で恐ろしい。
 その点はこの際すっとばして、私は「ハッピー育児」という風潮について考えてみたいと思う。これは実は育児だけでなく、あらゆる人間関係、あらゆる嗜好について共通する現象のほんの一部だと思う。

 ある雑誌が「だめんず・うぉ~か~」(「週間SPA!」に連載されている倉田真由美作の漫画)の特集をしていた。「だめんず」とはだめな男。ダメ男、ダメ・メンの合成語だろう。ダメな男ばかり惹かれてしまう女がいかに多いかという特集だ。目の付けところ、企画としては面白いと思うのだが、なんだかちょっと違うんじゃない? と考えてしまうのは私がオバサンだからかだろうか、という自分が少々情けない。

 そこに出て来るのは、ストーカーにつけ狙われやすい女、殴られやすい女、男からカネを貢がせられやすい女などなどだ。それらを「だめんず」に惹かれる女としてくくり、それぞれイラスト化してある。どうして付き合う男という男がこんなにひどいのよ、とほほ‥‥という女たち。でもそれは言ってみれば貢ぐことのできる女、それなりに経済力のある女だけが共有できる「とほほ」であり、笑いだ。「笑うしかない」といった現実であることは認める。でもね、でも笑っておしまいにはしてほしくない、と思う。

 この「笑ってしまおう」という同じ姿勢を「ハッピー育児」という言葉に感じるのだ。果たして育児はハッピーか、などと問うこと自体をその言葉を拒否している。
つまり育児はどうせやらなきゃならないんだったら、ハッピーの方がいいんじゃん!という姿勢を言外に感じ取ってしまうのは、それこそ、ことが過ぎ去ったオバサンのお節介なのだろうか。

 私の実感は育児なんかハッピーなはずがないじゃない、というものだ。それは子どもが可愛くないということではない。核家族でマンションで育児をすること、迷いと孤独とに満ち、不自由に満ち、積んでは壊すといった日々の営みがハッピーなはずがないだろうが、と思う。それはなぜあえてハッピーなどと言わなきゃならんのか―
 おっと、怒り過ぎてはいけない

 ハッピー育児の罪は、ハッピーでないものをあたかもハッピーと言いくるめることではない。もちろんそれもある。しかしもっと恐ろしいのは、ハッピーと感じられない母たちが「自分は母親として何か欠けているのではないだろうか」「子どもを愛したり育児を楽しんだりできない自分に何か欠陥があるのではないだろうか」と自分を責めるようになる事だ。「ハッピーの方がいいんじゃん」から、「ハッピーなはずよ」へと、そして「ハッピーに違いない」「ハッピーでなくてはならない」へと、脅迫の度合いは徐々に強まっていく。

 つまりハッピー育児イデオロギーが育児に疲れた母を抑圧する。その事こそが恐ろしいと思う。
 そこに「自分を愛せない母は子どもを愛せない」などという、アメリカでもさんざん使い古された鼻持ちならない言葉が援用される。そこまで来ると育児をハッピーと感じられない女性は、追い詰められて行き場がなくなるだろう。
 私は育児がハッピーと思えない。
 それは私がおかしいからだ。
 なぜかといえば子どもが可愛いと思えないから。
 それは私が自分を愛せないから、自分が嫌いだから。
 どうしたら私は私を好きになれるの。
 ああ、自分で自分を愛したい。
 ‥‥と、こんな順番で母親である女性たちは追い込まれていく。それは袋小路に追い込まれる以外のなにものでもないだろう。

 そうして行き着く先は、「私は母に愛されなかった」という生育歴を辿ることであったり、自分を好きになるための何か条などという女性誌の記事を真剣に読んだり、傷ついた自分を癒す方法(温泉やアロマテラピーなど)を探すことだったりするだろう。中には、過去に傷つけられた私を抱きしめて癒してあげましょう、というキャッチフレーズのもと、多額の料金を取るイベントさえあるらしい。少なくともそんなことでお金を稼ぐことだけはしたくない、と私は思う。

 なぜハッピーであることをことさら強調するのだろうか。
 ある事柄をさらに強調するのは、たいていそれが崩壊の危機に瀕(ひん)しているときだ。佐渡の朱鷺(トキ)は絶滅の危機に瀕しているからこそ、あのような保護策が打ち出される。交通事故の死者がいっこうに減少しないからこそ、交通安全週間などというものが設定される。自然が荒らされるから、自然保護などという運動が成立するのだ。

 とすれば、「しあわせ家族」や「ハッピー育児」ということばが氾濫し、そのことを嘔(うた)う本が書店に満ちているということは、そのひとたちの足元が揺らいでいるという危機感の表れではないだろうか。

「板子一枚下は地獄」というたとえのように、ひょっとしたら、「家族。親子、 育児などというものがいかに儚く、危ういものであるか」という、決してことばにしてはならない感覚を共有しているからこそ、ハッピー‥‥が氾濫するのではないだろうか。そして女を殴り、食い物にする男たちが増えているからこそ、「だめんず」などという言葉で無害化し、笑いの対象にするのだろう。

恨みをもつのはいいことだ

 このような潮流の起源は、一九八〇年代の少女コミックにあるのではないかと思っている。ハッピー育児の源流は「私たち女はいろいろあるけどこんなに元気なのよ!」というギャグ漫画にあるという仮説を立ててみよう。

 そんなコミックに登場する女(といっても十代後半から二十代前半だが)は、大きく足を開いて立ち、腕組みをしている。そして「ガハハ…」となぜか男のように笑っているのだ。そこには弱っちい男が登場してダメな男を演じている。時としてそんな男を女は蹴ったりする。
 痛快で潔(いさぎよ)いそれらの女の姿は、当時子どもが生まれて間もなかった私には、実に新鮮に思えた。バギーで子どもを連れ、本屋の店先でよくこの手のコミックを立ち読みしたものだ。「こんなコミックを描くひとがいるんだ」と。そこには悲壮感はなく、犠牲者ぶった悲しみもなく、実にドライな、現実をざっくりと切り開いて大股で歩いていく女が笑いとともに(これがポイントだろう)描かれていた。
 視点を育児雑誌や育児書に戻してみよう。そこには子どもの生態が面白おかしく描かれ、笑いとともにハッピーな育児をしょう! というメッセージが流される。

 私は虐待の問題にカウンセリングを通して関わることが多いのだが、多くの母たちは先に述べたように「育児が楽しくない」「子どもが可愛くない」と言って悩んでいる。そこには、「育児が楽しくて、子どもが可愛くてたまらない」のでなければ母親として失格という暗黙のハードルが設定されている。

 私が「笑ってしまおう」という、こうした風潮に抵抗を覚えるのはなぜだろう。それは現実の不平等、不公平を「見ないでおこう」という力が働いているように思えてならないからだ。
 キャリアウーマンを夢見ていた自分が、出産と同時に仕事をやめ、紙おむつを子どもにあてて、離乳食をつくっている。ほっと一息ついて鏡の中の自分の顔を見てみる。
 夫は子どもが生まれてからますます仕事が忙しくなって、それなりに育児に協力してくれているものの、やはり帰りが遅い。やっと子どもが昼寝をしてくれた。十二階のマンションの窓を通して、眼下の公園で遊んでいる子どもたちの声がこだまのように聞こえる。ベランダに出て洗濯物の乾き具合を確かめながら、遠く都心の超高層ビルのオフィス街を眺めていると、今この自分の立っている位置との途方もない距離が痛いほど感じられる。

 そんな人たちにとって一方の現実を見ないですむおまじないが「ハッピー育児」なのだ。どうしようもないこと。今さら変えられようもないことであれば楽しく生きる、元気に生きる、そんなママになって生きる、これがハッピーなのだ。

 でもね、と言いたくなる。あなたたちに恨みはありませんか?
 夫への怒りはありませんか? オヤジたちに言いたいことはありませんか?
 それをちゃんと意識してもらいたい。架空の現実をつくるのはしかたがない。でも、その足元に広がる楽しくない育児、苦痛な育児、ばかばかしいほどの日常の家事の累積をちゃんと見てもらいたい。

 恨みをもつのはいいことだ。パッピーという言葉に変換するのではなく、無交換のまま恨みとしてもったほうがいい。
 問題はその恨みどのようにして晴らすか、どのように処理するかということだろう。それはこの本の、中心的テーマでもある。

「結婚は人生の墓場」の本当の意味

男と女で違う「墓場」の意味
 不幸同盟は少数派なのだろうか。とんでもない、彼女たちの同盟はこの上ない権威をバックにしている。それは「常識」である。

 二十一世紀になっても日本がそれほど変わっていないと思えるのは、この地下水脈のような常識に触れるときだ。それは澱んだ空気のように、時には圧迫する気配とともに私たちを強制していく。これに一番敏感なのが意外なことに若い人達だ。学校教育の影響が大きいと私は踏んでいるのだが、とにかくこの気配に敏感だ。

 さて、結婚したと同時に「妻」、そして子どもを産んだ瞬間に「母」と呼ばれるようになるのだが、この名前を与えられた途端、まるで竜巻のような常識の渦に巻き込まれることになる。さまざまな行事、一気に増える親類の付き合い、そしてママ同士の付き合いなどは、私たちをぐるぐる巻きに拘束し始めるかのようだ。それを拒否することは極めて難しい。少数者になるからだ。少数者になることの恐怖は、いわずもがなだろう。

 その中に入っていれば不幸かも知れないが、その不幸が常識の世界では勲章になっていくのです。という甘い誘いがそこには満ちている。たとえば子供の公園デビュー、幼稚園入園、保護者会、これらの集団のもつ、あの独特の強制力をなんと呼んだらいいのだろうか。

 ちょっと変わっている人、同調しなかった人、自分たちに持っていないものを持っている人、それらを敏感に嗅ぎ分けて排除していく圧力は、言語化できないだけに圧倒的なものがある。東京・音羽(おとわ)の女児殺し(1,999年に発生し「お受験殺人」と騒がれた幼児殺害事件)の母親同士の関係を解くカギは、ひょっとしてこのような言葉にできない圧力、そしてその吹き溜まりに発生する異様な執着と言ったらところから解読できるのではないかと思ってみたりする。

 仔細(しさい)に眺めれば、そこには男社会にこのような形で所属したことによって、得たもの、失ったもののせめぎ合いがある。しかし失ったものを不幸とか喪失と簡単に自覚することはできない。それは今の所属そのものを根底から揺るがすからだ。だから同じ状況にいる人たち、そこか決して抜け出ようとしない人たちで固まり、その中で、男社会や夫婦関係で繰り広げられるのとそっくりそのままの支配ゲームを繰り広げるのだ。

 結婚するという事は、妻、母という名前を手に入れることであるが、それは同時に掟に満ちた社会に参入することでもある。「対になることで得た所属によって生きている」という暗黙の前提があるから、そこから脱け出すことは困難である。
 マンションのイタリアンテイストでコーディネートされたインテリアのリビング、そこに革張りのオフホワイトのソファに座って紅茶を飲む。窓の外には超高層のビルの灯りがきらめいて見える。しかしその世界の周囲には、ひょっとして触ったらいけない高圧電流の流れる有刺鉄線が張り巡らされているのではないだろうか。

 それにしても「結婚は罠である」というのはうまい表現だ。パスポートを手に入れ、そこから普通の女の人生に入っていくこと、それがゴールなのである(結婚は「ゴールイン」するものだ)。ところがゴールから先は見えない。いや、見えなくさせられているのかもしれない。そこから先に待っているのは、何だろう。罠かも知れない。ひょっとして今の若い人達はそのことが分かっているから、できるだけ結婚を遅らせようとしているのではないだろうか。

 実にそれは賢いことだ。そのような賢さは、親である私たちの世代が彼ら彼女たちの前で繰り広げた家族ドラマを見る事で得られたのかもしれない。そうか、こんなものか。ゴールの先に続くのは、こんな寒々とした光景か、と。とすれば、少しは私たちが貢献していることになる。

 別の視点から見れば、不況の世の中、わざわざ結婚して経済的に苦労するよりも、親の元で暮らしてとりあえず何の苦労もなければそれでいい、と考えているのかもしれない。

 小倉千加子著『セクシュアリティの心理学』(有斐閣)によれば、こんなに結婚幻想が大きい国であって、なおかつ若い女性の結婚年齢の高い国は日本だけだという。それはふりまかれている幻想と現実のギャップ、解離を、今の働く女性は、男社会の中でよくわかっているからだと書かれてある。

 もう一つ書かれているのは「ヤンキー早婚の法則」だ。私なりに考えてみると、低い給料で働く人ほどはやく結婚するのは、収入を倍にして部屋代を共有できるからだろう。こういう二極分化が結婚を巡って起きていると思う。

「結婚は人生の墓場である」とは有名な格言で、結婚式にコレを言うのは単に笑いをとるだけだ。しかし注意してみると、男と女では意味合いが違う。男にとっては「これで他の女と付き合うのが制限される。浮気になってしまうから」ということだろう。つまり建て前であれ、性的に独占されることによる弊害を墓場と言っているのだ。

 一方、女性はどうだろう。女性にとっては本当に墓場ではないか。なぜなら、夫と婚姻家計を結ぶことで得られる既得権益によってのみ生きるからだ。それこそが生命線なのだ。一人の男性との対の関係に自分を賭けるなんて、まさにギャンブルだ。当たりもあれば、外れもある。しかしどちらであったとしても、このギャンブルの場から出ることは、世界を失うことにもひとしい。だから多くの女性が不幸を共有し(不幸を勲章とし)、世界から脱落をせずに生きるのだ。不幸を勲章にするなんて、抜け出ようとする人の足を引っ張るなんて、それは墓場に違いない。

「嫁に行かせればいい」って?

 最近、腹が立つことが多いのだが、今の時代になっても、「嫁に行かせればいい」などという父親がいることには心底、腹が立つ。

 愛情深い顔をした初老の紳士に、三十歳を過ぎた摂食障害の娘がいる。そのかれが、「もう治らないだろう。せめて嫁に行かせれば」と真剣に言うのだ。たぶん彼は、心底、結婚こそが女の幸せだと信じているのだろう。そういう彼はしょっちゅう妻を殴っていたくせに、である。このような思考に時としてついてはいけなくなる私がヘンなのだろうか。

 もう一つ可能性としては、結婚させれば、親としての責任を逃れたことになると思っているのかもしれない。明治時代や江戸時代の人買いの論理とどこが違うのだろうか。まさに「女は三界に家なし」を父親が示しているのだ。親の言うことを聞かせて一人前にして、別の男に譲り渡して、そこで手打ちをして、「どうも、こんなふつつかな娘をもらっていただいて‥‥」と頭を下げる。
 父親だけではない。こんな母親もいた。
 そのひとの娘も摂食障害で、万引きを繰り返していた。摂食障害のひとは、食べ物をスーパーなどで堂々と万引きをする。あまりにも堂々としているものだから、店員が見逃すことが多いと聞くが、それでも回数が重ねればいつかは捕まる。このひとの娘の場合も見つかり、最終的には裁判にまで至った。

 娘は、母親とその愛人(夫と死別し、その後年下の男性と付き合っていた)が旅行に行くと、「一緒に行きたい」とついていく。二十六歳なのに、母親と愛人の間に寝るのだ。そしてなぜか下着は母親と共有していた。母親がどれだけ嫌がっても、いつのまにか母親の下着を履いているのだった。少々グロテスクだが、今から十年以上前の話である。

 つい最近、その親子のその後を機会があって知ることになった。母親は娘に結婚させていたが、結婚しても症状は変わらず、相変わらず万引きをして、相手の男から「別れたい」と言われたという。厄介者を別の所に送ったのに、また送り返されて来るという恐怖から、母親が娘に別れないようにと説得にかかったというのだ。
「あなたの人生はあなたのものよ。何したっていい。やりたいことをやりなさい」
 受験や就職のときにはこんな耳当たりのいい言葉を散々使っておきながら、いざ娘が人生で挫折して期待を裏切ったと見ると、結婚させて手打ちをしようとする親の態度。そんな親に接すると、「ブルータス、汝もか」と思ってしまう。水戸黄門の印籠というか、スペードのエースというか、問題を抱えた娘の人生を「結婚」によって封じ込めてしまおうとする親は驚くほど多い。

 小津安次郎の映画を思い出す。どの映画もかなり愛好しているのだが、どうしてもなじめない部分がある。「お父さん、私、もう行かなくてはね」「おまえ、行ったらどうだい」というように、「行く」という言葉が何度も出て来るところだ。題名は忘れてしまったが、宿屋の同じ部屋に泊まった父親が、ふとんに座って語り合うシーンだった。その原節子と笠智衆との会話は、いまでもはっきりと思い出せる。

 正直言うと、最初はその意味がわからなかった。結婚意味する言葉を「行く」と表現するのは何故だろう。「行く」は「逝く」つまり「死ぬ」ということを表しているように思えてならないのだ。

「片付ける」「片付く」という言い方も同じだ。これらも「死」を意味する言葉でもある。女にとっての結婚はやはり、それまでの人生の死なのだろうか。

愛と性と結婚

 私は常々、「ロマンチックラブ」信じてきたのは誰かと考えてき。それはどうやら女性のほうらしく、男性はあまり信じていないようなのだ。
 結婚は幸せを約束するものであり、愛する人と結ばれることが人生最大の幸福であるとする考え方、すなわち「愛」と「性」と「結婚」の三位一体をもって女性の人生の幸せとする強固なイデオロギーが、この二十一世紀の女性たちは根強く残っていることに驚かされる。女性の多くが今でもロマンチックラブに自分を賭けて結婚していく。

 これに対して、家族を形成して家長になる、家の血縁を残す、妻をもらえば働きやすいなど、男たちにとっての結婚はいろいろな要素が入って来る。それを象徴するような事例を一つ紹介しよう。世の中には「よくあること」だろう。

 ある夫婦の関係が壊れた。夫に好きな人ができたからだ。そこで夫は、「別れたい」と妻に告げた。非常にフェアな男性だ。ところが妻は「別れたくない」と言うし、彼の方の親族は寄ってたかって、別れる事に反対する。
 そのとき、彼の父親が次のように言ったという。

「おまえな、俺だって、浮気は四回も五回もした。でも、結局母さんのもとに戻ったんだぞ。それでよかったんだ。だから、おまえもそうしろ」
 父親ばかりか、叔父からも誇らしげに同様なことを言われた彼は、「そういうことを言うのか」と啞然とした。

「浮気しても妻と別れたくない」ことがそんなに素晴らしいことなのか。誇らしげに言う事なのだろうか。「妻を捨てなかった」と息子や甥に胸を張る男たちと、どんなことがあっても夫と離れないことを良しとする女、まさに出来レースである。

 妻以外の異性を好きになったり、あるいは浮気したなどということは妻に対してはもちろん、妻以外の人間に対しても隠蔽するのがルールではないだろうか。墓場まで持ってくべきなのだ。知らなければ、なかったと同じだ。虚構であろうと、それを貫く。それは最低限の妻への思いやりというものだろう。それが出来ないなら別れるしかない。

 一夫一妻制は、こんな虚構によって維持されることもある。そして、そういう残酷さも含んでいると考えるべきではないだろうか。

「男なんてそんなもの」からの前進

 ある政党系の新聞に私へのインタビュー記事が掲載された。そこには家族問題をカウンセリングで解決するという私の仕事内容も紹介されていた。その新聞の読者層が一定程度の問題意識を持っている人達であるせいか、反響は大きかった。ときどきテレビに出演することもあるのだが、その反響とは大きく異なった。

 たとえばテレビなどは、「知り合いのことなんだけど」「子どものことなんだけど」「甥が引きこもりで」‥‥といった反応が多い。つまり相談というのは自分の問題ではなく、だれが他者の問題の相談がほとんどを占めるのだ。

 ある人が「人生相談」とは「他人の人生相談」であると言ったが、まさにそうだ。それに比べるとその新聞の反応は違っていた。「自分の人生」の相談でやってくるひとがほとんどだったからだ。

 その「自分の人生」の問題が何だったか。そこにこれまた実に興味深い共通点が見られた。その主訴の圧倒的多数が「夫の浮気」だったのだ。これを自分の人生の問題と考えることが素晴らしいと私は思うのだ。つまり彼女たちは「夫の浮気をどうしたら止めさせられるのか」と考えているのではなく、「私の人生は果たしてこんな苦しいままでいいのだろうか」「どうしてこのようにして私が苦しまなくてはならないのだろうか」と考えてやってきたのだ。

 多くは四十代後半から五十代にかけての女性だ。彼女たちが愚直なまでに信じてきたのは「夫婦の愛」である。一夫一妻制のもとで結婚し、夫を信じ、出産し、専業主婦として子どもの教育に励み、家事をこなし、当然浮気などすることもなく、生きていきた。

 あるときBさんは、夫の携帯電話に女性からのメールが入っていることがわかった。夫の入浴中に何気なくズボンのポケットから落ちた携帯電話を見たことがきっかけだった。その女性のアドレスは、妻である自分の名前で登録されていた。

 Cさんは、会社の上司からの緊急連絡を夫に取り次ごうとしたとき、出張中と信じきっていた夫と連絡が取れず、実は女性のマンションにいることが発覚した。

 Dさんは、郷里での同窓会が終わってからの夫の様子が何かおかしいと感じた。問い詰めたところ、夫は四年越しの愛人がいることを認めた。
 どの夫も、妻が問い詰めると、あっさりと付き合っている女性がいることを認めた。それから彼女たちの狂乱が始まる。これは子どもが成人してともに中年を迎えた夫婦ばかりでなく、子どもが中学生、高校生という思春期真っただ中でも起きている。
 揃って共通しているのは、彼女たちが心の底から夫を信じ、幸せになろうとして努力をし、精一杯生きてきたということだ。機会がなかっただけかもしれないが、浮気をする訳でなく、夫と子どもに囲まれて平穏な日常の日々を送っていた人たちだ。

 それが夫の「裏切り」によってすべてがひっくり返ってしまった。その衝撃を一体どう考えたらいいのだろうか。
 夫に愛人のいることが発覚してから食事が喉を通らず十キロも痩せてしまった、夫の全てが信じられなくなり、眠れなくなって精神科に通い、睡眠薬と安定剤なしでは暮らせない、夫を責めると逆ギレされて殴られ、片方の耳が聞こえない、夫の持ち物をすべて検査し、ストーカーめいた追跡行動をとってしまう‥‥。

 聞く人がきけばお定まりの夫婦のいさかい、よくある話、と片付けられてしまうのかもしれない。テレビドラマで頻繫に描かれているテーマでもある。そしてうろたえなくなることが、あたかも成長の証のように称賛される。
 ところで、彼女たちは果たしてそんな打撃を受けるほど夫を愛していたのだろうか。つまり、夫への愛に比例して苦痛を味わっているのだろうか。私にはそうは思えない。

 彼女たちが苦しんでいるのは、プライドをズタズタにされたからである。契約違反をされ、信頼を裏切られたからである。一夫一妻制とは、他の異性より自分が最優先され、性的にも独占できることを公認されることだろう。その優先性、プライオリティーを疑いもなく信じる事で結婚した女性が、それを見事に夫によって否定される。それがプライドか、と言われれば実にささやかな誇りかも知れない。しかし、そんな、見ようによってはささやかなプライドによってしか支えられないのが妻の座というものなのだ。

 男たちは悲嘆にくれる妻を見て「こんなに自分を愛していたのか」と自惚れるかもしれないが、それは違う。愛を失ったとして苦しんでいるのではなく、自分を支えてきた基盤が崩れ、信頼を裏切られ、人間としてのプライドが傷つけられて苦しんでいるのだ。それはそのまま、ロマンチックラブ・イデオロギーを信奉し、そして挫折したことである。

 しかし私は、「男なんてそんなものよ。男の身勝手にいちいち反応しないでドンと構えなさい」とアドバイスされて泣き寝入りする女性に比べると、数段ましではないかと思う。そこまで信じ切ったことは、それに人生を賭けたこと、それこそがイデオロギーを生きるということだろう。あらゆるイデオロギーは、ある日簡単に捨ててしまうより、とことんそれに自分の人生を賭ける方が、ずっとずっと素晴らしい。少なくともそれが自分を大切にするということだ、と私は思う。

浮気されても殴られても

「耐えつづける」という女の王道
 カウンセリングで会うのは女性が圧倒的に多いのだが、感動的な出会いと思えるひとが何人もいる。その中の一人に、六十歳を過ぎて家を出た女性がいる。今でもときどき思い出すが、実に潔いひとだった。

 結婚当初からずっと夫から殴られつづけてきた。それでも息子二人をやっと育て上げたが、夫婦二人になってからも夫は殴る。彼女は貯金も全額もって思い切って家を出た、六畳一間のアパートに住んだ。息子たちは彼女の見方をして自分の所に来いと言うが、それは嫌だと拒否をした。カウンセリングにやってきてから私の紹介した弁護士と会い、一年後に離婚した。敢然としたひとだった。

 もう一人の女性は七十歳半ばを過ぎていた。腰を痛めていて、杖をついてカウンセリングにやってきた。彼女は本を読み、「共依存」ということばを知り、「私、今まで、誰かのために生きてきたけど、この歳でなんですが、私のために生きたいです」と言ってやってきたのだ。
 長年、夫のアルコール依存症で苦しみ、その夫が脳梗塞で死亡して半年後の事だった。職業柄、あまり泣かない私が、思わず、涙が出た。こんなことを男が言うだろうかと思った。
「お国のために」「会社のために」と言いこそすれ、「自分のために」なんて言うのか。
 ひどい目に遭いながらも結婚を続けるというのは、長い間、女の王道だった。それによって女自身が支えられてきたりもしたのだが、それよりも、苦痛な結婚生活に耐えることを女の王道とする考え方が最も寄与してきたのは、男を中心とする社会システムの維持においてだ。

 それにしても、王道とは何だったのか。勲章は誰の為だったのか。
 近年ではそのシステムが揺らいでいる。それによって、王道という衣の下に隠れていた夫婦、親子の複雑な支配関係やその被害者が表に出て来るようになった。もっと一気に出てくればいいと、わたしは思っている。

妻は所属、夫は所有

「このひとは私がいないと生きていけないのだわ」という女の表現の意味するものと、「この女は俺がいないと生きていけないんだ」という男の表現の意味するものは、まったく違う。前者は、秘書にスケジュール管理を任せてしまっている社長が、自分では予定を把握できていない状況と似ている。妻がいなくなると、洗濯も食事もままならないということだ。ところが後者は、社長あっての秘書ということであり、「おまえは誰のおかげで食べているのか」と夫が妻を脅すことばである。

 つくづく女のほうは所属なのだと思う。そして男は所有である。所属先を失うのは、たとえば国外追放に似ていないだろうか。所属先を失うということは、国籍を失うこと、難民になることだ。
 子どもを置いて男と駆け落ちするというのは、所属先替えということだろう。その転職に子どもが邪魔であれば置いていく。それはよくあることだ。

 しかし新たな所属先がないとき、たとえば夫の浮気、暴力で別れるときにはどうするか。一つの強力な方法として、所属先がないが(つまり新たな男はいないが)、母ということだけで生きるという選択がある。子どもを連れて、母子家庭で生きるというのは、それはそれでみんなから同情が得られ、健気だという目で見られることになる。そこにあるものは母性というものに対する社会的認知である。当然、駆け落ちした女性より、子どもを抱えて生きる母子家庭の女性の方に社会は味方するだろう(ここから私たちが学ぶべき、「母性」というもの「制度」としてつくられたものであるということだ。これについては第二章で読んでほしい)。

 そのいずれでもなく、つまり、新しいし男もなく子も連れずに一人で生きることを選択する女性は少ないだろう。
 それが出来ないのは経済的理由だと考えられていた。かつてのフェミニズムはそうだった。経済力がないと離婚の自由もない、ということばをよく聞かされたものだ。でも、そうじゃない。たしかに経済力の問題は大きい。でももっと大きなものがある。それは所属先を失うことへの恐怖ではなかろうか。実際に私は、浮気されても殴られても離婚しない、女性の医師や弁護士を知っている。彼女たちはいうまでもなく、社会的地位も経済力もある。

 離婚できるのは、新たな所属先(多くは男)をつくっているひとか、もしくは、所属先を失うよりも大きな恐怖や苦痛を受けているひとではないだろうか。たとえばそれは、DVによって脅かされる生命の危機だろう。暴力は我慢できて殺されるのは怖い。だから逃げようという事なのだ。

 また仕事を持っていれば、職場という所属先があるのだから、ないひとよりは別れやすいかも知れない。あとは実家に出戻りという表現がそれを象徴している。実家から出て夫に所属して、また実家に戻って親に所属するということだ。一方、男のほうはどうかといえば、「出戻り息子」などとは言わない。男にとって結婚は、所属でなくて所有であるからだ。

夫と妻で異なる離婚の意味

 私たちのセンターを訪れるクライエントには、先述したように、「夫の浮気に悩んで」というひとが増えている。逆に、裏切ったことが妻に発覚し、妻に何年もの間責められ続けている夫も来る。「どうやったらぼくは、償えるんでしょうか」という夫たちだ。毎晩寝る前になると、妻がわめき、怒りの言葉を吐き、一時間も二時間も責めるのだ。

 そういう夫婦が、なぜ別れないのか。つらいのに別れないというのはDVで見ると一番よくわかる。極端な現象こそ関係がはっきりと見えてくる。
 ひとはふつう、殴られれば逃げるのに、夫から殴られた妻はなぜ逃げないのだろうか。

 彼女たちは、いろいろなことを言いながら離婚に抵抗する。
「夫を愛している」
「あのひとは私がいないと生きていけないんです」
「だって、このひと、家事もできないでしょ。洗濯だって、洗濯機のボタンひと押せないわけだし、お掃除だって私がするんだし。こうやって私が我慢をしてこのひとの面倒を見ているから、このひとは会社にも行ってられるのよ」
「経済的に不安です。こんな歳になって、どうやって生きていけるのか」
 まるで判を押したように、離婚しない理由をこのようにまくしたてるDVの被害者がどれほど多いことか。

 しかし、最大の理由は、ほかの所にあるのではないだろうか。日本という国で女性として生まれ、結婚して子供を産むという「ふつうである」ラインに乗るということから外れる恐怖こそが大きいのではないか。そのラインから外れないようにするために、妻たちは悪戦苦闘する。

 男にとって、結婚は男社会を支える制度の一角であり、踏み台であり生活の一部である。そしてその制度は妻を所有することで成り立っている。だから、男は妻と別れても、別の女を所有すればよい。所有対象が替わっても所有者の地位やアイデンティティーは揺るがない。
 一方、女にとってどうか。結婚は、制度に入っていくことであり、所有されること、所属するということだ。妻が所属を失うということは、一種の亡命にも匹敵し、アイデンティティーの一部を喪失することである。彼女たちが離婚ということばで思い浮かべられるものは、収入の少なく、たったひとりぼっちで生きるというイメージである。それよりも今の生活に耐えるほうがまし、と考える人が圧倒的に多い。

 このように、離婚というもの意味は、結婚の持つ意味がそうであったのと同じように、男と女では決定的に異なる。妻にとっては、時には別れないでいることがプライド守ることになるのだ。
 DVの被害者の女性についての、「なぜ逃げないのか」「なぜ別れないのか」という疑問に対して、「暴力というのはひとを無力にし、無力化した妻は別れる気力も起きないからだ」と説明される場合がある。しかし、これでは答えの半分にも満たない思う。彼女たちが別れないのは、殴られることさえ我慢すれば難民になることもなく、収入は保証され、一人にならずにすむ、そのほうがましだと信じ込んでいるからではないだろうか。

東電OLとの共通点

 別れない理由を別の視点から考えてみよう。
 事実婚でもいい。「男がいる」ということのもつ価値は比類ないものだ。その世の中では、女を所有して(家庭をもって)こそ一人前であるとされる。一方、女は、男に認められ所有されることで一人前の女と認められる。その「一人前」の意味と重さは違う。養っている妻子がいてこそ一人前という意味と、男と番(つがい)になることで価値が承認される一人前とは全く違うのだろう。

 東電OL事件の殺された女性は、なぜ毎晩、渋谷の街に立って客をとっていたのか。一流大学を卒業して総合職として大企業に入社し、同世代の男性社員と同程度の年収があった。三十代後半で未婚という一点を除いては、人並み以上の人生を歩んでいたひとだ。

 推測でしかないのだが、DVの妻が夫と別れないことと、彼女が売春していたことの根っこには、同じものがあるような気がする。それは、男の性的対象になることが女の価値を決めるという仕組みである。
 女性代議士のほとんどがきれいに化粧をし、夫も子どももいるということも同様だ。男の性的対象であること認められ、出産という経験を経て、つまり妻・母という役割を両手に握った女性のみが、やるべきことをやったひととして、その一員になれるのである。
 だから、逃げない、別れないのは、本人の責任、本人の問題ではなく、どう考えても男性にとって有利にしくまれている社会の構造や法律によるものなのだ。

つづく 第二章 夫を救おうとする妻たち
「共依存」のひとたち
勝ち誇った笑み